シーン26『空中を舞う道化師と、迫り来る白銀の凶槍』
ガガガガガッ――!!
主軸の滑車が、限界を迎えた。
宇佐美紬の投げ放ったククリナイフを深々と食い込ませたまま、激しく噛み合っていた滑車が、凄まじい金属音とともにとうとう砕け散る。
「わわっ!? 私のナイフ!」
弾き飛ばされたククリナイフが白銀の軌跡を描いて宙を舞う。紬は反射的に手を伸ばし、その柄を空中で鮮やかに掴み取った。
再び、二刀。
だが――。
張力を失った骸糸を垂らしながら石造りドームの床へ降り立ったパペット・マエストロの、引きつった笑い面の仮面が、さらに不気味に、悍ましく歪んだ。
追い詰められた上層の主は、残されたすべての生命力と魔力を十本の指先へと集約させる。
キィィィィィィンッ! と、これまでの比ではない禍々しい魔力の共鳴音がドーム全体に響き渡る。
マエストロが十本の指先を引き絞ると、空間に垂れ下がっていたすべての骸糸が一箇所に収束し、鋼鉄をも容易く分子レベルで削り殺す、太く発光する『白銀の槍』へと姿を変えた。
ククリナイフを受け止めた直後で、まだ次の回避姿勢へと移れていない紬の喉元めがけて、その凶槍が音もなく、光速の弾丸となって撃ち放たれた。
紬の目は、完全にその軌道を見失っていた。間に合わない。
ファインダー越しに、あの子の華奢な喉が容赦なく貫かれ、血の海に沈む最悪の未来が、鮮明に薫の脳裏に弾けた。
「――っ、つ、紬ちゃんっ!!! 逃げてぇぇぇええっっ!!!」
大人のカメラマンの冷静な指示などではなかった。
薫の喉奥から飛び出したのは、自身の内臓をすべて吐き出すかのような、本気の、必死極まりない絶叫だった。
ガシャァァァンッ!!
その瞬間、薫の全身を襲った凄まじい戦慄のせいで、何があっても1ミリも乱れなかった業務用メインカメラの光軸が、大きく、絶望的に上空へと跳ね上がった。カメラマンとしてあってはならない、致命的な完全なる撮影エラー。世界中の画面が、大聖堂の無機質な天井だけを映し出し、激しくブレる。
『おい!!! 薫!! 何やってんだテメエ! 画角が完全に天井にすっ飛んでるぞ! 商品の絶望顔を外すんじゃねえ! クソが、おい、聞こえてんのか薫!!』
耳元のインカムから、事務所の栂野が血管をブチ切れさせたような狂った怒声を浴びせてくる。
しかし、薫の脳は、目の前の死線に沈みかける少女の姿だけで完全に飽和していた。物理的には栂野の怒声が鼓膜を激しく叩いているはずなのに、今の彼女には、その声がただの無意味な電子のノイズとして右から左へと虚しく通り抜けていくだけだった。音量を下げる余裕すらなく、ただ、紬の安否だけに魂を奪われ、棒立ちになっていた。
だが、クローバー撮影事務所の冷酷な搾取システムは、カメラマンの脳が麻痺しようとも、1秒の猶予なく作動する。
タガガガガガガッ!!!
