シーン48『途切れた画角、信じるしかない声』
暗闇の奥に浮かんでいた赤い瞳が、一斉に動いた。
「っ……!」
澪が息を呑むのと、石床を蹴る無数の足音が響いたのはほとんど同時だった。
『澪ちゃん、左!!』
「えっ!?」
『左の壁まで走って!! 早く!!』
胸元の小さなスピーカーから飛び込んできた薫の声に、澪は反射的に従い、痺れた両腕で盾を抱えたまま、よろめくように左へ駆ける。
直後、暗闇から飛び出した三体のゴブリンが、澪がたった今まで立っていた場所へ次々と殺到した。
「三匹……っ!」
『違う、四匹いる! 一番後ろに大きいのがいるけど、まだ動いてない! 今は前の三匹だけ見て!!』
「はいっ!」
第一層を駆け抜けながら、薫はスマートフォンから一瞬たりとも目を離さなかった。
自分の足元などほとんど見ていない。石床を蹴り、壁際を曲がり、何度も息を乱しながら、それでも右手に握ったスマートフォンだけは顔の前から下げなかった。
画面の中では、澪の胸元カメラが激しく揺れている。敵との距離、壁の位置、澪の盾の角度、足元に転がる矢、逃げられる方向。
かつてなら、そのすべてを「どこで死ねば一番美しく映るか」を決めるために見ていた。
けど、今は違う。
「澪ちゃん、壁を背中にして!」
『う、うん!』
「左はもう見なくていい! 正面と右だけ! 囲ませないで!!」
澪が壁へ背中を預けた瞬間、一匹目のゴブリンが棍棒を振り上げる。
『来る!!』
「っ!」
ガンッ!!
盾へ重たい衝撃。矢を受け続けて痺れていた両腕が悲鳴を上げ、盾が僅かに下がった。
『下げないで!! 真正面で受け止めなくていい、少し右へ傾けて!!』
「右……っ!」
迫る棍棒を澪は薫に言われた通り、盾を真正面ではなく僅かに斜めへ向けた。
ガンッ!
今度は衝撃が横へ流れ、ゴブリンの体勢が大きく崩れる。
『今!!』
「火魔法!」
小さな火球がゴブリンの顔面で弾けた。
「ギャアッ!?」
怯んだ喉元へ、澪の片手剣が突き込まれる。
『すげえ!!』
『薫さんの指示やばい』
『離れてんのに完全に共闘してるじゃん』
『澪ちゃん耐えろ!!』
『【赤いスパチャ:100,000円】絶対二人で帰ってこい!!!』
「次、右から来るわ!!」
薫が叫ぶ。
だが、その言葉が胸元のスピーカーへ届くより僅かに早く――。
「っ!」
澪自身が盾を右へ向けた。
ガンッ!!
二匹目の棍棒が弾かれる。
「……!」
走りながら画面を見ていた薫の瞳が、一瞬だけ見開かれた。
『澪ちゃん……』
「見えた……!」
澪は荒い呼吸のまま、目の前のゴブリンを睨む。
「今の、自分で見えた!」
もう一度棍棒が迫り澪は盾で受け流し、そのまま体を半歩前へ入れた。
「やぁぁっ!!」
片手剣が腹部へ突き刺さり、二体目が崩れ落ちた。
『うおおおお!!』
『自分で動いた!!』
『成長してる!!』
『薫お姉ちゃん見てるか!?』
『【赤いスパチャ:50,000円】今の百点だろ!!!』
「……見てるわよ」
苦しい息を絶えながら薫が小さく呟く。肺が焼けるように痛いが、それでも足は止めない。
「ちゃんと……全部見てるから……!」
◇
「同接、七万九千」
二階のコントロールルーム。
千早が淡々と数字を読み上げる。
「投げ銭額、探索開始時点からさらに二・一倍。特に薫さんの遠隔指示開始後、視聴維持率が急上昇しています」
「ギャハハハハ!!」
栂野がモニターへ身を乗り出した。
「何だこれ!すげーな!!!離れてんのに姉妹共闘とか、勝手に新企画始めてんじゃねえか!」
画面には、壁際で必死に盾を構える澪付けている胸元のカメラが揺れるたび、盾の内側に貼られた二人のプリクラが一瞬だけ映り込む。
「薫ちゃんが必死になればなるほど数字伸びてんぞ! やっぱ最高だわ!」
『黙って』
インカムから返ってきた薫の声に、笑いながら栂野が眉を上げた。
『今、澪ちゃんの声以外聞きたくない』
「……ギャハハ」
栂野は楽しそうに笑い、椅子の背もたれへ体を預けた。
◇
三匹目。
「キィィィッ!!」
横薙ぎの棍棒。
『盾を上げ――』
薫が言い切る前に、澪は自ら一歩後ろへ下がり、棍棒が鼻先を掠めて空を切る。
「今……!」
踏み込んで剣を振る。だが、ゴブリンも咄嗟に身を捻った。
「っ!」
『澪ちゃん、離れて!!』
すぐさま盾を構える。
ガンッ!!
