シーン32『剥ぎ取られた聖夜、小指の檻』
深夜零時を回ったクローバー撮影事務所のコントロールルームは、白々としたモニターの光の海の底に沈んでいた。
「ギャハハハハ! 見ろよこの数字! 同接十五万、売上二千万突破だぞ! 完璧すぎる、最高のクリスマスロストじゃねえか!!」
統括ディレクターの栂野が、一本数万円は下らない高級シャンパンのコルクを勢いよく弾き飛ばした。黄金色の泡がデスクの端に置かれたキーボードへ無造作に飛び散るが、誰もそれを気に留めない。
「テクニカルログの同期、および宇佐美紬のギルド口座のバックアップ同期、すべて完了しました」
千早の無機質な指先がキーボードを叩く。画面には真っ赤な『資産移転執行:100%』の文字列が冷酷に点滅していた。
「薫ちゃん、何突っ立ってんだよ! ほら、祝杯だ!」
差し出されたクリスタルグラスを、千歳薫は一瞥もしなかった。彼女はただ、デスクの最果て、冷たいスチール製の棚の影へと歩み寄る。
その両手には、赤黒い血溜まりから辛うじて回収してきた、一本のククリナイフがあった。刃線は激しい圧砕の衝撃で無惨にひしゃげ、鈍い銀色の輝きは完全に失われている。
コン、と乾いた音がした。
薫は、あの子の形見を、機材室の埃っぽい棚の奥へと無造作に置いた。
「……今日は疲れたから、これで失礼するわ」
「あ? おい、薫! まだシャンパンの一口もつけてねえぞ!」
背後から響く栂野の不機嫌なダミ声を、薫は鉄の扉を閉める音ですべて遮断した。ビルの急な階段を下りるスニーカーの足音が、夜の静寂へと冷たく消えていく。
都会の一等地にあるデザイナーズマンションの室内に、鍵の回る電子音が静かに響いた。
重厚な純白の扉を開け、薫はリビングへと足を踏み入れる。
「…………」
視界に飛び込んできたのは、息を呑むほどに鮮やかな、色彩の残骸だった。
壁一面に躍る、赤と緑の『MERRY CHRISTMAS』の切り紙文字。
ドアノブに飾られた、小さな松ぼっくりと白いフェルトで作られたウサギのクリスマスリース。
すべては数日前、あの子と二人で特別な夜を過ごすために、薫自身がこの両手で、時間をかけて丁寧に飾り付けたものだった。
薫は、あの子の返り血が赤黒いシミを作っているオーバーサイズのパーカーを着たまま、動かなかった。ただ立ち尽くし、冷え切った部屋の真ん中で、ゆっくりと右手を持ち上げる。
壁の切り紙へと指先が触れバリ、と乾いた音がリビングに響く。薫は無言のまま、文字の端を掴んで力任せに剥ぎ取った。
バリ、バリバリ、ザザッ。
機械的に、黙々と、彼女の手は動き続けた。
ウサギのリースを外し、壁のガーランドを引きちぎり、色鮮やかな装飾を床へと容赦なく投げ捨てていく。
――ポト。
外したばかりの緑色の切り紙の上に、一滴の、大きな水滴が落ちて丸いシミを作った。
「……あ」
薫は、自らの頬を触った。
指先が濡れた。驚くほど熱い液体が、切れ上がった瞳から、堰を切ったようにボロボロと溢れ落ちていく。
(なんで……)
脳裏に、あの湯煙の銭湯での、耳をくすぐる高い笑い声が蘇る。
居酒屋での他愛のない恋愛トーク。カラオケの狭い部屋で、気恥ずかしそうにマイクを握りしめていたあの子の横顔。
そして――「薫ちゃん! お誕生日おめでとう!」
大きなケーキの箱を抱えて、エントランスの画面の向こうで満面の笑みを浮かべていた、あの純粋な、一点の曇りもない祝福の記憶が、激しい濁流となって薫の脳髄を圧砕しに押し寄せてくる。
「っ……、う、あ……」
薫は床に膝をつき、剥ぎ取ったクリスマスのゴミの中に顔を埋めて、激しく、痛ましく咽び泣いた。あの子を自らの足でウサギの檻へと叩き落とした悪魔は、誰もいない暗闇の部屋で、自分の内臓をすべて吐き出すかのように声を枯らして泣き続けた。
涙に濡れた視界の先、ガラステーブルの片隅に、一つの小さな正方形の箱がポツンと取り残されているのが見えた。