事務所のコントロールルームで、オペレーター・千早の指先が、キーボードの上を無機質な神速で滑り狂った。
「メインカメラの光軸ブレ、および音声の乱れを確認。システム、バックアップ中継への強制切り替えコマンドを実行します――」
プツン、と電子音がした次の刹那、世界中のスマートフォンやパソコンの画面が瞬時に切り替わった。
天井を映していたメインカメラの映像から、薫の頭部に飾られたウサギの髪留め――あの『仕込まれた隠しカメラ』が捉える、現場全体の生々しい引きの映像へ。
切り替わったウサギの視線が、極限の死線の中にいる紬の姿を、再び鮮明に世界中へ映し出す。
「ひゃ、ひゃあぁぁぁああっ!!」
今まで聞いたこともない薫の必死な悲鳴に、紬の野生の勘が極限まで跳ね上がっていた。
紬はドタバタと叫びながらも、喉元へと迫る白銀の糸の槍に対し、半身を狂ったような速度で捻り倒した。
ズシャァァァッ! と、糸の槍が紬の頬の皮膚を一筋切り裂き、そのまま背後の頑丈な石柱をドカンと爆破するように粉砕する。
「あ、あぶなっ……っ! 本当に今死ぬかと思ったんだからねっ……!」
髪留めカメラの映像の中で、頬から血を流し、激しく焦りながらも、ククリナイフを鋭く構え直す紬のチャーミングでガチな姿が、完璧に配信へと戻されていた。
『うおおおお! お姉さんの悲鳴ガチすぎて心臓止まったわ!』
『今一瞬画面ブレたけど、すぐ別アングルに切り替わった! 演出神かよ!』
『ウサギの髪留め視点キターー! 臨場感エグすぎる!!』
『同接八万突破!! 紬ちゃん生きてる! 頼む勝ってくれ!!』
画面の向こうのリスナーたちは、薫の本気の絶叫と、紙一重で凶槍をかわした紬の姿に完全に脳を焼かれ、怒涛の高額投げ銭が画面を真っ赤に染め上げていく。
コントロールルームで栂野が『ハッ、千早ちゃんナイス切り替え! リスナーどもがお姉さんの本気の絶叫演出と、この髪留め視点の臨場感に勘違いしてさらに狂ってやがるぜ! 投げ銭のグラフが垂直に突っ切ったわ、ギャハハ!』とデスクを叩いてゲスな笑い声を上げる中、薫はまだ、自分の指先がガタガタと震えていることにさえ気づけず、ただ血を流しながらも必死に笑う紬を、ファインダーの裏側で凝視し続けていた。
「ギギッ……ギギギッ!?」
最大にして最後の一撃を完全に回避され、パペット・マエストロの笑い面の仮面が驚愕に硬直する。撃ち出されたすべての骸糸が背後の石柱に深く突き刺さったまま、ボスは空中で一瞬だけ動きを止めてしまった。
「――お返し、いくよっ……!!」
その決定的な隙を、宇佐美紬は見逃さなかった。
紬は地面を強く蹴り上げると、腰を限界までひねり、二本のククリナイフを順手に持ち替えた。彼女が狙ったのは、マエストロの肉体そのものではない。ボスが十本の指先から伸ばし、未だ背後の石柱へと繋がったままの、あの極細の白銀のワイヤーの束だ。
「これでもくらえっ! 私のオシャレを破いたバツだよぉっ!」
紬の身体が空中で超高速でスピンを始める。
二本のククリナイフの湾曲した内刃が、マエストロの放った骸糸の束を、まるでリールのように強引に、ねっとりと巻き取りながら絡め取っていく。ダイヤモンド並みの硬度を誇るボスの剛糸が、ククリナイフの鋼鉄と擦れ合い、ガリガリガリガリッ!!! とドーム全体に火花を撒き散らしながら不気味な悲鳴を上げた。
「ギ、ギギギッ!? ギガァッ!?」
糸を絡め取られ、指先を強引に固定されたマエストロが焦ってワイヤーを切り離そうとする。だが、それよりも紬の肉体が行う落下速度の方が遥かに早かった。
「そこから引きずり下ろしてあげるんだからぁぁぁーーっっ!!!」
叫びながら、紬は自らの全体重と爆発的な脚力を乗せて、絡め取った糸の束を床へと向かって全力で引き絞った。
凄まじい張力がワイヤーを伝わり、空中を縦横無尽に支配していた道化師の細い肉体が、天井の滑車ごと、バキバキバキバキッ!!! と破壊音を立てて強引に石畳の床へと引きずり下ろされた。
ドゴォォォォンッ!!!!!
ドームの床が大きく陥没し、着地の防御姿勢すら取れなかったマエストロの木製の関節が、激しい衝撃で四方八方へと砕け散る。
そこへ、着地と同時に再び地を滑るようにステップを踏んだ紬が、弾丸のような速度で肉薄した。
「これで、終わりっ!!」
クロスした二本のククリナイフが、目にも留まらぬ神速の横薙ぎとなって閃く。
ザシュゥゥゥッ!!!
