シーン37『形見の刃、守るための痛み』
冬の名残を払うような少しだけ緩んだ春の空気が、マンションの窓の外を満たしていた。
リビングの姿見の前で、薫は探索者用の黒い衣装へと着替え終えると、棚の最奥から、あの刃の欠けた鈍い銀色のククリナイフを取り出した。あの子が最期に遺した、無惨にひしゃげた形見。薫がそれを静かにバッグの底へと収める様子を、隣で自らの荷物をまとめていた澪は、言葉を発することなく、そのクリクリとした丸い瞳で静かに見つめていた。
「お姉ちゃん、お待たせ! 準備できたよ!」
もこもこのルームウェアから、頑丈な初心者用の防具へと着替えた澪が、弾むような声を出してリビングへと飛び出してきた。
「ええ、行きましょうか。忘れ物はない?」
「うん、バッチリ!」
街の訓練所へと向かう道中、薫はいつも通りの優しいお姉ちゃんの微笑みを澪に向けていた。まだ都会の雑踏に慣れず、時折怖がるように身を縮める澪の歩幅に合わせてゆっくりと歩き、他愛のない世間話を交わしながら、二人は頑丈な結界に囲まれた訓練所の私有練習場へと足を踏み入れた。
冷たい石畳が広がる、静まり返った広大な空間。
二人は並んで床に立つと、まずは体をほぐすために、一緒になって屈伸やストレッチを始めた。
「いち、に、さん、し。……澪ちゃん、そこ、もっとしっかり腰を落として、足を伸ばして」
「はーい! いち、に、さん、し! うぅ、お姉ちゃん体柔らかいねぇ」
「ダンジョンの中では、一瞬の体の硬直が命取りになるのよ。ほら、次、腕を伸ばして」
他愛のない、だけどどこか心地よい温かい時間が練習場を満たしていく。
しかし、一通りの準備運動を終え、澪が背中から初心者用の片手剣と頑丈な盾を下ろして構えた、その瞬間だった。薫は自分のバッグの底から、あの刃の欠けた鈍い銀色のククリナイフを、音もなく取り出した。
逆手に持ち替え、静かに、一分の隙もない構えで、その刃先を澪の胸元へと向ける。
「……お姉ちゃん。それ、さっきお家でバッグに入れてたナイフだよね。……本当に、それを使うの?」
澪のクリクリとした目が、初めて少しだけ不安げに揺れた。薫はいつもの優しい声を完全に消し去り、冷徹な、一瞬の澱みもない先輩の佇まいで低く告げる。
「お姉ちゃんが相手をしてあげる。澪ちゃん、本気で私を狙って、その片手剣を振るいなさい。盾の構えも、絶対に緩めないこと」
その凍りつくような威圧感に、澪はごくりと唾を飲み込むと、盾をぐっと顔の前へと引き絞った。
澪はビビリな性格ゆえに、臆病なほど慎重に、慎重に間合いを測り始めた。足元を何度も確かめ、踏み石の隙間を恐れるようにして、すり足で一歩ずつ前へと進む。
「……たぁっ!」
いざ間合いに入った時の思い切りの良さはあった。澪は鋭く地を蹴ると、初心者用の片手剣を真っ直ぐに薫の胸元へと突き出した。しかし、薫はその剣筋を、手元にあるククリナイフの平で滑らかに、軽々といなしてみせた。
ガギィンッ!
鋭い金属音が静かな空間に響き渡る。薫は一歩も退くことなく、澪の目を真っ直ぐに見据えた。
「踏み込みはいいわ。慎重に足元を確かめられている。……だけど、片手剣を振るうその瞬間に、自分の右肩が前に出て、左の盾の脇が完全に甘くなっているわよ。それじゃあ、化け物に左脇腹をどうぞって差し出しているようなものよ」
「え……っ、あ……」
「見ていて」
薫は澪から片手剣と盾を受け取ると、手本を示すように無駄のないステップを踏んでみせた。
「盾で正面の視界と自衛のラインを確保しながら、その防御の陰から、こうやって片手剣を鋭く突き出すの。剣を振るう瞬間こそ、盾を絶対に体から離してはダメ。……さあ、もう一度来なさい」
「うん……わかった。……たぁっ!」
澪が再び、アドバイスをなぞるように足元を確かめながら鋭く突進する。
今度は盾の構えを維持しようとしていた。しかし、薫はその剣筋をククリナイフの刃で滑らかに受け流すと、そのままククリナイフの峰を、澪の構える頑丈な盾へと、容赦なく全力で叩きつけた。
ドガァンッ!!!
