シーン33『心臓の泥濘、(でいねい)声なき驚愕』
「あの……すみません。ダンジョン配信のプロデュースをお願いしたくて、こちらの『クローバー撮影事務所』さんを訪ねてきたのですが……。今、よろしいですか……?」
純白の応接扉の隙間から、おずおずと顔を覗かせたその人物と、正面から完全に目が合った。
薫は、声も出せなかった。
ただ漆黒の瞳を限界まで大きく見開き、驚愕に身を硬くして立ち尽くす。
その視線の先で、少女は薫の姿を認めた瞬間、丸い瞳を弾けるように輝かせた。
「え……? 薫、お姉ちゃん……っ!?」
少女――小鳥遊澪は、持っていた安物のナイロンバッグを床に落とすのも構わず、勢いよく扉を押し開けて室内へと飛び込んできた。
「嘘……っ、本当に薫お姉ちゃんだよね!? そうだよね!? 久しぶり……! 会いたかった、ずっと会いたかったよぉ!」
弾むような、一点の曇りもない歓喜の声。薫の白い指先が、ガタガタと目に見えて震え始める。澪はその異変に気づくこともなく、顔を限界まで近づけて声を弾ませた。
「元気にしてた? なんか、地元にいる時より信じられないくらい美人になったんじゃない!? あ、見て見てこれ!」
澪は自分のカバンを薫の目の前へと突き出した。そのジッパーの端には、古びたマスコットが揺れている。
「お姉ちゃんが地元の駅で『がんばってね』ってくれた、このうさぎのお守り、今でもずーっと大事に付けてるんだよ? あの時、私寂しくてホームで大泣きしちゃって、お姉ちゃんの手を全然離さなくって……本当に困らせちゃったよね。あはは!」
「……み、お……ちゃん……」
ようやく掠れた声を絞り出した薫の顔は、血の気が完全に引き、幽霊のように真っ白だった。澪は嬉しそうに薫の両手を包み込む。
「私ね、どうしても薫お姉ちゃんの後ろを歩いてたあの頃みたいに、またお姉ちゃんの隣に行きたくて……実家の皆にはすっごく怒られちゃうかもしれないけど、何も決めないで田舎を飛び出してきちゃったの!」
「実家を……? 飛び出して……?」
「だって、地元にいた頃、私がいじめられてる時、いっつも真っ先に走ってきて『大丈夫?』って手を引いてくれたの、薫お姉ちゃんでしょ? 東京って本当に怖くて、ずっと迷子みたいだったから……お姉ちゃんに会いたくて東京に来たの! まさか、ネットで見つけた事務所で本当にお姉ちゃんに会えるなんて、信じられない、本当に夢みたいだよ!」
嬉しそうに、誇らしげに語られる、あの眩しい光のような記憶。
しかし、薫の耳の奥に仕込まれたインカムの向こうから、事務所の二階でその音声を聞いていた栂野の、下卑た大爆笑が響き渡った。
『ギャハハハハ! おいおいマジかよ薫! 地元が同じで、妹みたいに可愛がっていた奴が向こうから飛び込んでくるなんて、最高にラッキーじゃねえか! これなら最初の信頼関係を築くロールプレイの手間が省けるなぁ!』
カネの亡者の、ゾクゾクするような冷酷な計算。
薫はただ立ち尽くし、真っ白な顔のまま、唇を小刻みに震わせるだけで、澪の真っ直ぐな瞳をまともに見返すことすらできなかった。そんな薫のただならぬ沈黙に、インカムの栂野の声が、蛇のように冷たく昏いトーンへと一変する。
『……おい、薫。何黙ってんだよ。別に、嫌ならこの仕事を今すぐ辞めて、どこへでも逃げてもいいんだぜ? ――昔、お前を「おとり」にして、自分だけ安全な場所へ逃げた、あの女みたいによぉ』
薫の脳髄を、過去の最悪な記憶が鋭く突き刺す。
かつて、薫自身も依頼人の一人だった。
今、湊や紬が署名し、そしてこの後、澪が署名することになる契約書。その書類には、通常の条項とは別に、もう一枚の『身代わり特約』が存在する。
ただし、それは契約書の裏側へ、一枚の紙にしか見えないほどぴったりと貼り付けられていた。
薫自身も、昔その契約書へ署名した時には、その存在を知らなかった。
後になって初めて知ったのだ。
契約者が逃亡、あるいは義務を放棄した場合、クローバーが指定した別の人間へ、その役目と債務を引き継がせることができる。
