シーン34『夕暮れの足跡、二人きりの導線』
純白の応接室に戻った薫は、机の上に広げられた書類を前に、いつもの柔らかな微笑みを浮かべていた。
「じゃあ、薫お姉ちゃん、ここに名前を書けばいいの?」
「ええ。そこに名前を書いてちょうだい、澪ちゃん。形式的なものだから」
小鳥遊澪は、150センチほどの小さな体をソファで弾ませ、クリクリとした大きな目を輝かせながらペンを走らせた。契約書の中身――死亡時にすべての資産が事務所へ強制移転するという悪魔の特約条項など、一行も、一文字も目を通すことはない。ただ、目の前にいる大好きな「お姉ちゃん」を100%信じ切った、満面の笑顔だった。
『小鳥遊 澪』
力強く書かれたサインを見届け、薫は書類を手に立ち上がった。
「ちょっと、二階の責任者にこれを届けてくるわね。ここで待っていて」
「はーい!」
薫は応接室を出ると、階段を上って二階のコントロールルームへと向かった。鉄の扉を開けると、栂野がデスクに足を乗せてニヤニヤと笑い、千早が淡々とキーボードを叩いている。
薫は、栂野のデスクへ歩み寄ると、自分の黒髪からヘアピン型の隠しカメラを抜き取り、耳の奥の極小インカムと一緒に、カツンと机の上へ置き去りにした。
「おい、薫。何やってんだよ、機材を置いていく奴があるか」
栂野が不機嫌そうに眉をひそめる。薫は冷徹な、一ミリの感情も宿さない瞳で栂野を睨み据えた。
「お姉ちゃんとして、あの子の私生活の面倒を見るのよ。こんなもの耳に付けていたら、集中できないわ。仕事は完璧にやるから、余計な口出しはしないで」
「……チッ、勝手にしやがれ。ボロを出すんじゃねえぞ」
栂野の舌打ちを背中で聞きながら、薫はコントロールルームを後にした。
一階へ下り、応接室の扉を開けると、澪が大人しくソファに座って待っていた。改めて見ると、澪は私服のままで、武器も防具も一切身に付けていない。
「ねえ、澪ちゃん。武器とか防具はどこにあるの?」
「え? 持ってないよ! だって都会のお店って、格好いいのがいっぱい並んでて、自分に何が合うか全然分からなくって……」
澪がクリクリとした目を泳がせながら、気まずそうに指先をいじる。薫は、小さくため息をついて微笑んだ。
「本当に、昔から変わらないんだから。……よし、じゃあお姉ちゃんが一緒に選んであげる。街の武器屋へ行きましょう」
「えっ、本当!? やったぁ!」
二人は事務所を出て、冒険者たちで賑わう街の大きな武器屋へと向かった。
店の奥には、頑丈な結界に守られた、初心者向けの「練習場」が併設されている。店主からいくつか初心者用の武器を借り、薫は澪を訓練用のダミー標的の前に立たせた。
「まずは、色々試してみましょう。どれが使いやすそうか、お姉ちゃんに見せて?」
「うん、やってみる!」
最初に澪が手にしたのは、初心者用の大剣だった。
澪は標的を前にすると、ビビリな性格が災いして、臆病なほど慎重に、慎重に間合いを測り始めた。足元を何度も確かめながら、一歩ずつすり足で進む。
「……たぁっ!」
いざ踏み込んだ時の思い切りの良さはあったが、150センチの小柄な体には大剣はあまりにも重く、振り抜いた衝撃で澪は危うく尻餅をつきそうになった。
「うぅ、重いよぉ……。これじゃ化け物が来る前に疲れちゃう」
「そうね、澪ちゃんには少し質量が勝ちすぎているわね。じゃあ、次はこれにしてみる?」
薫は次に、軽量の槍を渡した。
