シーン22:『チェス盤の朝、足元に響くノイズ』
カーテンの隙間から差し込む眩しい朝の光を浴びながら、薫と紬は一緒に部屋を出た。
まだ昨日の楽しかった買い物の余韻や、一緒のお風呂に入った心地よい空気が薄く残るなか、二人は爽やかな朝の街を並んで歩いていく。
クローバー撮影事務所の入る古いビルが少しずつ近づいてきた頃、薫は歩みを止め、隣を歩く紬へと優しく微笑みかけた。
「紬ちゃん、ちょっとここで待っててくれる? 一度会社に寄って、大きい業務用のビデオカメラを持ってくるから。すぐに機材を取って一言声をかけるから、合流しよ!」
「うん、わかった! じゃあここで待ってるね、薫ちゃん」
紬を事務所の手前の道に待たせ、薫は一人でビルの中へと入った。
二階のコントロールルームへ続く鉄の扉が閉じた瞬間、薫の笑顔は消えた。
ほんの数秒前まで紬と並んで歩いていた少女など、最初から存在しなかったかのように。
「おかえり、薫ちゃん。で、どうだったんだよ? 例のウサギちゃんとの進捗はよ」
ウイスキーのグラスを揺らしながら、統括ディレクターの栂野が声をかけてくる。
薫は返事をするより先に、自分の頭に付けているお揃いのウサギの髪留めへ指先を伸ばし、隠しカメラと集音器の電源を静かにオンにした。
瞬間、薫の視線とほぼ同じ高さから捉えた映像が、コントロールルーム中央のモニターへと同期される。
「順調よ、栂野さん。この二日間、銭湯に買い物、お泊まりまで付き合って、ねっとりと距離を詰めておいたわ。おかげで心の防壁はほとんど溶けてる。今も外の道で、私のことを信じ切って大人しく待っているもの」
昨日、紬の作った温かい朝食を食べたことも。
一緒に服を選んで笑ったことも。
同じ湯船に浸かり、同じ映画を観て、同じベッドで眠ったことも。
薫の口から語られれば、そのすべてがただの『営業成果』へと姿を変えた。
「薫さん、データの準備は完了しています」
千早の感情の消えた指先がキーボードを叩き、今日のダンジョンの詳細データをモニターへ表示させる。
それを確認した栂野が、下卑た笑い声を上げた。
「ギャハハ! そうか、一日どころか二日がかりでハメ込んだか! さすがだな薫ちゃん。今日の方針だが、初配信での爆発的な登録者の伸びを維持しながら、さらにリスナーを焦らして熱狂させるステップへ移行する。チョロい連中の脳をもっと焼き切って、あのウサギの価値を限界まで跳ね上げるんだよ! 今日も頼んだぜ」
「ええ。分かっているわ」
薫は冷淡に答えると、デスクの定位置に置かれていた、業務用ビデオカメラの入った重い肩掛けケースを手に取り、その紐を肩へと掛けた。
「今日も、完璧なアングルで撮ってみせる」
それだけを言い残し、薫はコントロールルームを後にした。
一階へ下り、鉄の扉を開けて外へ出る。
「紬ちゃん、お待たせ! 機材バッチリ持ってきたよ」
「あ、薫ちゃん! おかえり!」
もうそこには、先ほどまで二階にいた冷徹なカメラマンの面影などどこにもなかった。
道で待っていた紬と合流し、二人は再び並んで歩き出す。
他愛のない話を交わしながら辿り着いたのは、かつて大剣使いの少年――城ヶ崎湊が潜っていたのとは、全く異なる場所に位置する、公共の別ルートのダンジョン入口だった。
前回の配信でも使用した、少し薄暗い石造りのゲートを見上げ、紬は気持ちを高めるように小さく息を吐いた。
薫は肩掛けケースから重い業務用ビデオカメラを取り出すと、ゲート前に設置された簡易固定台へ一度カメラを置いた。
レンズの向きを調整し、自分と紬の二人が並んでフレームへ収まることを確認する。
「それじゃあ、始めよっか」
「うん!」
薫が手元のスイッチを入れる。
業務用カメラの赤いランプが点灯し、千早が仕込んだタイトルと共に配信が開始された。
【二人で挑む、Re:スタート配信第二弾!】
『キタアアア!』
『待ってたぞ!』
『あれ、ナイフの子、頭になんか付いてない?』
『あ、カメラマンちゃんとお揃いだ!!』
『てかカメラマンちゃん、髪留め変わった? お揃いとかてぇ……いや最高かよ』
配信画面に並んだ二人の姿と、実質的に初めてお披露目されたお揃いのウサギの髪留め。
リスナーたちは一斉にその存在へ気づき、コメント欄が瞬く間にざわめき始める。
「みんな、おはよー! カメラマンの薫だよ。今日はね、私の大好きな親友、紬ちゃんの格好いい姿をいっぱい届けるからね!」
「やっほー、つむぎだよー! 今日も頑張るから応援よろしくねー!」
元々明るい性格の紬が、前髪のウサギの髪留めを揺らしながら、カメラに向かって元気いっぱいに拳を突き出した。
