シーン28:『純白の夜、小指に宿る受け売りの絆』
第五層攻略を終え、日付が変わった【10月24日】。深夜零時を回った頃、千歳薫は都会の一等地にある自宅マンションへと帰宅した。
オートロックのエントランスを抜け、エレベーターで静まり返った上層階へ。デザイナーズ家具が無機質に並ぶ広いリビングは、生活感が綺麗に削ぎ落とされており、ひんやりとした静寂に包まれている。
薫は大きなソファへ私物バッグを無造作に放り出すと、洗面所へ向かい、鏡の前に立った。
いつもの業務用メインカメラのファインダーを覗き込んでいた鋭い瞳は、深夜の冷たい明かりの下で、隠しきれない疲労をにじませている。
脳裏をよぎるのは、つい先ほどクローバー撮影事務所のコントロールルームで聞いた、栂野たちの下卑た笑い声だ。
『次からは生存確率が一桁に落ちる中層の深淵だ。あいつが死に直面する瞬間、どれほどのカネの雨が降るか想像もつかねえな!』
そして同時に、夕暮れの公共ゲート前で、お揃いの木彫りのウサギの髪留めを健気に揺らしながら、「また今度ねー、薫ちゃん!」と満面の笑みで手を振って雑踏へと消えていった、あの華奢な少女の背中が、網膜の裏側に焼き付いて離れない。
「……ふぅ」
薫は、洗面台の横に置かれたサプリメントのボトルから、白い錠剤をいくつか手のひらへと取り出した。それを、ガラスのコップに注いだ無機質な水と一緒に、機械的に喉の奥へと流し込む。
ピンポーン、ピンポーン。
その時、静まり返った部屋の静寂を切り裂くように、突如として不意のインターホンがけたたましく鳴り響いた。
「……え?」
薫は小さく目をまたたかせ、訝しげにリビングの壁にあるモニターへと歩み寄った。深夜のこんな時間に、自らのプライベートな自宅を訪ねてくる心当たりなど、一人も存在するはずがなかった。
映し出されたエントランスの画面。そこには、上着のフードを頭から深く被り、重そうな荷物を抱えて背を丸めるようにして、どこか少し暗い表情で立ち尽くしている宇佐美紬の姿があった。
『あ、薫ちゃん……? ごめんね、こんな夜遅くに、急に来ちゃって……。あの、ちょっとだけ、相談したいことがあって……』
インターホンのスピーカー越しに届いた紬の声は、心なしか小さく、今にも消え入りそうなほどに張り詰めていた。薫は驚きつつも、すぐにオートロックの解除ボタンを押し、「すぐ開けるね」といつもの優しい友達の声を返した。
数分後、玄関の重厚な純白の扉を開けると、そこにはまだフードを深く被ったままの紬が佇んでいた。その顔は下を向いており、表情は伺えない。
「紬ちゃん、どうしたの? 相談って――」
薫が心配そうに声をかけ、身を乗り出した、まさにその刹那だった。紬が勢いよく顔を上げ、頭のフードが後ろへとバサリとはがれ落ちる。
暗い表情をしていたはずのあの子の顔には、まるで大輪の花がパッと一瞬で開いたかのような、これ以上ないほどの眩しい満面の笑顔が咲き誇っていた。
「薫ちゃん!! お誕生日おめでとうーー!!」
「え……っ?」
紬の、お腹の底から響くような元気いっぱいの祝福の声が、静かな廊下に木霊した。
唖然として立ち尽くす薫の前で、紬は抱えていた重そうな荷物を誇らしげに持ち上げてみせる。
あの子の両腕に抱えられていたのは、オシャレなリボンがかけられた可愛らしい丸型のデコレーションケーキの箱と、1本のスパークリングワイン。
都会のオシャレなデパ地下のショップで、彼女が自分の財布から奮発して買ってきてくれたのであろう、色鮮やかなオードブルの大きなパックだった。
「ええっ、これ……どういうこと?」
「えへへ、驚いた? 少し暗い顔をしてたのはね、重い荷物を持ってここまで歩いてくる間に、薫ちゃんにサプライズがバレちゃわないか、もう心臓がバクバクで極限まで緊張してたからなんだよ!」
紬はふきだすように笑いながら、嬉しそうに前髪のウサギの髪留めを揺らした。
