シーン7:『中層の洗礼と涙痕』
――ひとつだけ、先にお伝えしておきます。
これは、純愛物語ではありません。
それだけ覚えて、この先をお楽しみください。
第四層までの石造りの通路とは一転し、第六層へと足を踏み入れた瞬間に、ダンジョンの空気は重く、禍々しい瘴気(魔気)を帯びたものへと変わっていた。
周囲の岩肌は内出血を起こしたかのように赤黒く変色し、天井の暗闇からは、じっとりとした湿気混じりの不気味な風が吹き抜けている。
「……あの、薫さん。中層からは化け物の強さが跳ね上がるってギルドで聞きました。でも、安心してください。何が来ても、僕が絶対に薫さんを守りますから!」
カメラが回る前のわずかな静止時間、城ヶ崎湊は、大剣の柄をぎゅっと握りしめながら、鼻息荒く宣言した。
隣に立つ千歳薫は、そんなミナトの気負い切った視線を受け止めると、大人の色香に満ちた艶やかな微笑みを浮かべ、手元に視線を落とした。
彼女の手にあるのは、小さなリボンがかけられた、ガラス製の小瓶だった。数日前にミナトが自分の雀の涙ほどの取り分から、彼女のために一生懸命選んでプレゼントしてくれた高級ハンドクリームだ。
薫は何気ない様子でその小瓶の蓋を開けると、白いクリームを自分の手の甲へと少しだけ落とし、滑らかな指先で優しく馴染ませていく。
「あ……っ、薫さん、それ……!」
それに気づいたミナトが、パッと顔を輝かせて嬉しそうに声を上げた。
「ええ、すごくお気に入りなの。ミナト君に貰ったこのクリーム、すっごく香りが良くて、肌にしっとり馴染むのよ。おかげで、毎日重いカメラを握っていても、全然手が荒れなくなったわ。本当にありがとうね、ミナト君」
「あ、あはは……! い、いえ! 薫さんにそんな風に使ってもらえるなんて、僕、本当に嬉しいです……!」
ミナトは顔を一瞬で真っ赤にし、有頂天になって頭を掻いた。
自分の贈ったプレゼントを、憧れの女性がこんなにも大切に使ってくれている。その圧倒的な幸福感と忠誠心で、彼のピュアな胸はいっぱいになっていた。
その時、薫の耳の奥に仕込まれたインカムの向こうから、統括ディレクターの栂野の、低俗でニヤついた声が響いてくる。
『いいねぇ薫ちゃん、配信前から演技バッチリじゃん! その調子でミナトくんをどんどんハメちゃってよ!』
栂野のゲスなコメントが耳に滑り込んできた瞬間、薫は不快そうに小さく眉間にしわを寄せ、栂野に拒絶を示すようにフイと頭を横に振った。
『おっと、薫ちゃん、インカム越しでも眉をひそめたのがヘアピンカメラの映像で丸分かりだよ〜? まあいいや、千早ちゃんタイマースタート! タイトルは【大剣ルーキー、未知の中層へ突入!お姉さんを守る『騎士』の新たな挑戦!】だ。薫ちゃん、スイッチ入れて!』
薫は栂野の声を頭の中から閉め出すように、メインカメラのスイッチをパチンと入れた。赤いランプが血のように点灯する。
「――さあ、リスナーのみんな、大変お待たせしました! カメラマンの薫よ。今日からはいよいよ、未知の領域である『中層』の探索に突入します! 今日もミナト君が、みんなに挨拶したいって張り切っているのよ?」
薫が優しくカメラを向けると、ミナトは少し緊張で肩を強張らせながらも、レンズをまっすぐに見つめた。
「み、みなさん、こんにちは! 冒険者のミナトです。中層はすごく危険だって聞きましたけど……僕、後ろにいる薫さんを絶対に守って、もっともっと強くなります! 今日も応援、よろしくお願いします!」
配信に少しずつ慣れてきたのだろう。まだ笑顔こそぎこちないものの、カメラに向かって堂々と決意を語るミナトの姿に、配信のコメント欄が津波のような速度で動き出した。
【コメント欄・冒頭】
『中層編キターーーー!!』
『ミナトくん挨拶えらい! 笑顔ぎこちなくて可愛いなw』
