シーン43『稼げる命、殺さない選択』
カーテンの隙間から差し込んだ柔らかな朝日が、昨夜の暗闇を追い払うように、リビングの床へ細長い光の帯を落としていた。
小鳥遊澪が大きなベッドの上でゆっくりと目を覚ました時、隣にいるはずの薫の姿はなく、まだ寝ぼけたクリクリとした瞳を擦りながら体を起こすと、リビングのソファーの前で、ブランケットに包まれたまま小さく丸まって眠っているお姉ちゃんの姿が目に入った。
「……薫お姉ちゃん?」
澪は声をかけようとして、すぐに口を閉じた。
ブランケットからわずかに覗いている薫の横顔は、いつもの完璧に整ったものとは違い、長い睫毛の下がほんの少し赤く腫れ、眠っているというよりも、力尽きて意識を失ったような深い寝息を立てている。
「昨日、私のせいでいっぱい疲れちゃったのかな……」
澪は申し訳なさそうに眉尻を下げると、足音を立てないようにそっとベッドから抜け出し、もこもことしたパジャマの袖を捲り上げながらキッチンへ向かった。
しばらくして、静かな部屋の中に、包丁がまな板を叩く小さな音と、フライパンの上で卵が焼ける優しい音が広がり始める。
「ん……」
その匂いに誘われるように薫がゆっくりと目を開け、ブランケットの中から顔を出した。最初に視界へ入ったのは、キッチンで一生懸命に朝食を作っている澪の小さな背中だった。
「……澪ちゃん?」
「あ、お姉ちゃん起きた? ごめんね、起こしちゃった?」
振り返った澪が、いつもと何一つ変わらない無邪気な笑顔を向けてくる。
「昨日ね、いっぱい助けてもらったから、今日は私がお姉ちゃんに朝ご飯作ってあげようと思って。まだ出来てないから、もうちょっとだけ待っててね!」
「…………」
薫はブランケットを胸元まで抱いたまま、しばらく何も言えずにその笑顔を見つめていた。
「お姉ちゃん?」
「……何でもないわ」
かすかに震えそうになった声を飲み込み、薫はいつもの優しい笑みを取り戻すと、乱れた黒髪を耳へかけながらゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう、澪ちゃん。楽しみにしてるわ」
「うん!」
◇
焼きたての卵とトーストを二人で食べ終えた頃、澪は昨日の疲れなど忘れてしまったかのように目を輝かせながら、テーブルの上に置いていたダンジョンの地図を広げた。
「ねえねえ、お姉ちゃん! 次はいよいよ第二層だよね? 昨日、階段のところまで行けたし、次はもっと奥まで行けるかな!」
薫の手が、コーヒーカップの縁でほんの一瞬だけ止まった。
「…………」
「薫お姉ちゃん?」
期待に満ちた澪の顔を見つめたあと、薫は静かにカップをテーブルへ戻した。
「……もう少しだけ、第一層で練習しましょう」
「え?」
「昨日は上手く立て直せたけど、本物の血を見た時、澪ちゃんは完全に動けなくなったでしょう? 第二層からは魔物の種類も増えるし、罠も出てくる。今のまま焦って先へ進むより、まず第一層で、どんな状況でも盾を構え直せるようになる方が大切よ」
澪は少しだけ残念そうに唇を尖らせたものの、すぐに昨日の自分を思い出したのか、小さく頷いた。
「……うん。お姉ちゃんがそう言うなら、私、もっと練習する」
「偉いわ」
薫が頭を撫でると、澪は嬉しそうに目を細めた。その柔らかな髪を指先で梳きながら、薫は何も言わず、テーブルの上に広げられた第二層の地図をゆっくりと折り畳んだ。
◇
その日の午後。
次回配信に使う機材の確認をするため、二人はクローバー撮影事務所の入る古びた雑居ビルまでやって来ていた。
「澪ちゃん、少しだけここで待っていてね。お姉ちゃん、上で仕事の話をしてくるから」
「うん! いってらっしゃい!」
薫は澪をビルの前へ残し、一人で薄暗い階段を上っていった。
二階のコントロールルームでは、栂野がデスクの向こうから露骨に不機嫌そうな顔で薫を睨みつけていた。
「――で? 次も第一層だぁ?」
「そうよ」
薫は腕を組み、壁一面のモニターへ映し出されている昨日の配信データを横目に見ながら、冷静な声で答える。
「初配信で同接三万五千まで伸びた。なのに次からいきなり第二層へ進ませて、あの子が恐怖でまた動けなくなったらどうするの? 今はまだ、初心者が少しずつ成長していくところを見せた方がリスナーは食いつくわ」
「いつまでそんな悠長なことやってるつもりだよ。中層まで持っていかなきゃ、ロストした時の回収額も――」
「だから、その価値を上げるって言ってるのよ」
薫の声が、栂野の言葉を冷たく遮った。その傍らでは、千早のキーボードを叩く音だけが、静かな部屋の中に淡々と響き続けている。