「今日ね、【10月24日】でしょ? 薫ちゃんが教えてくれた、誕生日当日! 私たち同い年だし、都会で最初に出会えた特別な友達だから……だから、絶対に今日、直接お祝いしたくて、お仕事が終わるのを待って突撃しちゃいました!」
「あ……」
薫は、言葉を失った。
今日が自分の誕生日当日であることなど、深夜までカネの計算とロストの計画に追われていた彼女自身すら、完全に忘却の彼方に置き去りにしていた。
都会に出てきて以来――いいえ、クローバー撮影事務所のカメラマンとして冷酷な搾取のシステムに身を投じて以来、薫は誰のことも信じず、誰からも誕生日を祝われたことなど、ただの一度だってなかった。
向けられた、あまりにも純度の高い、一点の曇りもない無邪気な温もり。その温かい光を目の当たりにした瞬間、薫がこれまで何手も先まで組み立てていた完璧なチェス盤の戦略も、自らを縛る冷徹なルールさえも、すべての防壁が、音を立てて一瞬で消え去っていった。
「つむ、ぎちゃん……私の、ために……っ」
薫の唇が小さく震えた。
必死に感情を止めようとしても、どうしても止まらない。目の前でケーキを抱えて笑っている少女の姿が、みるみるうちに涙の膜で歪んでいく。ぽろぽろと、大粒の本物の涙が、薫の瞳から溢れ落ちて頬を伝った。
「わわっ!? 薫ちゃん、泣いちゃった!? ご、ごめんね、夜遅くに来て迷惑だったかな……っ」
「ううん……っ、違うの……! 嬉しいの……っ、本当に、すっごく、嬉しいのよ……!!」
薫は子供のように顔をくしゃくしゃにして、涙を袖で拭うこともせず、本心からの喜びと感動の声を絞り出した。
あの子が自分のために都会の街を駆け回り、緊張しながらこれだけのものを用意してくれた。その健気な優しさが、薫の心をこれ以上ないほど優しく、素直な幸福感で満たしていく。
「立ち話もなんだから、早く中に入って! ごちそう、一緒に食べよう!」
「うん……っ! お邪魔します!」
涙を拭った薫は、胸いっぱいの幸福感に包まれながら、紬を部屋の奥へと招き入れた。
リビングの大きなソファに二人で並んで腰掛け、紬が「都会のデパ地下ってすっごく迷路みたいでさ、オシャレな料理がいっぱいあって選ぶの本当に大変だったんだよ!」と身振り手振りで話すのを、薫は愛おしそうに何度も頷きながら聞いていた。
ポン、と小気味いい音を立ててスパークリングワインが開けられ、透明なグラスに黄金色の泡が注がれる。二人は笑顔でグラスを合わせ、乾杯した。
奮発して買ってきてくれたオードブルは、どれも驚くほど美味しかった。アルコールが少しだけ回り、お互いの頬がほんのりとした赤橙色に染まっていく。
紬が都会で一生懸命オードブルを選んでくれた話や、これからの配信で「もっともっと強くなって、薫ちゃんを驚かせちゃうんだから!」と語る夢を、薫はただ一人の女の子として、素直に、心の底から楽しく分かち合っていた。
やがて、部屋の明かりが静かに消される。リビングの中央、テーブルの上に置かれたデコレーションケーキの上で、【23】の数字を模した小さな蝋燭の火が、暗闇の中で優しく、温かく揺らめいていた。
「さあ、薫ちゃん。願い事を込めて、一気に吹き消して!」
静かに息を吹きかける。プッと蝋燭の火が消え、視界が心地よい夜の闇に包まれた瞬間、再び明かりが灯され、部屋は温かい祝福の拍手で満たされた。
「薫ちゃん、改めてお誕生日おめでとう! ……あ、そうだ。はい、これ! 私からのプレゼント!」
パーティの終盤、すっかり温まりきった空気の中、紬が少しだけ気恥ずかしそうに頬を染めながら、自らのバッグの奥から小さな、上品なベロア生地のジュエリーケースを取り出した。そして、それを両手で丁寧に、薫の前へと差し出す。
「プレゼント……? 開けてもいい?」
「うん、どうぞ!」