『お前が今から逃げたらさぁ、そのお留守番の可愛い妹分が、今のお前と全く同じ立場になって、次の「商品」を地獄へハメる身代わりになるだけだからな。……さあ、どうするんだよ、薫?』
栂野の下卑た笑い声が耳奥で響く。
その瞬間、薫の胸の奥から、破滅的なまでの拒絶反応が突き上げてきた。
「――ダメ!!!」
応接室に、薫の裂傷のような大声が響き渡った。
「え……? 薫お姉ちゃん……? どうしたの、大丈夫……?」
突如として取り乱した薫の姿に、澪はびくりと肩を強張らせ、心配そうに顔を覗き込んできた。
「ごめんね……っ、澪ちゃん。ちょっと、お手洗いに行ってくるわね」
薫はそれだけを震える声で言い残すと、サイドに留められていた黒真珠のヘアピン型隠しカメラを、応接机の上へと音を立てて置き去りにした。彼女は逃げるように応接室を飛び出した。
廊下の突き当たりにあるトイレへと駆け込み、内側から激しく鍵をかける。
その瞬間、限界を迎えていた心身の拒絶反応が、胃の奥から一気にせり上がってきた。
「がはっ……、オェェェェェェッッッ!!!! げほっ、ぶふっ……オェェェッ、オェッ、ォロロロロロロロッッッ!!!!」
薫は便器にしがみつき、胃の底を引き裂くような凄まじい音を立てて、盛大に吐き散らした。濁った胃液と、サプリメントの残骸が激しく溢れ出す。涙と鼻水で視界を完全に遮られながら、酸っぱい悪臭のなかで、内臓のすべてを絞り出すかのように何度も、何度も、激しく嘔吐を繰り返した。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
洗面台の蛇口を捻り、冷たい水で何度も口をゆすぎ、乱暴に顔を洗う。
薫はゆっくりと、正面の鏡を見つめた。
「…………何見ているのよ」
水滴の滴る顔のまま、鏡の中の自分を、その奥をじっと射すくめる。
「あの子はダメ……。澪ちゃんだけは……絶対にダメなのよ……!!」
爪が、洗面台の白磁を鋭く引っ掻く。
「ねえ、お願い。もうスクロールしないで。これ以上進めないでよ……!! あなたが見るから、私が動いちゃうのよ……! だからお願い、見ないで……!!」
「……なんで。なんでまだ見ているのよ……っ」
「そんなに私に……あの子まで、殺させたいの……?」
「見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな!!!」
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
薫は鏡に頭を打ち付け、ガタガタと止められない震えの中で、ついに、ぽつりと不敵な笑みを漏らした。
「……わかったわよ。やるわよ。やればいいんでしょ……?」
彼女はゆっくりと顔を上げると、袖で涙を乱暴に拭い去り、氷の瞳で鏡の向こうを睨みつけた。
「忘れないで。これは、あなたが進めた、あなたが求めた地獄の物語なんだから。――私とあんたは、同罪よ」
「……絶対に、途中で逃げるなよ?」
カチャリ、と個室の鍵を開ける音が響いた。
廊下へ歩み出た千歳薫の顔には、すでに、あの慈愛と包容力に満ちた、完璧な「聖母の笑顔」が瞬時に張り付けられていた。
何も知らない、純粋な光そのものの少女が待つ、あの純白の地獄の応接室へと、悪魔は静かに、足音を鳴らして戻っていくのだった。
【あとがき】
「……ここまで来たのね。
あれだけスクロールしないでって言ったのに、結局あなたは最後まで見た。
澪ちゃんは何も知らないのよ。私がここで何をしてきたのかも、この事務所がどんな場所なのかも、自分がこれから何に巻き込まれるのかも。
ただ昔と同じように、私のことを『薫お姉ちゃん』って呼んで笑ってるだけ。
……もう『見ないで』とは言わないわ。
ここから先へ進むなら、最後まで見ていて。
私が何をするのかも、澪ちゃんがどうなるのかも。
そして最後まで、忘れないでね。
この物語を先へ進めたのは――私だけじゃないんだから。」




