シーン38『涙の先へ、生き残るための鍛錬』
静まり返った訓練所の練習場で、薫の呼吸の音だけが、激しく、痛ましく響き渡っていた。
震える両手で澪の頬をぎゅっと包み込んだまま、薫の瞳から溢れ落ちた大粒の涙が、澪の鼻先へと容赦なく滴り落ちていく。
「……。」
澪は、声も出せなかった。
クリクリとした目を限界まで大きく見開き、ただ真っ直ぐに、自分を包むお姉ちゃんの手の凄まじい震えと、剥き出しの涙を見つめ返している。
やがて、澪は小さく息を吸い込むと、自らの小さな手をそっと伸ばし、薫の手首を優しく包み込んだ。
「……ごめんね、お姉ちゃん」
ぽつり。
泣き言は、もう消えていた。あの子の丸い瞳の奥に、かつてないほどに強い、真っ直ぐな覚悟の光が灯る。
「私、遊びで東京に来たんじゃないもん。……お姉ちゃんに、そんな顔させたくない。もう一回、真剣にやらせて」
薫はハッとしたように目を見開き、ゆっくりと澪の頬から手を離した。袖で乱暴に涙を拭い去り、息を整える。
「……ええ。分かったわ」
◇
翌朝からの居候生活は、それまでとは全く異なる、極限までストイックなものへと姿を変えていた。
まだ夜の帳が明けきらない、薄暗い午前五時。
お揃いのもこもこルームウェアからアクティブなジャージへと着替えた二人は、都会の冷たい朝霧の中を並んで走り出した。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ! 薫お姉ちゃん、待ってぇ!」
「足元が疎かになってるわよ、澪ちゃん! 体幹を意識して、真っ直ぐ前を見るの!」
150センチの小さな体で、澪は必死になって薫の鋭い背中を追いかけ続けた。
自宅マンションへと戻ると、薫はすぐにキッチンへと立った。今まで自らが摂っていた味気ないサプリメントのボトルをすべて棚の奥へと片付け、澪の体作りのために、タンパク質と鉄分を徹底的に計算した本物の温かいご飯を毎食作り、二人で食卓を囲んだ。
「お姉ちゃんの作るご飯、すっごく美味しいけど……お肉の量がちょっと鬼気迫るものがあるよぉ」
「残さず食べなさい。筋肉を作らないと、あの重い盾は扱えないわよ」
食後は、リビングの絨毯の上が戦場になった。
腹筋、背筋、そして盾を持ち上げ続けるための腕立て伏せ。澪は歯を食いしばり、汗を床へと滴らせながら、薫の課す厳しい基礎鍛錬に一言も文句を言わずについていった。
夜二十一時。
リビングのガラステーブルの上には、オシャレな雑貨の代わりに、ダンジョンの詳細な地形図とモンスターの解剖資料が隙間なく広げられていた。
「いい、澪ちゃん。中層のプレデター・ハウンドが突撃してきたら、どう動く?」
もこもこのルームウェアに身を包んだ薫が、鋭い指先で資料を叩く。隣に座る澪も、同じようにもこもこの袖を捲り上げ、真剣な目でノートへペンを走らせていた。
「まずは、絶対に自分から剣を振らない。盾を体の中心に構えて、相手が噛み付いてくる衝撃を真っ直ぐ受け止める!」
「正解。あいつらは俊敏だけど、噛み付いた直後に必ず一瞬だけ硬直が生まれるわ。その隙を狙って、さっきのアドバイス通りに、初級の火魔法を顔面にポンと出すの。威力はいらない。目眩ましさえできれば、その瞬間に片手剣を喉元へ突き刺せる。分かった?」
「うん、わかった。盾で守って、火魔法で眩まして、剣で刺す!」
薫の教えるものは、カメラマンとしての演出ではない。自らが幾度となくレンズ越しに目撃してきた、冒険者たちが死に至る、最悪の死角。それをすべて逆手に取った、姉としての、潜る先輩としての、完璧な自衛のための戦術だった。澪はその言葉を一文字も聞き漏らさないよう、頭の中に必死に叩き込んでいく。
◇