極限まで研ぎ澄まされた二条の刃線が、パペット・マエストロの細い首筋を寸分の狂いなく捉え、その不気味な引きつった笑い面の仮面を、豪快に空中へと跳ね飛ばした。
上層の主――完全撃破。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ! 勝った……勝ったよ、薫ちゃんっ!」
上層の主を完全に討ち果たした興奮で、すっかりと頬を紅潮させながら、紬はお揃いのウサギの髪留めを揺らしてカメラへと最高の笑顔で振り返った。
『うおおおおおおおお勝った!!!』
『ワイヤー巻き取りからの引きずり下ろし大技まじで鳥肌立った!!』
『紬ちゃん最強のウサギじゃん!!』
『お姉さんのあの悲鳴があったからこその奇跡の逆転劇だな! 二人の絆に赤スパ十万いくぜ!!』
『同接九万超え!! 歴史的瞬間に立ち会えたわ!!』
画面の下から上へと、目も眩むような真っ赤な高額スーパーチャットの嵐が無限に湧き上がり、同接数は過去最高の九万人を突破してバグり散らかしていた。
インカムの向こう側で、栂野が『ギャハハハ! 同接九万突破、売上は現時点で八百万円を軽く超えたぞ! 最高のハッピーエンドだ薫ちゃん! さあ、最後に綺麗に挨拶を入れて、極上の余韻を残したまま配信を終了しろよ!』とカネの雨に狂喜乱舞した下卑た大声を響かせる。
薫は、その声を頭の片隅で聞きながら、カメラマンとしての完璧なロールプレイの意識だけで、隣を歩く紬へとカメラのレンズを静かに、しっかりと向け直した。薫の視線(合図)を受け取った宇佐美紬は、頬の血を袖でパパッと拭うと、前髪のウサギの髪留めを嬉しそうに揺らしながら、カメラに向かって満面の笑みで大きく手を振り返した。
「みんな、今日もたくさんの応援と、温かいコメントを本当にありがとうございました! これからも薫ちゃんと一緒に全力で、もっともっと強くなって中層もガンガン突き進むので……また次の配信も、絶対に絶対に見に来てください! バイバーイ!」
最高の盛り上がりと、これ以上ない温かい空気の中、薫は手元のスイッチを操作し、配信の電波を自然に、滑らかに終了させた。
プツン。
最高のハッピーエンドの余韻をリスナーに残したまま、世界中の画面が静かに暗転した。
「やったね、薫ちゃん!」
静けさを取り戻した大聖堂に、紬の弾んだ声だけが響いた。
頬に細い血の筋を残したまま、いつもの満面の笑顔で紬がこちらへ駆け寄ってくる。
薫は答えようとした。
けれど、声が出なかった。
抱えた業務用メインカメラを下ろそうとして、初めて気づく。
両手が、震えていた。
止めようとしても止まらない。
ついさっきまで、どんな死線の中でも一度たりとも揺れなかったはずの、その指先が。
薫は何も言えないまま、ただ自分の震える手を見下ろした。
【あとがき】
「配信(シーン26)を見てくれてありがとう。カメラマンの千歳薫よ。
……まったく。
紬ちゃんったら、本当に人を驚かせるのが好きなんだから。
喉元にあんなものが飛んできたら、少しくらい声が大きくなることだってあるでしょう?
カメラだって……。
…………。
ちょっとくらい、ズレることもあるわよ。
でもほら。
千早ちゃんがすぐにウサギの隠しカメラへ切り替えてくれたし、配信は大成功。
同接九万人。
売上八百万円超え。
マエストロも撃破。
何も問題なかったじゃない。
…………。
何よ。
そんなに私の手元が気になる?
画面の前の、そう、そこのあなた!
『白銀の凶槍、怖すぎた!』
『紬ちゃん生きててよかった!』
『ウサギカメラへの切り替え熱すぎ!』
そう思ってくれたなら、ぜひ【ブックマーク】登録で私たちの次の配信も追いかけてちょうだい。
そして下にある評価の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に染めるという名の、私への『最高額スパチャ』もよろしくね?
もちろん今回も、本物の星5個でお願い。
みんなからの熱いコメント(感想)も待っているわ。
それじゃあ――。
上層突破、おめでとう。紬ちゃん。
…………。
次の配信(シーン27)『友達を見送る背中と、商品の値札』で、また会いましょう。
うふふ。またね♡」