澪は再び、慎重に距離を保ちながら槍の穂先を突き出そうとする。だが、ダミー標的がカチャリと不意に動いた瞬間、澪は「ひゃっ!」と小さく飛び退いてしまった。パニックになった澪は、手の甲から小さな火魔法を放った。
ポフッ、と頼りない音を立てて、小さな火球が虚空で弾ける。
威力は弱く、範囲も短く、続けて撃つこともできない。ほんの少し火が出せる程度の、頼りない初級魔法。
「う、魔法もあんまり上手く出せないや……。お姉ちゃん、私、何がいいか本当にわかんないよ……」
澪は槍を抱えたまま、困ったように眉を下げて薫を見上げた。
薫は、澪のこれまでの動き――魔物を近づけたくなくて臆病なほど慎重に進む姿勢、いざという時の思い切りの良さ、間合いの取り方、そして自衛のために咄嗟に出る初級の火魔法の癖を、じっと真剣に見つめていた。
薫は歩み寄り、澪の目線に合わせて腰を落とした。
「澪ちゃん。さっき槍が動いた時、すっごく怖かったでしょう?」
「うん……怖かった。化け物の爪とか、絶対に当たりたくないもん」
「だったら、体を守るものが一番に必要ね。……お姉ちゃんからの提案なんだけど、片手剣と、盾にしてみない?」
「片手剣と……盾?」
「ええ。まずはその大きな盾で、怖いものを全部跳ね返すの。しっかり身を守って、慎重に足元を確かめながら進んで、隙が見えたら、さっきの火魔法を相手の顔の前にポンって出すのよ。威力が弱くても、相手は一瞬だけ目眩ましになるわ。その隙に、この片手剣で思い切り踏み込んで叩きつける。……どうかしら?」
薫が差し出したのは、初心者用の小ぶりな片手剣と、澪の小さな体をすっぽりと隠せる頑丈な盾だった。
澪はそれを両手に構え、じっとその重さを確かめた。そして、パッとクリクリの目を輝かせる。
「あ……これ、すっごくしっくりくる! 盾があると、全然怖くない気がするよ、薫お姉ちゃん!」
「ふふ、良かった。澪ちゃんには、それが一番使いやすいわ」
澪の戦闘スタイルが、最も安全で、最も確実な「剣盾」に決定した。
薫は店主へ代金を支払い、澪の防具も一通り揃えると、すべての荷物を持って武器屋を出た。
「あのね、お姉ちゃん。私、実は東京に出てきたばかりで、まだ住む場所も決まってなくて……安アパートを探さなきゃいけないんだよね」
夕暮れの街路樹の下、澪が照れくさそうに荷物を抱えながら言った。
薫は一瞬だけ足を止め、小指に宿る、二つの輪を重ね合わせたギメルリングの感触を無意識に確かめる。だが、その顔には、すぐに昔と変わらない甲斐甲斐しいお姉ちゃんの微笑みが戻っていた。
「本当に、相変わらず無計画なんだから。……いいわ、アパートが見つかるまで、私の部屋に居候しなさい」
「えっ!? 本当に!? やったぁ、薫お姉ちゃん大好き!」
澪は嬉しそうに跳び上がり、薫の腕に抱きついた。その無垢な温もりを受け止めながら、薫はあずき色の唇をほんの少し噛み締めた。
二人の長い影が、赤橙色の夕暮れの歩道へ並んで伸びていた。
【あとがき】
「……ねえ。
私、カメラもインカムも置いてきたのよ。栂野にも千早にも見られないようにして、今日はただのお姉ちゃんとして澪ちゃんと過ごしたかった。
武器を選んで、盾を持たせて、一緒に歩いて。それで、住むところが決まるまで私の家に来ればいいって言っただけ。
……なのに。
どうして、あなたはまだ見えてるの?
カメラなんてないでしょう。配信だってしてないのに、武器屋にも、夕暮れの道にも……ずっとついてきてた。
ねえ、お願い。
澪ちゃんとの時間くらい、私たち二人だけのものにさせてよ。
あの子は……何も知らないんだから。」




