シーン44『生かすカメラ、育っていく盾』
青白い光を放つ第一層のゲートを抜けると、湿った石と土の匂いが、薄暗い回廊の奥から二人を迎え入れた。冷たい石畳も、苔の生えた壁も、遠くから響いてくる魔物の鳴き声も、前回と何一つ変わらない景色だった。
そして、薫の両腕に抱えられているのも、これまで何人もの冒険者の最期を映し続けてきた、あの重々しい黒塗りの業務用カメラだった。
「澪ちゃん、準備はいい?」
「うん!」
初心者用の片手剣を握り、頑丈な盾を胸元へと引き寄せた澪が、緊張しながらも力強く頷く。薫はその姿をファインダー越しに確認すると、手元のスイッチを押し込んだ。
カチッ、と小さな音が鳴り、レンズの脇で赤いランプが点灯する。
「――みんな、お待たせしました! 今日もカメラマンの薫と、自慢の妹分・澪ちゃんのダンジョン探索を始めるわよ!」
「み、みんなこんにちは! 今日もよろしくお願いします!」
『きたああああ!!』
『澪ちゃん待ってた!!』
『前回の初陣からずっと楽しみにしてたぞ!』
『今日もお姉ちゃんと一緒だ!』
『盾娘がんばれー!!』
配信開始とほぼ同時に、コメント欄が凄まじい勢いで流れ始める。
『初期同接二万八千。前回の開始時点より一万三千増加』
耳元のインカムから千早の淡々とした声が届き、続いて栂野の低い声が割り込んできた。
『悪くねえな。薫、今日は数字落とすんじゃねえぞ』
薫はそれに何も返さず、ファインダーの中にいる澪だけを見つめながら、ゆっくりと回廊を進んでいった。
やがて前方の曲がり角から、聞き慣れた甲高い鳴き声が響く。
「キィィィイイッ!」
姿を現したのは三匹のゴブリン。前回とほとんど同じ相手だったが、それを目にした澪の反応は、前回とは明らかに違っていた。
一瞬だけ肩が跳ね、片手剣を握る指が強張る。足元に残っていた黒ずんだ血痕を見た瞬間、その顔からわずかに血の気が引いたものの、澪は目を逸らさなかった。
「……すぅ……はぁ……」
薫に言われるよりも先に大きく息を吸って吐き出し、ガシャッ、と盾を体の中心へ引き寄せる。その姿を見た薫の唇が、カメラの裏側でほんのわずかに綻んだ。
「大丈夫。今日もお姉ちゃんがいるからね」
「……うん!」
迫ってくるゴブリンたちを一瞥した薫は、すぐに三匹の距離と位置関係を測った。左側の二匹は少し遅れており、先頭の一匹だけなら澪一人でも十分に対応できる。
だが今日は、倒すことそのものが目的ではなかった。
「澪ちゃん。今日は一つ、やってみましょうか」
「え?」
「三十秒間、剣を抜かないで」
「ええっ!?」
澪が思わず振り返り、コメント欄も一気に騒がしくなる。
『盾だけ!?』
『なにその縛りプレイw』
『初心者にそれやらせるの!?』
『でも面白そう!』
薫は楽しそうな声を作りながらも、ファインダーの中でゴブリンの足運びを一瞬たりとも見逃さない。
「攻撃しなくていいわ。ただ守るの。相手を見ること、足元を見ること、盾を体から離さないこと。それだけよ」
「で、でも……」
「怖くなったら、お姉ちゃんの声だけ聞きなさい」
その一言で澪の表情が変わった。
「……うん。やる!」
次の瞬間、ゴブリンが棍棒を振り上げる。
「一撃目、正面!」
ドガンッ!
盾の中央へ木棍が叩きつけられ、澪の小さな体が後ろへ押される。
「踏ん張って! 後ろへ下がりすぎない!」
「くぅっ……!」
二撃目、三撃目と攻撃が続くなか、澪は反撃したい衝動を必死に堪えながら、ひたすら盾で受け続けた。薫はその周囲を滑るように移動し、ゴブリンが澪の死角へ回り込もうとするたび、的確に声を飛ばしていく。
「右!」
澪が盾をずらす。
「足元!」
突き出された短い脚を、半歩だけ引いて避ける。
「そのまま!」
ドガァンッ、と重い衝撃が響き、澪の膝が沈んだ。それでも、もう倒れない。
『うおおお耐えてる!!』
『前回の子と同じとは思えん!』
『ちゃんと足元見てる!』
『成長してるのわかるのめっちゃいいな』
『こういうのでいいんだよ!!』
『ずっと見てたいわこの子』
薫の耳元で、再び千早の声が流れる。
『同接三万七千』
薫は何も答えず、ただファインダーの中で必死に盾を握り続ける澪の姿を追い続けた。
「あと五秒!」
「うぅぅぅっ……!」
「三!」
ゴブリンが棍棒を振り上げる。
「二!」
澪が歯を食いしばる。
「一――はい、終わり!」
「今っ!!」
薫が言い終えるより早く、澪は盾で棍棒を強く弾き返した。体勢を崩したゴブリンの顔面へ、小さな火球を撃ち込む。
「火魔法!」
ポフッ!
「ギャッ!?」
光に目を焼かれ、ゴブリンの動きが止まる。
「たぁぁぁッ!!」
澪は鋭く踏み込むと、片手剣を喉元へ深く突き込んだ。
ズシュッ!
