シーン42『震える呼吸、止まらない指先』
ゲートを抜けて地上の空気へ戻っても、澪の小さな体は、あの赤黒い血溜まりの、生々しい異臭の残響に怯えるように強張っていた。歩くたびにカチャカチャと重たい音を立てる初心者用の防具。薫は「足が折れそう」と零して今にも崩れ落ちそうな妹の脇を、自らの両腕でしっかりと支え、クローバー撮影事務所の入る古びた雑居ビルの前へと辿り着いた。
「澪ちゃん、ちょっとここで待っていてね。機材を上に置いてくるだけだから」
「うん、わかった。ここで待ってるね、薫お姉ちゃん」
夕暮れの街路樹の影に澪を一人残し、薫は抱えた業務用カメラの重みを両腕に感じながら、鉄の扉を押し開けて薄暗い階段を上っていった。
二階のコントロールルームの扉を開けると、そこには、いつもの冷酷なビジネスの空気が満ちていた。
統括ディレクターの栂野は、デスクに太い足を投げ出し、モニターに映し出されたばかりの売上グラフを眺めながら、下品な笑顔でぬるい缶コーヒーを弄んでいた。その横では、オペレーターの千早が無機質にキーボードを叩き続けている。薫は彼らの視線を気に留めない風を装いながら、デスクの隅に置かれていた黒真珠の隠しカメラを手に取り、メインカメラを机へ置いた。
「おい、薫。あの最後の挨拶、最高だったじゃねえか。スパチャの通知ログが、一瞬で画面を埋め尽くしたぞ。あんな無垢なセリフ、お前が裏で仕込んだ台本か?」
栂野がニヤニヤと、次の『商品』の価値を品定めするような目を向けてくる。薫は不快感を隠そうともせず、細い眉をきつくひそめて冷淡に言い返した。
「私からそんなこと、一文字だって教えてないわよ。……あの子の、素直な気持ちよ。営業用の台本なんかと一緒にしないで」
「まあ、カネが稼げるなら、お前らの内輪のてぇてぇごっこなんてどっちでもいいがな。あの純朴なリアクションなら、リスナーの奴らが勝手に神格化して貢ぎまくる。……これならさぁ、中層の罠へ突っ込ませてロストさせる時も、最高額の赤スパが怒涛の勢いで流れ落ちるだろうなぁ! 最高のコンテンツになるぜ」
ガハハ、と部屋の空気を震わせる下品な笑い声。薫は、その声をこれ以上一秒たりとも自分の鼓膜に届かせたくはなかった。完全に無視して踵を返すと、鉄の扉を乱暴な音を立てて閉め、コントロールルームを後にした。外で待っていた澪の元へと駆け戻り、その冷え切った小さな手を握り締めると、急き立てられるようにして自らのマンションへの帰路を急いだ。
◇
夜の帳が完全に下りたリビングの食卓には、温かい湯気を立てる手料理が並んでいた。今夜は、初陣の疲労で限界を迎えている澪の代わりに、薫が台所に立ち、体力を回復させるための栄養バランスを計算したご飯を、丁寧に手作りしたのだ。
「うわぁ……美味しい! お姉ちゃん、ご飯作るの、地元にいた時よりすっごく上手になってるね!」
「当たり前でしょう、お姉ちゃんだもの。ほら、冷めないうちにたくさん食べなさい。……今日のあのゴブリンへの剣の突き出し方、すごく良かったわよ。特訓の成果がちゃんと出ていたわ」
「えへへ、お姉ちゃんのアドバイス通りにやったんだよ! 怖い時ほど盾をしっかり密着させて、相手が動かなくなった狙い目を澄まして突くってやつ!」
二人は箸を動かしながら、今日の戦いの良かったところや反省点を、穏やかな時間のなかで語り合った。初めての本番で、魔物の生々しい本物の血を見て幽霊のように青ざめていた澪だったが、お姉ちゃんの手料理を口にするうちに、その表情にはいつもの無垢な柔らかさが完全に生気を取り戻していた。
「今日は本当によく頑張ったわね。ゆっくり休みなさい」
食後、薫は澪を温かいお風呂に入れさせ、髪を乾かしてあげた。極限の緊張から解放された妹は、お揃いで購入した色違いの、淡いピンクのもこもことしたパジャマの袖を丸め、大きなベッドの布団の中へと潜り込むと、すぐに小さな、健やかな寝息を立てて深い眠りに落ちていった。
◇
夜が更け、時計の針が深夜の二時を回る頃。
生活の音が完全に消え失せた、暗闇のリビングで、薫は床の上にポツンと体育座りをしていた。
お揃いのモコモコとしたパジャマのなかに長い足をきつく抱え込み、顎を膝の上に乗せて、ただ一点の何もない闇を見つめている。
「…………っ」
頭の奥底で、栂野のあの冷酷な言葉が、最悪な残響となって何度も、何度もリフレインしていた。
『これならさぁ、中層の罠へ突っ込ませてロストさせる時も、最高額の赤スパが怒涛の勢いで流れ落ちるだろうなぁ!』
カネの亡者たちの、冷徹なチェス盤の計算。あの子のあの無垢な笑顔が、血溜まりの中で無惨に散らされ、それを画面の向こうの人間たちが狂熱の赤スパを投げながら消費していく。その最悪な未来のビジョンが、鋭い刃となって薫の胸の奥を激しく、果てしなく抉り続けていた。
ガタガタと、自分ではどうしても止められない激しい震えのなか、薫はふっと、暗闇のなかで正面を見つめた。
あの応接室の扉の隙間、そして水滴の残る洗面台の鏡の向こうにあった、あの、べっとりとした気味の悪い視線。
「何よ……」
「見ないで……」
「早くスクロールして……あっち行ってよ……っ!!」
「……嫌、動かないで……っ。お願いだから、もうめくらないでよ……」
「もう何も見せないわ……。だから、あっちに行って……お願い……っ」
ブランケットの奥から漏れる浅く震えた呼吸だけが部屋に響いていた。
【あとがき】
「……見ないでよ……。
さっき、スクロールしないでって言ったでしょう……?
もう……今日はいいから。
お願い。
この先まで、見ないでよ……」




