シーン29:『チェス盤の白昼、夜の底に響く祈り』
「じゃあ、薫ちゃん! 本当に、本当にありがとう!」
玄関の白い扉の前で、宇佐美紬は何度も頭を下げながら、満面の笑顔を薫へと向けていた。その前髪では、お揃いの木彫りのウサギの髪留めが誇らしげに揺れている。
「夜遅くに急に押し掛けちゃって、ごめんね。でも……薫ちゃんの誕生日、直接お祝いできて、私、本当に嬉しかった。それじゃあ、またね!」
「ええ、気をつけて帰るのよ。おやすみなさい、紬ちゃん」
パタン、と重厚な扉が閉まり、ロックの電子音が静かに響く。
自分のために用意されたケーキの甘い香りと、空になったスパークリングワインのボトルだけが、温かい記憶として部屋に残されていた。
薫は自分の左手を見つめる。小指に嵌められたシルバーのギメルリングが、デザイナーズマンションの無機質な照明を反射して、静かにきらめいていた。
翌朝、クローバー撮影事務所のオフィスは、いつも通りの退屈な空気に満ちていた。
「薫さん、中層第六層の地形データと、プレデター・ハウンドの巣の座標を同期します」
「ええ、ありがとう、千早ちゃん」
キーボードの電子音だけが響く中、薫は黙々と雑務をこなした。中層の赤黒い岩肌に合わせたカメラの露出補正、魔力電波中継器のログ解析。画面を埋め尽くすリスナーたちの熱狂的なコメントを、ただの数値として指先でスクロールしていく。
「ギャハハハ! 同接の予約が過去最高を更新してやがるぜ!」
昼過ぎ、栂野が缶コーヒーを片手に大声を上げて入ってきた。
「次の第六層のタイトルは【中層の洗礼! 傷だらけのウサギと、繋がる二人の手】で行くぞ。チョロいリスナーどもの脳ミソを極限まで焼き切って、次のロストへの最高の燃料にしてやろうじゃねえか、ギャハハ!」
薫は手元の資料に目を落としたまま、抑揚のない声で答える。
「ええ、いいんじゃないかしら。リスナーはそういう分かりやすい『絆』が大好きだもの」
薫はすっと左手を机の下へと隠した。蛍光灯の下でギメルリングが鋭く光るのを、栂野に見られるわけにはいかなかった。
夜二十一時。すべての業務を終えて帰宅した薫の自宅は、昨夜の温もりを拒絶するように冷え切っていた。サプリメントを水で流し込み、ベッドへ身体を横たえた瞬間、スマートフォンが震えた。画面には『つむぎちゃん』の文字。
薫の口元から、自然と小さな笑みがこぼれ落ちる。
「……もしもし、紬ちゃん?」
『あ、薫ちゃん! お疲れ様! 今、お家についたところ?』
「ええ、たった今帰ってきたところよ。紬ちゃんも、今日の自主トレお疲れ様」
『うん! 今日も素振り、たくさんやってきたよ! 都会の魔物は動きが早いから、もっと手首の返しを鋭くしなきゃって思って。地元のダンジョンとはやっぱり空気の重さが全然違うんだもん』
「ふふ? 本当に真面目なウサギさんね」
『もう、ウサギさんって言わないでよー! あ、そうだ、聞いて! 今日ね、スーパーに行ったら、見たこともない紫色のグラデーションのオシャレな野菜が売っててさ。都会の人ってこれどうやって食べるの!? って、売り場の前で五分くらい固まっちゃった』
「ああ、それはトレビスね。少し苦味があるから、サラダのアクセントにするのよ」
『と、とれびす……? 名前までオシャレすぎる! 今度薫ちゃんがオシャレな食べ方教えてね。あ、それとね、今日の夕方、地元の田舎のお母さんから電話が来てさ。『都会の風邪は冷たいから、ちゃんと寝巻きの上にもう一枚着るのよ』って。心配性だよねぇ』
「ふふ、優しいお母さんじゃない。ちゃんとパジャマの上に羽織るのよ?」
『はーい! あ、次の配信で着るアーマーのインナーなんだけど、薫ちゃんに選んでもらったアクティブなジャケットに合わせるなら、黒と白、どっちが映えるかな? カメラマンさんの意見を聞きたくて!』
「そうね……白の方が、紬ちゃんの俊敏な動きがファインダー越しに綺麗に映えると思うわ。私のカメラで、世界一格好よく撮ってあげる」
『わあ、やった! じゃあ白にする! 薫ちゃんにそう言ってもらえると、中層のどんなに強い化け物だって、絶対に怖くない気がするよ。早く明日にならないかなぁ、薫ちゃんのカメラの前で、思いっきり跳び回りたい!』
カメラも回っていない、栂野たちのモニターも存在しない闇の中。
薫はベッドに寝そべりながら、スピーカーから溢れる楽しげな声に、声を立てて何度も笑った。気がつけば、通話時間は何時間も経っていた。
『あちゃー! また長電話しちゃった! 薫ちゃん、明日もお仕事あるのにごめんね?』
「ううん、大丈夫よ。すっごく楽しかった。ありがとう、紬ちゃん」
『うん! じゃあ、また明日、ゲートの前でね! おやすみ、薫ちゃん!』
「ええ、おやすみなさい。良い夢を」
プツン、と通話が切れた。
あの子の温かい笑い声が一瞬で消え去り、部屋に極寒の静寂がずっしりと覆いかぶさってくる。
「…………」
薫はゆっくりと身体を起こした。
柔らかい布団の上。長い足を折り曲げ、膝を胸元へと引き寄せるようにして、ぽつんと小さな体育座りになった。
両腕でしっかりと自分の膝を抱え込み、顎をその上に乗せる。
冷たい月光だけが差し込む暗闇の寝室で、薫は、自らの左手の小指をじっと見つめた。
そこには、昨夜、あの子がお店で店員さんに色々聞きながら一生懸命に選んでくれた、あのシルバーのギメルリングが、静かに息づいている。
右手の指先が、そっと伸びた。
左の小指の銀の輪の輪郭を、その凸凹の噛み合わせの溝を、なぞるようにして触る。
紬が自分を信じて笑えば笑うほど、長電話が、楽しくなればなるほど。
右手の小指にはめたギメルリングが痛くなった。
12月24日は、紬の誕生日。
二人でクリスマスパーティをしようと、小指を絡めて約束した日。
銀の輪の冷たさが、妙に指へ残った。
薫は膝へ顔を埋める。
「……嫌だな」
ぽつり。
誰にも届かない声が、夜の底へ落ちた。
「……やりたくないな……」
それ以上は、言葉にならなかった。
左手の小指だけを胸元へ抱き込むように握りしめる。
やがて、膝へ押しつけた頬を、一筋の涙が静かに伝った。
嫌だな……。




