シーン45『守りたい背中、嘘の導線』
翌朝、千歳薫はいつもの仕事着へ袖を通すと、リビングのテーブルいっぱいに広げていた第一層の地図を丁寧に折り畳み、使い慣れた黒塗りの業務用カメラと一緒にバッグへしまい込んだ。
「今日は配信じゃないの?」
キッチンから顔を覗かせた澪が、不思議そうにクリクリとした瞳を瞬かせる。
「ええ。昨日の配信で気になった場所がいくつかあったから、お姉ちゃん一人で確認してくるだけよ。魔物が出やすい場所とか、逃げ道に使えそうな通路とか……次に澪ちゃんが潜る時、もっと安全に動けるようにね」
「私も行く!」
ほとんど間を置かず返ってきた言葉に、薫は予想していたように小さく笑った。
「ダメ」
「えぇー……」
「今日は戦うために行くんじゃないの。澪ちゃんは昨日頑張ったんだから、ちゃんと休むことも訓練のうちよ」
澪は納得できない様子で頬を膨らませたものの、薫が近づいて頭を撫でると、渋々ながら小さく頷いた。
「……分かった」
「いい子ね」
「でも私、昨日ちゃんと出来たよ?」
「ええ。百点だったわ」
その言葉を聞いた瞬間、澪の顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ、次は第二層に行っても百点取れるかな?」
薫の指先が、柔らかな髪の上でほんの一瞬だけ止まった。
「……それは、もう少し先ね」
「まだダメ?」
「まだダメ」
優しい声だったが、そこに迷いはなかった。
澪は少しだけ唇を尖らせながらも、それ以上は何も言わず、玄関へ向かう薫の背中を追いかけると、靴を履き終えたお姉ちゃんへ元気いっぱいに手を振った。
「いってらっしゃい!」
「いってきます。ちゃんとお留守番してるのよ?」
「はーい!」
扉が閉まり、薫の足音が遠ざかっていく。
一人になった澪はしばらく玄関を見つめていたが、やがて部屋の隅に立てかけられた大きな盾へ目を向けた。その内側には、二人で買い物へ出かけた日に撮ったプリクラが、今も大切に貼り付けられている。
頬と頬を寄せ、少し照れた薫と、満面の笑みを浮かべている自分。
「……もうちょっと、出来ると思うんだけどなぁ」
昨日、初めて本物の魔物を相手に、自分の力で恐怖を乗り越えた。
血を見ても止まらなかった。三十秒間、盾だけで攻撃を耐え抜き、最後まで自分の足で立っていられた。
そして何より――。
『ええ。百点よ』
頭を撫でてくれた薫の笑顔を思い出し、澪は盾の内側にあるプリクラへ指先を触れた。
「次は、もっと褒めてもらおうっと」
◇
昼を少し過ぎた頃。
古びた雑居ビルの前に、小さな紙袋を両手で抱えた澪の姿があった。
中に入っているのは、朝から澪が一人で作った簡単なサンドイッチだった。昼を過ぎても薫が帰ってこなかったため、どうせなら仕事帰りのお姉ちゃんを驚かせようと、以前一度だけ来たクローバー撮影事務所まで足を運んだのだ。
「まだ帰ってきてないかな……」
澪は少し緊張しながら雑居ビルの中へ入り、一階の綺麗な受付スペースを覗き込む。
「すみませーん……」
「ん?」
奥から姿を現した男を見て、澪の表情が明るくなった。
「あ、栂野さん!」
「おお、澪ちゃんじゃねえか」
栂野もすぐに人当たりのいい笑顔を作り、紙袋を抱えた澪へ歩み寄ってくる。
「どうした? 薫ちゃん探してんのか?」
「はい! お昼作ったから、一緒に食べようと思って。もう帰ってきてますか?」
「薫ちゃん?」
栂野はわざとらしく首を傾げたあと、何でもない話のように答えた。
「まだダンジョンじゃねえかな。確か第二層まで下見してくるって言ってたぞ」