『タイトルお姉さんを守る騎士って最高かよ!』
『ミナト! 今日もカメラマンのお姉さんをしっかりエスコートしろよ!』
同接数が開始一分で早くも四万人を突破する中、赤黒い通路の奥から、無数の怪しい影が音もなく滑り出してきた。
中層の洗礼――『プレデター・ハウンド(血に飢えた魔犬)』の群れだ。
時殻のような黒い体毛に覆われ、その顎からは、浴びた返り血を腐らせる瘴気のヨダレが滴り落ちている。数は六匹。上層のゴブリンとは比較にならない速度で、一斉に襲いかかってきた。
「ミナト君、来ちゃったわ……! 気をつけて!」
「薫さんは僕の後ろに! ハァァァッ!」
ミナトは大剣を引き抜き、果敢に魔犬の群れへと躍り出た。
しかし、中層の化け物の俊敏さは、ミナトの想像を遥かに超えていた。大剣を大きく振り下ろすものの、ハウンドたちは漆黒の影のようにその剣筋をひらりと回避し、逆にミナトの死角へと回り込んでいく。
「が、はっ……!?」
鋭い牙がミナトの脇腹を深く切り裂いた。防具の金属が弾け飛び、生々しい鮮血が赤黒い床へと飛び散る。一匹を怯ませても、すぐに二匹目、三匹目が彼の四肢へと噛みついていく。圧倒的な速度の前に、ミナトの粗削りな大剣術は完全に翻弄され、防戦一方のままじわじわと肉を削られていった。
(クソッ……強い……! でも、ここで弱音なんて吐けない。後ろで、薫さんが見ているんだ……!)
恐怖に押しつぶされそうになるミナトの耳に、メインカメラを構える薫の、取り乱した声が飛び込んできた。
「嘘……ミナト君……っ! 嫌、そんな……血が……!」
カメラを構える薫の手が、微かに震えていた。ボロボロになっていくミナトの姿を見つめる薫の切れ上がった瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ち、頬を伝っていく。
配信のマイクには、彼女が本当に心配そうに、小さく鼻をすする生々しい音までがはっきりと混ざり込んでいた。
「お願いミナト君、もう無理しないで……っ! グスッ……私を置いて、一人で逃げて……!!」
必死に自分を気遣って涙を流してくれる「薫の姿」。その本物の温もりに、ミナトの魂は激しく震えた。
逃げるわけがない。僕の命に代えても、この人を無傷で地上へ帰す。傷だらけで戦えば戦うほど、彼女が僕を「特別な騎士」として見てくれるのだから!
「おおおおおおお!! 薫さんを……絶対に、置いていくわけがないだろうぉぉぉッ!!」
ミナトは防御を完全に捨てた。
自分の命を削って敵を圧殺する、致命的な一撃必殺の大振り。ハウンドの牙が肩肉を抉るのも構わず、ミナトは絶叫しながら大剣を凄まじい力で叩きつけた。
【コメント欄・戦闘中】
『ミナトまじで無茶しすぎだろ!! 死ぬぞ!!』
『お姉さんが半泣きで鼻すする音入ってるじゃん……男気半端ねえ……っ!』
『カメラマンさんを置いて逃げられるわけないもんな、ミナト頑張れ!!』
『うわあああ大逆転しろ! ミナト、これで回復薬を買えええ!!【赤いスパチャ:100,000円】』
『俺も出す! お姉さんを泣かせるなミナト!!【赤いスパチャ:200,000円】』
画面が真っ赤に染まるほどの高額スーパーチャットの嵐が、怒涛の勢いで流れ始める。
『ギャハハハハ! 薫ちゃん最高! 涙声と鼻すする音一つでリスナーの財布が完全に崩壊したよ! 売上グラフが天井を突き破った!』
『現在のスパチャ総額、四百五十万円を突破。同時視聴者数は七万五千人に達しています、薫さん』
薫はハウンドの返り血を丸腰の身体で紙一重でかわしながら、メインカメラを必死に構え続け、ボロボロになりながらも戦うミナトの姿を、最も美しく、最もドラマチックな「神アングル」で捉え続けた。
「死ねぇぇぇッ!!」
