シーン39『初陣の盾、血に染まる現実』
柔らかな春の陽光が、クローバー撮影事務所の古びた雑居ビルを白々と照らしていた。
「澪ちゃん、ちょっとここで待っていてね。一度会社に寄って、ビデオカメラと機材を取ってくるから」
「うん、わかった! 外の道で待ってるね、薫お姉ちゃん!」
150センチの小さな体を防具で包んだ澪をビルの手前に残し、薫はただ一人、鉄の扉を押し開けて二階のコントロールルームへと階段を上っていった。
扉を開けると、栂野がデスクに足を乗せ、いつもの下卑た笑みを浮かべて缶コーヒーを弄んでいた。その隣では、千早が無機質にキーボードを叩いている。薫は栂野の視線を気に留めない風を装いながら、デスクの隅に置かれていた、あの黒真珠のヘアピン型隠しカメラを手に取った。そして、その横にある重々しい黒塗りのメインカメラを両腕で抱え込む。
「おい、薫」
デスクから足を下ろす、重い音が響いた。
栂野の顔から、いつもの下卑た笑顔が完全に消え失せていた。ぬるい缶コーヒーをデスクに叩きつけ、底冷えするような昏い目で薫を正面から睨み据える。
「連絡の一つもよこさないで、その態度はどうなんだあ?」
「……何がかしら。次の配信の準備なら、こうしてきっちり進めているわ」
「私生活まであのガキにべったり張り付いて、事務所のシステムへの同期もログの提出も滞らせやがって。お前、俺を舐めてんのか?」
低く、地を這うような栂野のダミ声が、静まり返った部屋に響く。何人もをバズらせて殺してきた、悪徳プロデュース組織の代表取締役としての、本気の凄みがそこにあった。
「お姉ちゃんとしてあの子の私生活の面倒を見るのよ。最初から徹底的に信頼させなきゃ、中層で最高値のロストなんて狙えないわ。私生活までカメラを回して、あの子に少しでもビジネスの壁を感じさせたら一瞬で逃げる。……仕事は完璧にやるから、余計な口出しはしないで」
薫は眉一つ動かさず、冷淡な、一ミリの感情も宿さない瞳で栂野を睨み返した。栂野はしばらく薫の目を凝視していたが、やがてフン、と鼻で息を漏らす。
「……チッ、勝手にしやがれ。ボロを出すんじゃねえぞ」
薫はそれ以上何も答えず、鉄の扉を閉めてコントロールルームを後にした。
◇
ビルの薄暗い階段を下り、鉄の扉を開けて外へ出る。
眩しい春の光のなかへ一歩足を踏み出したその刹那、薫の顔には、あの慈愛と包容力に満ちた「優しいお姉ちゃん」の笑顔が、瞬時に、完璧に張り付けられていた。
「お待たせ、澪ちゃん。機材、ちゃんと持ってきたわよ」
「あ、薫お姉ちゃん! おかえり――って、わあ……っ!!」
道で待っていた澪が、薫の両腕に抱えられた大きなビデオカメラを見て、クリクリとした目をきらきらと輝かせた。
「すごい……! プロのカメラマンさんみたいで、めちゃくちゃ格好いいね、お姉ちゃん!」
「ふふ、お姉ちゃんはプロだもの。さあ、ゲートへ向かいましょう」
澪の純粋な憧れの声に少しため息をついて微笑みながら、二人は並んで、青白く発光する巨大なダンジョン第一層の入場ゲート前へと辿り着いた。
本番の戦場を前にして、澪の小さな体が、昨日までの特訓の記憶とは違う生々しい恐怖で、カチコチに緊張して強張っていく。剣を持つ指先が小刻みに震え、足がすくみそうになっていた。
薫は手元のカメラを一度固定台に置くと、澪の前へと歩み寄り、その小さな、強張った両手を自らの滑らかな両手で優しく包み込んだ。
「澪ちゃん、私の目を見て?」
「あ……薫、お姉ちゃん……っ」
「大丈夫よ。今まで、私と一緒に練習したことをやれば絶対に大丈夫だから。……それとね、探索が始まる前に、カメラに向かって挨拶だけしてもらうから、頑張ってね?」
包み込んだ手のひらから、お姉ちゃんの温かい熱が直に伝わっていく。薫が優しく笑いかけると、澪はコクンと力強く頷いた。
「うん……っ! 私、がんばる!」
「よし、じゃあ、お姉ちゃんと一緒に。せーの――」
二人は目を合わせ、大きく同時に深呼吸をした。
肺いっぱいに春の空気を吸い込み、心臓のバクバクとした嫌な緊張を吐き出す。澪の表情から余計な強張りが消え、凛とした冒険者の目が戻った。薫はカメラへと戻り、手元のスイッチをパチンと押し下げた。
レンズの脇で、小さなランプが血のように赤く点灯する。配信開始の合図だ。
「――さあ、リスナーのみんな、大変お待たせしました! カメラマンの薫よ。今日はね、私の大切で、自慢の可愛い妹分、澪ちゃんの初陣配信よ! みんな、熱い応援をよろしくね!」
薫の声のトーンが、一瞬で華やかな、親しみやすいカメラマンのものへと切り替わる。
促された小鳥遊澪は、150センチの体を盾の陰から少しだけ前に出すと、カメラに向かってぎこちなく頭を下げた。
「あ……う、小鳥遊澪です! 一生懸命がんばります、よろしくお願いします!」
『おお、新人ちゃんきた!』
『小柄で目がクリクリしててめちゃくちゃ可愛いじゃん!』
『カメラマンのお姉ちゃんの「自慢の妹分」発言てぇてぇ……』
『剣と盾か! 初心者らしくて応援したくなるな!』
画面の向こうでリスナーたちのコメントが、ものすごい速度で流れ始める。
「キィィィイイイッ!」
その時、前方から、醜悪な緑色の肌を持ったゴブリンが三匹、棍棒を振り回しながら突進してきた。そのうち先頭を走っていた一匹が、ほかの二匹より一足早く飛び出すようにして澪へと襲いかかる。
「澪ちゃん、前方からゴブリンよ! 練習通りにね!」
「うん……っ、いくよ!」
澪は地面を強く踏み締めた。
ビビリな性格ゆえに、澪の動きは臆病なほどに慎重だった。薫との猛特訓で叩き込まれた通り、何よりもまず、自らの小さな体をすっぽりと隠す頑丈な盾を体の中心へと引き絞り、足元を確実に確かめながら進んでいく。
ゴブリンの木棍が、澪の盾へと激しく叩きつけられた。
ドガンッ!