「……え?」
澪の笑顔が止まった。
「第二層……?」
「ああ。次の配信で使えそうな場所を探すとか言ってたな。まあ、薫ちゃん一人なら問題ねえだろ」
「でも……お姉ちゃん、今日は第一層だけ確認するって……」
「そうなのか?」
栂野は僅かに眉を上げると、困ったように頭を掻いた。
「じゃあ澪ちゃんには言わなかったのかもな。あいつ、昔からそういうところあるからよ。心配かけたくねえ相手には、危ねえことほど黙って一人でやっちまうんだ」
「…………」
「まあ気にすんな。薫ちゃんはプロだし、お前が心配するようなことじゃねえよ。澪ちゃんはまだ第一層の新人なんだから、ここで大人しく待ってりゃいい」
「……新人」
「昨日ちょっと上手くいったからって、いきなり第二層へ行くのは危ねえからな」
栂野の声には、煽っているような響きなど一切なかった。
けれど澪の頭には、昨日の戦いが蘇っていた。
棍棒を盾で受け止めた時の衝撃。飛び散った血。震えそうになった足。それでも逃げずに立ち続けた自分。
「……私、昨日ちゃんと戦えました」
「ああ、配信見てたぞ。よくやってたじゃねえか」
「一人でも……前より、ちゃんと出来るようになってきてるんです」
「そりゃ大したもんだ」
栂野はそこで何かを思いついたように受付の奥へ戻ると、少しして、手のひらほどの小さな黒いカメラと、胸元へ固定するためのベルトを持って戻ってきた。
「そうだ。今日も元々、澪ちゃんの配信予定だったんだろ?」
「はい。でも薫お姉ちゃんが帰ってきてからだと思ってました」
「薫ちゃんと合流するまで、これ使って繋いどきゃいいんじゃねえか?」
「……これ?」
澪が受け取ったのは、業務用の大きなカメラとは比べものにならないほど小さな配信用カメラだった。
「胸に付けるタイプだ。画質は薫ちゃんのカメラに負けるけど、音声も入るし、そのまま配信できる。どうせお前もダンジョンまで行くつもりなんだろ?」
「…………」
「まあ、行けとは言わねえよ。第二層は危ねえからな」
栂野はそう言って笑った。
「ただ、お前がお姉ちゃんを迎えに行きたいって言うなら、会社として配信機材くらいは貸してやれるってだけだ」
澪は胸元の小型カメラを見下ろした。
少し迷ったあと、紙袋を受付へ置く。
「……私、行きます」
「いいのか?」
「いつも薫お姉ちゃんに守ってもらってばっかりだから……今日は私がお姉ちゃんを迎えに行きたいです」
「そうか」
栂野は澪の胸元へ小型カメラを固定すると、位置を確かめるように軽く角度を調整した。
「これでよし。配信の接続はこっちでやる。入口まで行ったら、自分で開始ボタン押せ」
「はい!」
「無理すんなよ、澪ちゃん」
「大丈夫です!」
澪は満面の笑みを浮かべた。
「私、百点取ったんで!」
小さな背中が事務所を出ていく。
その姿が完全に見えなくなったところで、栂野の笑顔がゆっくりと消えた。
「……千早ちゃん」
二階へ向けて声を上げる。
「澪ちゃんのカメラ、繋いどけ」
【あとがき】
「……今日は、澪ちゃんを休ませてるの。昨日ちゃんと頑張ったから、私は一人で次に使う場所を確認してくるだけ。
だから大丈夫よ。澪ちゃんは家にいるから。
…………。
何よ、その顔。
なんで黙ってるの? 澪ちゃんは家にいるでしょう? 私、ちゃんとお留守番しててって言ったもの。
……ねえ。
何を見たの?
そんな目でこっち見ないでよ。何かあったみたいな顔、やめて。
澪ちゃんは家にいるのよね?
…………。
ねえ、答えてよ。
何があったの……?」