薫がそっとリボンを解き、ケースの蓋を開けると、そこには、柔らかな室内灯を受けて繊細な輝きを放つ、シルバーのピンキーリングが入っていた。それは、2本の歪な形状をしたリングの凸凹が、知恵の輪のようにピタッと合体することで1つの完成された美しい指輪になる、特殊な『ギメルリング』だった。
だが、中には最初から1本のリングしか収められていない。もう1本のリングは――すでに、紬の左手の小さな小指に、大切そうに嵌められていた。
「これね、『ギメルリング』っていう指輪らしいよ! お店で店員さんに色々聞きながら買ったの。元々は一つだったリングを二つに分けて、お揃いで持つものなんだって! 私たち性格は正反対だけど、これでお揃いの最強の相棒になれるかなって思って!」
紬は優しく薫の手を取ると、ケースの中にあったもう1本の銀の輪を、薫の細く白い左手の小指へと、そっと、丁寧に嵌めてあげた。薫の小指に、ひんやりとした、だけどどこまでも温かいシルバーの重みが宿る。
「これからもずっと、私の隣にいてね、薫ちゃん!」
陽だまりのような笑顔で、真っ直ぐに自分を見つめてくる相棒の姿。薫は、小指に宿る銀の冷たさと、あの子の笑顔の圧倒的な温もりを全身で噛みしめながら、涙の痕が残る顔で、素直に、胸いっぱいの喜びとともにその温かい約束と指輪を大切に受け止めるのだった。
「ええ……ありがとう、紬ちゃん。ずっと、ずっと、あなたの隣にいるわね」
冷たい都会の片隅、お揃いのギメルリングを小指に宿した二人の時間は、次なる過酷な戦場の足音を置き去りにしたまま、ただ優しく、純白の夜の底へと溶けていくのだった。
【後書き】
「配信(シーン28)を見てくれてありがとう! カメラマンの千歳薫よ。
……はぁ。まさか、深夜にあんな風に突撃されちゃうなんて、本当に驚いちゃったわ。
今日が私の誕生日当日だったなんて、私自身すら忘れていたのにね。
あの子ったら、都会のオシャレなデパ地下で迷子になりながら、私のために一生懸命オードブルを選んで、ケーキまで抱えて、サプライズがバレないか極限まで緊張して待っていたんだって。
……本当に、単純で、お節介で、どこまでも可愛い私の『ウサギさん』。
私のために流したあの本物の涙も。
部屋の明かりを消して、二人で顔を見合わせながら静かに吹き消した、あの23歳の蝋燭の火も。
ベースに流れる冷徹な計算さえ一時的に忘れさせてしまうほどの、あの温かいお祝いの時間も。
画面の前のあなたも、私たちが夜の静寂のなかで並んでソファに座り、あの子から差し出された銀の輪を小指に嵌めてもらう姿を見て――まるで本当の、簡単には離れられない最高の相棒同士みたい、なんて思っちゃったんじゃないかしら? うふふ。
『もうこのまま、二人でずっと幸せに暮らしてほしい!』
『ギメルリングの約束がエモすぎて胸が震えた!』
そう思ってくれた画面の前の、そう、そこのあなた!
その熱い気持ちを、ぜひ【ブックマーク】登録で私に直接届けてちょうだい!
『面白かった!』
『薫が珍しく仮面を外して、素直に泣いて喜ぶ姿に絆された!』
と思ってくれたら、下にある評価の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に染めるという名の、私への『最高額スパチャ』を投げてくれたら嬉しいわ。
元々は1つの指輪だったものを、2つに分かち合って持つものなんだって、店員さんの受け売りの知識を少し背伸びしながら一生懸命に説明してくれちゃうんだもの。
みんなからの熱いコメント(感想)も大歓迎よ!
さあ――お揃いの夜を超えて、心の防壁を完全に溶かされたウサギさんは、いよいよ次から未知の中層エリアへと足を踏み入れる時間よ。
あの子が危険な深淵へ近づくたびに、私の小指に宿るこの銀の輪が、いったいどれほど冷たく、あるいは熱く私の指先を狂わせていくのか――。
……ふふ。
もちろん、最後の一秒まで、完璧に撮ってあげるわ。
次の配信(シーン29)も、楽しみにしててね♡」