ミナトの渾身の横薙ぎが、最後のハウンドの胴体を真っ二つに叩き割った。
石造りの通路には、引き裂かれた魔犬たちの凄惨な死骸が転がり、ミナト自身の体から流れ落ちた大量の血と混ざり合って、生々しく、どす黒い血溜まりを広げていく。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
ミナトは肩を激しく上下させ、大剣を支えにどうにか立ち尽くしていた。全身傷だらけで、流血のせいで視界は赤く染まっている。それでも彼は、血まみれの顔でゆっくりと振り返り、メインカメラのレンズを見つめた。
「薫、さん……。もう、泣かないで……ください。言った、でしょう……? 僕が、絶対に、あなたを……守るって……」
限界の体で、無理に優しい笑顔を作ってみせるミナト。
薫はメインカメラを向けたまま、彼にそっと歩み寄り、涙に濡れた瞳を細めて、包み込むような優しい笑みを浮かべた。
「ええ……ありがとう、ミナト君。本当に、本当に格好よかったわ。……みんな、今日の配信はここまでよ。私の最高の騎士様に、たくさんの拍手をお願いね!」
薫はミナトをいたわるように、慈愛に満ちた声を絞り出したまま、手元のスイッチをパチンと押し下げた。
カメラの赤いランプが静かに消灯し、世界中の画面がブツ切り(カット)になる。
【コメント欄・放送終了】
『最高の騎士道を見た……まじで号泣したわ』
『本当にてぇてぇなこの二人。ガチで付き合ってくれ』
『ミナト、無事でよかった……! 傷を早く治してくれよ!』
『次の配信も絶対に見るからな!! 神回をありがとう!!』
画面の向こうで、余韻に浸るリスナーたちの狂熱のコメントが虚しく流れ続ける中、通路には冷たい静寂が戻る。
無茶をすればするほど、彼女が自分を特別に想ってくれる。そんな絆の深まりを確信して息を整えるミナトを、薫は愛おしそうに静かに見つめるのだった。
第7カット・あとがき
「配信を見てくれてありがとう! カメラマンの千歳薫よ。
ミナト君ったら、配信の最初の挨拶、すっごく緊張して笑顔がぎこちなかったわね。でも、中層の化け物相手にボロボロになりながらも、私のためにあんなに必死になって限界突破しちゃうなんて……。
……正直ね、前まではただのビジネス(商品)だと割り切っていたところもあったの。でも、あんな風に命懸けで『僕が絶対に守る』なんて言われて、本当に私のために涙を流してくれる姿を見せられたら……守られるのも、悪くないのかなって、本気で嬉しくなっちゃった。
事務所の栂野さんたちは相変わらず『売上がバグった』なんて騒いでいて、本当にうるさくて嫌になっちゃうけれど……私は、彼のあの真っ直ぐな騎士道を、これからも一番近くで見守っていきたいな。
もしよければ、その温かい気持ちを【ブックマーク】という形で、私の揺れる心にそっと届けてくれたら嬉しいわ。
『二人の関係の始まりを応援したい』『薫お姉さんのこの切ない変化に胸を打たれた』
と思ってくれたら、下にある評価の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に、満点の星5個で染めて……どうか、私たちの未来のために、あなたの本当の想い(評価)を私に託してほしいの。
君たちの一票(星)だけが、私のカメラワークと、この不穏な物語を最後まで描き切るための心の支えになるから……。みんなからの温かいコメント(感想)も、大切に、大切に読ませてもらうわね。
さあ、次回からは難易度が跳ね上がる中層の探索が始まるわ。私たちの運命がどうなっていくのか――次回『歪みゆく騎士道と、痛ましき残響』の配信を……。
……ごめんなさい、次の配信を楽しみにしててね、なんて、今の私には言えない……」