「ひゃっ!?」
凄まじい衝撃が盾を伝わり、澪の小さな体が大きく後方へとよろめく。完全に姿勢の崩れたその無防備な胸元へと、薫の鋭い蹴撃が、容赦なく叩き込まれた。
ズササササッ、と激しく音を立てて、澪の体が冷たい石畳の上を何度も転がった。防具が擦れ合い、鈍い火花と砂埃が舞い上がる。
「立ちなさい。ダンジョンの化け物は、倒れた相手を待ってくれないわよ。息を整える前に次の爪が降ってくるわ」
「……う、ぅ……っ。い、痛いよぉ……っ」
澪は涙目で、片手剣を支えにして、砂埃にまみれながらどうにか立ち上がった。小さな両腕は、盾越しに受けた衝撃のせいでガタガタと激しく痙攣し、剣を握る指先が小刻みに震えている。
「お姉ちゃん、厳しすぎるよ! 痛いし、いくら何でも、こんなの……っ」
あの子が、痛みに耐えかねて泣き言を漏らした、まさにその瞬間だった。
薫の頭の中で、張り詰めていた何かが、音を立てて完全に弾け飛んだ。
「――遊びじゃないのよ!!!」
訓練所の広大な空間に、薫の、ヒステリックに裂けるような絶叫が響き渡った。
「え……?」
澪が、初めて見るお姉ちゃんのその異様な形相に、恐怖で身を竦めて完全に息を呑んだ。
薫は肩を激しく上下させ、顔を真っ赤に変色させながら、狂ったように激しく、荒い呼吸を繰り返していた。切れ上がった彼女の瞳には、怒りと、それを遥かに凌駕するほどの圧倒的な恐怖の涙が、大粒の膜となって溢れ返っている。
「これは命の危険がある、本物のダンジョン探索のための訓練なのよ……っ! 痛いなんて、当たり前でしょう!? 傷つくのが嫌なら、今すぐ全部辞めて田舎へ帰りなさい……っ!!」
「お姉ちゃん……?」
薫は持っていたククリナイフを冷たい床へ乱暴に放り出すと、澪の元へ駆け寄り、その場に激しく膝をついた。
少年の最期の笑顔。右手に残った、あの子の手の温度。忘れようとしても消えない二つの光景が、薫の頭の奥で一気に弾けた。
薫は震える、自分ではどうしても止められない両手で、澪の小さな両頬をぎゅっと力任せに包み込んだ。
彼女の瞳から、堰を切ったように大粒の涙がポロポロと流れ落ち、澪の頬へと容赦なく滴り落ちていく。
「今まで……っ、何人も、何人も……!! 私の目の前で、ダンジョンの中で血を吐いて、ボロボロになって死んでいった人たちを、私は見てきたのよ……っ!!」
息が詰まるほどの、必死な、自らの内臓をすべて吐き出すかのようなお姉ちゃんの声が、静かな練習場に響き渡る。
「あの子たちみたいに……あなたにだけは、絶対に、絶対に死んでほしくないの……っ! だから……だからお願いだから……!!」
澪の頬を包む、薫の手のひらの凄まじい震え。
向けられた、剥き出しの、狂気的なまでの本心の涙と絶叫を前にして、澪はただ驚愕に目を丸くし、声もなく、大好きなあのお姉ちゃんの顔を、じっと見つめ返すことしかできなかった。
【あとがき】
「配信(シーン37)を見てくれてありがとう。カメラマンの千歳薫よ。
……ちょっと、怒りすぎたわね。澪ちゃんに『遊びじゃない』なんて怒鳴って、あんなに泣いて。お姉ちゃん失格かしら。
でもね、怖かったのよ。あの子が盾を弾かれて床を転がった瞬間、ほんの一瞬だけ、別の人たちに見えたの。
あのククリナイフ、覚えてるでしょう? あなた、ずっと見てたんだから。刃が欠けて、ひしゃげて、それでも私が捨てられなかった紬ちゃんのククリ。
あれを握って澪ちゃんに向けていたら、嫌でも思い出すのよ。私の目の前で死んでいった人たちのことを。最後まで私を守ろうとした子も、最後まで私の手を握ってくれた子も。
だから嫌なの。澪ちゃんまで、ああなるのは絶対に嫌。
痛いなら泣けばいいし、怖いなら震えたっていい。格好悪くたって、配信が盛り上がらなくたって、そんなことどうでもいいの。ただ、生きて帰ってきて。それだけでいいのよ。
画面の前の、そう、そこのあなた。『澪ちゃん、負けないで』『薫、ちゃんとあの子を守って』って思ってくれたなら、【ブックマーク】して、この先も見届けてちょうだい。下にある評価の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に染める『最高額スパチャ』も待ってるわ。【感想】も、ちゃんと読むから。
ねえ、私、ちゃんと出来てるわよね? 今度こそ、ちゃんとこの子を生きて帰すためにやってるわよね?
次の配信(シーン38)は訓練の続き。澪ちゃんが、あの涙のあとで何を選ぶのか……一緒に見ていて。」