そして――再び、あの訓練所の私有練習場へと戻ってきた。
3月末の乾いた風が結界の隙間から吹き抜けるなか、澪は初心者用の片手剣と、傷の付いた頑丈な盾を両腕に引き絞り、前髪を揺らして床に立った。
薫は何も言わず、バッグから、あの刃の欠けたククリナイフを取り出して構える。
「……来なさい、澪ちゃん。今度は、手加減しないわよ」
「うん、いくよ、薫お姉ちゃん! たぁっ!!」
澪の身体が、弾丸のように地を蹴った。
その踏み込みの鋭さは、数日前とは比べ物にならないほどに洗練されていた。澪は臆病なほど慎重に、慎重に、自らの盾の死角を完全に無くしながら、確実に足元を確かめて間合いを詰めていく。
片手剣が、薫の胸元めがけて鋭く突き出された。
薫はそれをククリナイフの刃で滑らかにいなしたが、澪はすぐに盾を体へと密着させ、防御のラインを微塵も崩さない。
「いい動きよ……っ! だけど、これならどう!?」
薫はククリナイフを激しく躍らせ、澪の盾の合わせ目へと、容赦のない速度と勢いで峰を叩きつけた。
ドガァンッ!!!
凄まじい金属音が響き渡り、澪の体が大きく後方へと弾き飛ばされる。そこへ、薫の冷徹な蹴撃が、澪の防具の隙間へと寸分の狂いなく叩き込まれた。
ズササササッ、と激しく音を立てて、澪の小さな体が冷たい石畳の上を何度も何度も転がっていった。防具が擦れ合い、砂塵が激しく舞い上がる。
数日前なら、ここで痛みに涙を浮かべ、折れそうになっていたはずの衝撃。
しかし――。
「ふっ……、くぅっ……!」
澪は、もう泣かなかった。
彼女は唇を強く噛み締め、溢れそうになる涙を瞳の奥へと押し込めると、砂埃にまみれた片手剣を杖にして、弾かれるようにしてその場に立ち上がった。
ガシャッ、と重々しい音を立てて、自らの身長ほどもある頑丈な盾を、正面へと真っ直ぐに構え直す。
砂埃の向こうから薫をにらみ据えるそのクリクリとした瞳には、一歩も退かない、強固な冒険者としての光が狂おしいほどに満ち満ちていた。
「――もう一度、お願いします!!!」
凛々しく、必死な、妹の声。
あの子の凄まじい成長を正面から見つめながら、薫は、ククリナイフを構えたまま、あずき色の唇を静かに、心からの誇らしさを込めて柔らかく綻ばせるのだった。
【あとがき】
「配信(シーン38)を見てくれてありがとう。カメラマンの千歳薫よ。
先に言っておくけど、分かってるわよ。朝五時から走らせて、筋トレさせて、夜はモンスターの勉強。それで訓練所では、あの子が吹き飛ぶくらい本気で攻撃して……ちょっと厳しすぎたかもしれないわね。
でも、私、あの子には強くなってほしいの。格好いい冒険者になってほしいとか、有名になってほしいとか、そんなことより先に、ちゃんと自分の足で帰ってきてほしい。
盾を持つ腕が震えても、怖くて足が止まりそうになっても、それでも自分で立ち上がって、生きて帰れるくらいに。
最後の澪ちゃん、見たでしょう? あれだけ派手に吹き飛ばされたのに、『もう一度、お願いします』ですって。
……ほんと、誰に似たのかしらね。
画面の前の、そう、そこのあなた。『澪ちゃん、強くなった!』『あの“もう一度”にグッときた!』って思ってくれたなら、ぜひ【ブックマーク】でこれからもあの子を見守ってちょうだい。下にある評価の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に染める『最高額スパチャ』も待ってるわ。もちろん【感想】もね。
さて、訓練はここまで。次はもう練習場じゃない。
次の配信(シーン39)は、澪ちゃん初めての本物のダンジョンよ。
……大丈夫。あれだけ頑張ったんだもの。お姉ちゃんが、ちゃんと後ろで見てるから。」