赤黒い血が飛び散り、澪の顔が一瞬だけ強張るが、今度は止まらなかった。
すぐに剣を抜き、盾を構え直すと、残る二匹へと自ら視線を向ける。
「……次、来るよ!」
その声を聞いた瞬間、薫の胸の奥に熱いものが込み上げた。前回は血を見ただけで立っていられなくなったあの子が、今は自分から次の敵を見ている。
「ええ。来るわよ、澪ちゃん」
薫は柔らかく笑った。
「ちゃんと、生きて帰りましょう」
「うん!」
残る二匹が左右から飛びかかる。
澪は正面の一匹を盾で押し返し、もう一匹との間に距離を取った。その瞬間、薫の体も自然と動いていた。
ほんの少し前までなら、敵が二方向から襲いかかり、逃げ場の狭い壁際で若い冒険者の顔が恐怖に引きつるこの瞬間こそ、薫が最も美しい画を求める場面だった。追い詰められていく姿が最も劇的に映り、死の瞬間が最も鮮烈に見える位置へと、迷うことなくカメラを運んでいた。
だが、今は違う。
薫は澪の背後へ回り込み、敵の位置、壁までの距離、澪が後退した時に足を取られそうな石の隆起までを一瞬で読み取ると、ファインダー越しに鋭く声を飛ばした。
「澪ちゃん、右へ二歩! そこなら背中を取られない!」
「うん!」
澪が素直に右へ移動したことで、二匹のゴブリンは完全に正面へ並ぶ。
「一匹ずつよ。焦らないで」
「はい!」
カメラは回っている。コメントも流れ、スパチャも飛んでいる。
けれど薫が今見ているのは数字ではなく、澪の足元と盾の角度、呼吸の乱れ、そして無事に逃げられる道だった。そのすべてを、ただ生かすためだけに追っている。
澪は一匹目の攻撃を盾で受け、火魔法で目を潰してから剣を突き込み、二匹目には焦らず距離を取り、棍棒を弾き返した決定的な隙へ片手剣を滑り込ませた。
やがて最後のゴブリンが石畳へ倒れた時、澪は肩で大きく息をしながらも、自分の足でしっかりと立っていた。
「……できた」
自分の盾を見下ろした澪は、ゆっくりとカメラへ顔を向ける。
「薫お姉ちゃん……私、今回は怖くなっても、ちゃんと動けたよ!」
「ええ、すごく上手だったわ」
薫はファインダーの裏側で、誰にも見えないほど柔らかく笑った。
『うわあああ成長してる!!』
『前回血見て固まってた子だよな!?』
『これ毎回追いかけたくなるやつだ』
『盾だけ30秒耐える企画めちゃくちゃ面白かったぞ!』
『次は何やるんだ!?』
『【赤いスパチャ:30,000円】澪ちゃんの成長見守らせてくれ!』
『【赤いスパチャ:50,000円】お姉ちゃん先生有能すぎるw』
『同接四万八千。前回最高値、三万五千を更新』
千早の声がインカムから流れ、続けて投げ銭総額も前回同時刻比一・六倍、離脱率も低下していることが淡々と報告される。
薫の指先が、カメラのグリップの上でほんの一瞬だけ止まった。
『おい薫! マジで伸びてるぞ! ギャハハ! いいじゃねえか、その成長企画! 次も同じ方向で数字取れ!』
栂野の興奮した声にも、薫は返事をしなかった。
「お姉ちゃん?」
澪が不思議そうに首を傾げる。
「……何でもないわ。今日はここまでにしましょう」
「えっ、もう終わり?」
「もう十分よ。無理して奥へ進む必要なんてないでしょう?」
澪は少し残念そうな顔をしたものの、やがて笑って頷いた。
「うん! じゃあ次は、もっと上手くなる!」
「ええ。楽しみにしてるわ」
薫はそこで配信終了の挨拶へ入り、澪と一緒にリスナーへ手を振った。
やがて、プツンと配信が切れ、赤いランプが静かに消える。
静かになった回廊で、澪は盾を下ろすと、嬉しそうに薫へ駆け寄ってきた。
「薫お姉ちゃん! 今日、ちゃんと出来たよね!?」
「ええ。百点よ」
「やったぁ!」
嬉しそうにはしゃぐ澪の頭を撫でながら、薫は誰にも聞こえないほど小さく息を吐いた。
前回より高い同接に、前回より多いスパチャ。それでも誰も死んでいないし、誰一人として血溜まりの中へ倒れていない。それなのに、数字は確かに上がっていた。
薫は澪の頭へ置いた手をそのままに、ほんの少しだけ俯いた。
「……ほら。やっぱり、できるじゃない」
あずき色の唇が、かすかに動く。
「殺さなくても……面白いでしょう?」
その問いかけが誰へ向けられたものなのか、澪には分からなかった。
ただ薫は、すぐ隣で笑っている妹の手を取ると、今度こそ一人も失わず、地上へ帰るために歩き出した。
【あとがき】
「……ほら。
見たでしょう?
澪ちゃん、ちゃんと強くなってた。
血を見ても止まらなかったし、最後まで自分の足で立ってた。それなのに同接も増えたし、スパチャだって前より多かった。
誰も死んでないのに。
ちゃんと……面白かったでしょう?
だったら、これでいいじゃない。
殺さなくてもいいじゃない……。
澪ちゃんが少しずつ強くなるところを見て、それで満足してよ。
それ以上なんて……求めないで。
お願いだから。
このままでいいって……思ってよ……」