重い衝撃音が響く。しかし、澪は盾の脇を体へと密着させ、その防御のラインを崩さずに一撃を完璧に跳ね返してみせた。
『……電波、映像ともに正常。初期同接は一万五千、ほぼ予測通りだ。薫、そのまま引きの絵もキープしろ』
耳の奥のインカムから、二階のコントロールルームにいる栂野の声が流れた。これまでの下卑たコケにするような笑いは一切なく、ただ機械の動作を点検するかのような、極めて無関心で平坦なトーンだった。
「今よ、澪ちゃん! 相手が硬直したわ!」
「火魔法……っ!」
澪は手の甲から小さな火魔法を放った。
ポフッ、と頼りない音を立てて、小さな火球がゴブリンの顔面の前で弾ける。威力は弱く、連発もできない、ほんの少し火が出せる程度の魔法。しかし、至近距離で目を焼かれたゴブリンは、ギャッ、と悲鳴を上げて一瞬だけ完全に動きを止めた。
「そこだぁぁぁッ!!」
思い切りの良さが爆発した。
澪は鋭く地面を蹴り上げると、その決定的な隙を狙って、初心者用の片手剣をゴブリンの喉元へ鋭く突き込んだ。
ズシャァァァッ!!!
研ぎ澄まされた白銀の刃が、ゴブリンの喉元を正確に貫いた。
薫との過酷な訓練が本番の魔物相手にも通用することを知り、澪の顔にパッと安堵の笑顔が広がった。
だが、次の瞬間だった。
貫かれたゴブリンの肉体から、ドロドロとした、赤黒い本物の血が激しく噴き出し、冷たい石畳の上へと生々しくぶちまけられた。
鼻を突く強烈な血生臭さと、内臓の焼けるような異臭。
「あ……、う、あ……っ」
さっきまで安堵に満ちていた澪の顔から、一瞬にして血の気が完全に引き、幽霊のように真っ白に青ざめていった。
片手剣を握ったまま、足元の生々しい血溜まりを見つめ、澪の小さな体が、恐怖と嫌悪感でガタガタと激しく硬直した。
【あとがき】
「配信(シーン39)を見てくれてありがとう。カメラマンの千歳薫よ。
ということで――澪ちゃん、初陣です!
どうだった? 盾でしっかり攻撃を受けて、火魔法で目を潰して、最後は迷わず急所へ踏み込む。ちゃんと出来てたでしょう?
あれ、全部何度も何度も練習したのよ。盾の構え方も、足の運び方も、剣を突き出すタイミングも。だからゴブリンを倒した瞬間は、私も本当に嬉しかった。
でも、訓練じゃ教えられないこともあるのね。
魔物を斬った時の感触も、噴き出す血も、その匂いも、足元に広がっていくまだ温かい血溜まりも、あの子にとっては全部初めてだった。
画面越しなら、ただの『初討伐』。コメント欄なら『おめでとう』の一言で終わる。でも澪ちゃんは、その場所に立ってるの。
……怖かったでしょうね。
画面の前の、そう、そこのあなた。『澪ちゃん、初討伐おめでとう!』『初陣、最後まで見届けたい!』って思ってくれたなら、ぜひ【ブックマーク】でこの先も見守ってちょうだい。下にある評価の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に染める『最高額スパチャ』も待ってるわ。もちろん【感想】もね。
でも、まだ終わってないのよ。澪ちゃんの目の前には、あと二匹いる。
そして今――あの子は動けない。
次の配信(シーン40)。お願いだから……ちゃんと盾を上げてね、澪ちゃん。」