強烈な一撃を受け、澪の体が壁へ叩きつけられた。
「きゃあっ!!」
胸元が石壁へ激しくぶつかる。
――バキッ。
小さな破砕音がした直後、薫のスマートフォンを映していた映像が、大きく乱れた。
「……え?」
画面いっぱいにノイズが走り、一瞬だけ歪んだ澪の盾が映り、暗転する。
「…………澪ちゃん?」
黒い画面になり、何も映らない。
「澪ちゃん!!」
薫は走ったまま、スマートフォンを何度もタップする。
「千早ちゃん! 映像は!?」
『映像信号、消失しました』
「戻して!!早く!!!」
『胸元カメラ本体への物理的な衝撃です。こちらからは復旧できません』
「そんな……」
薫の足が一瞬だけ鈍る。
何も見えない、澪がどこにいるのか、何が迫っているのか、盾は上げられているのか、怪我はしてないか何一つ分からない。
「……澪ちゃん」
その時、真っ黒な画面の奥から、小さなノイズが聞こえた。
『……薫……お姉ちゃん……?』
「澪ちゃん!!」
『……聞こえる?』
「聞こえる! ちゃんと聞こえてるわ!」
『カメラ……壊れちゃったみたい……』
「そんなのどうでもいい!!」
薫は叫びながら、さらに速度を上げた。
「怪我は!? どこか痛いところない!?」
『背中、ちょっと痛いけど……動ける』
「盾は!?」
『持ってる』
「剣は!?」
『ある』
「……よかった」
その声だけで、薫の胸から僅かに息が漏れた。けれど黒い画面の向こうから、低い唸り声が響く。
『……まだいる』
「何匹?」
『一匹……』
澪の荒い呼吸。
『さっきまで動かなかった……大きいの』
薫の表情が固まる。最初から暗闇の奥に立ち、他の三匹が戦っている間も動かなかった個体。
一回り以上大きな体に太い腕の錆びた棍棒を片手で引きずっていた上位個体。
ホブゴブリン。
「…………」
何も見えない。今までなら、一目見れば分かった。
重心や武器を振る癖、間合い、踏み込み、逃げ道。
でも今は何一つ見えない。
『薫お姉ちゃん……どうしたらいい?』
「…………」
薫は走りながら、黒い画面を見つめる。今までずっと、自分が見てきた。自分が見つけて、自分が決めて、自分が指示してきた。
でも今、そこにいるのは澪だ。
「澪ちゃん」
『うん』
「今度は……お姉ちゃんが見てあげられない」
『…………』
「あなたが見て」
『私が……?』
「そう」
薫の呼吸は乱れながらそれでも、その声だけはゆっくりと、澪へ届くように言葉を選んだ。
「相手を見る。足を見る。武器を見る。壁との距離を見る。逃げられる場所を見る」
『…………』
「今まで教えたこと、全部覚えてるでしょう?」
『……うん』
「だったら出来る」
『でも……』
黒い画面の向こうで、澪の声が震えた。
『私、一人で……出来るかな』
薫は迷わなかった。
「出来るわ」
『…………』
「だって、あなた」
走り続けながら、薫はほんの少しだけ笑う。
「もう百点、取ったでしょう?」
数秒の沈黙、そして。
『……うん』
さっきまで震えていた声が、ほんの僅かに変わった。
『私……百点だった』
「そうよ」
『薫お姉ちゃんが、言ってくれた』
「ええ」
『……分かった』
何も映らない画面の向こうから、盾を握り直す金属音が聞こえる。
『やってみる』
その直後。
――ドンッ!!
「澪ちゃん!?」
『っ……大丈夫!!』
金属同士が激しくぶつかる音がするが、薫には何も見えない。
『うぅっ……!』
「澪ちゃん!」
『盾で……受けた……!』
「真正面で受け止め続けないで! 相手が大きいなら力比べしちゃダメ!」
『うん!』
また重たい足音。
ズン。
ズン。
ズン。
『来る……!』
「見て!」
『見てる!!』
――ブォンッ!!
大剣が空気を裂く音。
『っ!』
直後、何かが石壁へ叩きつけられる轟音。
「澪ちゃん!!」
『避けた……!』
「……!」
『今の、自分で避けられた!!』
薫の目から、僅かに力が戻る。
「そのままよ!」
『うん!』
何も見えない聞こえるのは、荒い呼吸と、剣と盾と、大きな足音だけ。
ガンッ!!
『っ……!』
「大丈夫!?」
『大丈夫!』
ズンッ!!
ブォンッ!!
『避けた!』
「そのまま距離取って!」
『でも……』
澪の声が止まる。
「何?」
『後ろ……壁』
薫の顔が強張った。
『逃げる場所、もうない』
ズル……何か巨大な棍棒が石床を擦る音。
ゆっくりと確実に澪へ近づいてくる。
『薫お姉ちゃん』
「いるわ」
『ちゃんと……聞いててね』
「聞いてる」
『私……頑張るから』
薫は黒い画面を握り締めた。
「……うん」
その向こうで、澪が大きく息を吸う。
『すぅ……はぁ……相手を見る』
一歩。
『足を見る』
もう一歩。
『武器を見る』
ホブゴブリンの低い唸り声が響く。
『逃げる場所がないなら――』
澪の声が、僅かに震えながらも続いた。
『逃げなくていい場所を、自分で作る』
次の瞬間、耳をつんざくほどの咆哮と共に、巨大な足音が一気に澪へ迫った。
【あとがき】
「……お願い。
今まで、見ないでって言ってごめんなさい。スクロールしないでって、何度も言ったけど……今だけはお願い。
私、もう澪ちゃんが見えないの。カメラが壊れて、声しか聞こえない。
でも、あなたには見えてるんでしょう? 私には見えないあの子のことも、ずっと見えてるんでしょう?
だったらお願い……澪ちゃんを見ていて。私の代わりに、あの子から目を離さないで。
怖いのよ。私が見えないところで、あの子に何かあったらって考えるだけで……怖くて仕方ないの。
私も今、そっちに向かってるから。絶対に間に合うから。
だから、それまで……澪ちゃんを一人にしないで。
お願い。
今だけは……スクロールして……」