上品な白いリボンがかけられた、未開封の箱。
薫は震える手でそれを引き寄せ、リボンをほどいて蓋を開けた。
中に収められていたのは、小さな銀製のコンパクトミラーだった。表面には、あの子の素朴な前髪の髪留めによく似た、一羽の小さくて愛らしいウサギの彫刻が丁寧に施されている。
12月24日。
あの子の誕生日に、手渡すはずだった、先の約束の証明。
「……バカね、本当に……バカなのは、私の方じゃない……っ」
薫はコンパクトミラーを胸元へ強く抱きしめ、冷たくなった床の上で、夜が明けるまでずっと、一人きりで震え続けていた。
装飾のすべてが消え失せ、いつもの無機質な冷たさを取り戻したリビングに、冬の白い朝光が容赦なく差し込んできた。
夜が明ける頃、薫はようやく血に汚れた服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
薫はソファの上に座り、静かに、自らの左手の小指を見つめていた。
そこには、あの子から「最強の相棒の証」として贈られた、シルバーのリングが一本だけ嵌められている。
薫はそれを、小指からゆっくりと引き抜いた。
パーカーのポケットの奥から、もう一つの銀の輪を取り出す。あの子が黒鉄の罠に圧砕される直前まで彼女の手を握りしめ、死の瞬間に、その千切れた小指から力任せに引き抜いてきた、もう片方の形見のリング。
薫は二つの歪な銀の輪を、手の中でそっと重ね合わせた。
カチリ。
静まり返った部屋に、小さく、冷たい金属音が響く。
正反対の凸凹が、知恵の輪のようにピタッと吸い付くように噛み合い、一つの完成された『ギメルリング』へと合体した。
薫はその合体した、ずっしりと重い指輪を、自らの左手の小指へと、深く、静かに嵌め直した。
薫は立ち上がり、姿見の前に立った。
漆黒の髪をサッと手で整え、胸元の開いたシャツの襟を直す。あずき色の唇に、いつもの冷徹な、完璧なプロのカメラマンの微笑みを張り付け、彼女は自宅の扉を開けた。
あの子にこんな血生臭い、悪魔のような仕事を手伝わせるわけにはいかない。これは、自分一人で背負うべき地獄なのだから。
年が明け、あの日の中層での惨劇からしばらくの時間が経過した、ある春先の昼下がり。
クローバー撮影事務所のオフィスは、いつもの退屈な平穏を取り戻していた。
壁のモニターには、すでに宇佐美紬のバイタルグラフも、チャンネルのダッシュボードも存在していない。ただの空白がそこにあるだけだった。
「チッ、ロクな新人が来ねえな。薫、一階に応接室の準備でもしておけ。次の『商品』が来たら、いつもの聖母の笑顔でハメるんだからよ」
栂野が缶コーヒーを睨みつけながら吐き捨てる。
「わかったわ。……行ってくるわね、千早ちゃん」
「ええ。行ってらっしゃい、薫さん」
薫は一階へと続く階段を静かに下りていった。
一階の清潔な応接室。薫はソファの配置を整え、机の上に新しい『業務委託契約書』を音もなく滑らせる。
彼女は髪をサッと耳にかけ、その美しい顔に、あの慈愛と包容力に満ちた「聖母の笑顔」を、瞬時に完璧に張り付けた。
ソファの定位置に腰掛けようとした、まさにその瞬間だった。
カラァン、コロン……。
玄関の扉が開いたことを知らせる、のどかな鈴の音が、静まり返った応接室に冷たく響き渡った。
応接室の純白の扉が、外側から細く、おずおずと押し開けられた。
「あの……すみません。ダンジョン配信のプロデュースをお願いしたくて、こちらの『クローバー撮影事務所』さんを訪ねてきたのですが……。今、よろしいですか……?」
扉の隙間から、ひょこりと中に顔を覗かせた、その人物。
薫と、その人物の目が、正面から完全に合った。
薫は、声も出せなかった。
ただ、その漆黒の瞳を限界まで大きく見開き、驚愕の表情になる。
【あとがき】
「疲れた…。」