薫はモニターの前へ歩み寄ると、昨日の配信終了直前、澪がリスナーへ「美味しいご飯を食べてください」と笑いかけている映像を指差した。
「この子は、まだ何も作ってない。それなのに、初配信だけでこれだけ固定ファンが付いた。第二層、第三層って急いで進ませるより、第一層で訓練しながら配信回数を重ねて、リスナーに『この子が成長していくところをずっと見たい』と思わせる方が、最終的な数字は遥かに大きくなるわ」
栂野は黙ったまま、薫の顔と売上グラフを交互に見比べる。
「……お前、本当にカネの話になると頭回るな」
「仕事ですもの。今すぐ殺して一度だけ大きく稼ぐより、生きているうちに何度も稼がせた方が得でしょう?」
その言葉を聞いた栂野の口元が、ゆっくりと歪んだ。
「ギャハハ……なるほどな。育てて、育てて、信者を増やして、値段が最大まで吊り上がったところで落とすってわけか」
「好きに解釈すればいいわ」
「いいぜ。しばらく一層で遊ばせてやる。ただし、数字が落ちた瞬間、俺のやり方に戻す。いいな?」
「……ええ」
薫はそれだけ答えると、机の上に置かれていた次回配信用の機材と、昨日の売上報告書を手に取って背中を向けた。
鉄の扉を閉め、薄暗い階段を一人で下りていく。
誰もいない踊り場で、薫は足を止めると、胸元に抱えた黒塗りのカメラの横から売上報告書を引き抜いた。
初配信、同接三万五千。大量のスーパーチャットに、次回視聴希望率九割超。
その数字をしばらく見つめた薫のあずき色の唇が、ほんのわずかに綻んだ。
「……できるじゃない。死ななくても……ちゃんと、稼げるじゃない」
誰にも聞こえない小さな声が、薄暗い階段へ静かに落ちる。
その時だった。
「薫お姉ちゃーん……? まだぁ?」
聞き慣れた声が一階から響き、薫はハッとして顔を上げた。
「……澪ちゃん?」
慌てて階段を駆け下りると、普段は依頼人を通すためだけに使われている一階の綺麗な受付スペースに、澪が申し訳なさそうな顔で立っていた。
「ご、ごめんなさい。お姉ちゃん、なかなか戻ってこなかったから……外で待ってたんだけど、ちょっと心配になって入ってきちゃった」
「もう……外で待っててって言ったでしょう?」
「ごめんなさい……」
しゅん、と小さな肩を落とした澪を見て、薫がそれ以上強く言えずに小さく息を吐いた、その時だった。
「ん? 誰だ?」
背後の階段から、聞き慣れた太い声が落ちてきた。
薫の表情が、一瞬だけ固まる。
ゆっくりと階段を下りてきた栂野は、一階に立つ小柄な少女を見るなり、いつもの下卑た笑みを浮かべかけた。しかし、それはほんの一瞬で消え、人当たりの良い大人の笑顔へと切り替わる。
「おお、もしかして君が澪ちゃんか?」
「えっ……私のこと、知ってるんですか?」
「そりゃ知ってるよ。最近の薫ちゃん、澪ちゃんのことばっかり気にしてるからな。配信でも自慢の妹分って言ってただろ?」
「えへへ……薫お姉ちゃん、会社でも私のこと話してるんだ」
「ちょっと、栂野」
薫が低い声で遮ったが、澪はもう嬉しそうに頬を緩ませていた。
栂野はその反応を見逃さず、気さくな上司そのものの笑顔で片手を上げる。
「俺は栂野。この事務所の責任者みたいなもんだ。薫ちゃんとは長い付き合いでな。こいつ、仕事になると無茶するからさ、澪ちゃんからもちゃんと見張ってやってくれよ」
「はい! 任せてください!」
「澪ちゃん」
薫の声が、先ほどよりわずかに強くなる。
澪は不思議そうに首を傾げたが、薫はすぐにいつもの優しい表情へ戻ると、その小さな肩を抱くようにして出口へ向かわせた。
「さあ、帰りましょう。今日はもう用事も終わったから」
「あ、うん! それじゃあ栂野さん、また!」
「おう。またな、澪ちゃん」
無邪気に手を振る澪へ、栂野も気さくに片手を上げるが薫だけは振り返らなかった。
澪の肩へ回した細い指先に、知らず知らずのうちに少しだけ強い力が籠もる。
「薫お姉ちゃん、栂野さんって面白い人だね!」
「…………そうね」
春の日差しの中を楽しそうに歩く澪の横顔を見つめながら、薫はバッグの奥にしまった売上報告書へ、そっと指先を触れた。
あの数字だけは、嘘ではない。
「……殺さなくても、ちゃんと稼げるんだから」
澪には聞こえないほど小さく呟くと、薫はその小さな手を握り直し、二人並んで春の街へと歩き出した。
【あとがき】
「……死ななくても、稼げるの。
ちゃんと数字が出てた。同接も、スパチャも……たくさんあった。
だから、これでいいの。
澪ちゃんを殺さなくてもいい。
第一層で、ゆっくり強くなればいいの。
…………。
大丈夫。
今度は、大丈夫だから。
だから……もう見ないで。
お願いだから、こっち見ないでよ……」