『前回とテンション違いすぎて草』
『一回でめちゃくちゃ馴染んでるなw』
『ガチガチだったのに急に可愛さ爆発してて良き』
『カメラマンちゃんと仲良くなったの丸わかりだな』
「それじゃあ――行ってきます!」
挨拶を終えると、薫は固定台から業務用ビデオカメラを持ち上げ、しっかりと両腕で構えた。
「紬ちゃん。今日もカメラのことなんて気にしないで、思いっきり暴れておいで?」
「うん……っ! 薫ちゃん、よろしくね!」
二人は、コメント欄の熱狂を背に受けながらダンジョンの中へと足を踏み入れた。
第一層の薄暗い回廊の奥へと進む。
しばらくすると、頑丈な皮膚と巨大な肉体を持つ複数の雑魚モンスター――オークの群れが、棍棒を振り回しながら咆哮を上げて突進してきた。
紬の身体が、弾かれたように地を蹴る。
今回は、薫の指示を待つことなどなかった。
斥候職としての本能を解放した紬は、自らの的確な判断でオークの死角へ鋭く回り込み、腰から引き抜いた二本のククリナイフを風のように振るった。
凄まじい敏捷性で巨体の懐へ潜り込み、肉を裂き、その脇をすり抜け、次の標的へ。
紬自身の意思で、縦横無尽に戦場を駆け巡っていく。
そして、その速度へ完全に食らいついている者がいた。
千歳薫。
大きな業務用ビデオカメラを片手で軽々と制御しながら、紬の鋭いステップ、ククリナイフが閃く瞬間、返り血の向こうから現れる凛々しい横顔を、ミリ単位の狂いもない極限の神アングルで切り取っていく。
メインカメラでは拾いきれない角度は、薫の頭で揺れるウサギの隠しカメラが補完する。
二つの映像をコントロールルームの千早が瞬時に切り替え、紬の戦闘を、まるで最初から一本の映画として計算されていたかのような映像へと組み上げていく。
『動きやべええ!』
『指示なしでこれだけ動けるのガチで強い!』
『てかカメラワークが神がかってて追いついてるの化け物だろw』
『二刀流めちゃくちゃ綺麗! 格好いい!』
コメント欄は絶賛の嵐に包まれ、同接数は爆発的に跳ね上がっていく。
その時だった。
一体のオークが、死角から巨大な棍棒を振り上げた。
狙いは――紬の頭部。
「――っ」
薫の人差し指が、ほんの一瞬だけ強張った。
これまで何百、何千という死線をレンズ越しに眺めてきても、一度たりとも乱れたことのない指先。
その指が、僅かに。
本当に僅かにだけ、ズーム操作を誤りかけた。
だが――。
「ふっ!」
紬は自らその殺気に気づき、地面すれすれまで身体を沈める。
頭上を巨大な棍棒が唸りを上げて通過した瞬間、紬は身体を回転させ、その勢いのままククリナイフをオークの脇腹へ深く叩き込んだ。
巨体が地面へ崩れ落ちる。
『あっぶねええええ!!』
『今の避けんのかよ!!』
『反応速度エグすぎ!』
『カメラも一切ブレてなくて草。何者だよこの女』
誰も気づいていない。
映像は完璧だった。
コメント欄の誰一人として、薫の指先に一瞬だけ走った小さなノイズを知ることはなかった。
ただ一人。
薫自身を除いて。
「…………」
薫は何事もなかったように、再びファインダーの向こうの紬を追った。
最後の一匹を鮮やかに仕留め、紬はカメラへ向き直ると、二本のククリナイフをシャキン、と鞘へ収めた。
「みんな、今日も応援たくさんありがとう! 次の配信も、絶対に見逃しちゃダメだよ?」
「ありがとうございました! また見てねー、バイバーイ!」
二人が笑顔で手を振るなか、薫は手元のスイッチを操作し、配信の電波を自然に、滑らかに終了させた。
『お疲れ様ー!』
『最高だったぞ!』
『【赤スパ 10,000円】次も絶対見るわ!』
画面が暗転すると同時に、怒涛の投げ銭がクローバー撮影事務所の管理口座へと次々に吸い込まれていく。
配信が終了した静かなダンジョンの中。
薫は業務用ビデオカメラを肩掛けケースへ手際よく仕舞い直すと、すぐに紬の元へと駆け寄った。
その顔には、先ほどと変わらない温かな笑顔が張り付いている。
「すごかったよ、紬ちゃん! 今の戦闘、すっごく格好よかった! さすが私の親友ね!」
「本当……!? 薫ちゃんが完璧なアングルで追ってくれてるって確信できたから、迷わずにナイフが振れたんだよ……。薫ちゃん、今日も本当にありがとう!」
興奮で頬を火照らせ、嬉しそうにはにかみながら、紬は薫の白く滑らかな手を両手でぎゅっと握りしめた。
昨日、自分の部屋で一緒に朝食を食べ。
一緒に街を歩き、一緒にお風呂へ入り、同じベッドで眠った。
そんな「本当の友達」として過ごした時間の温もりが、その小さな手の平から直接伝わってくる。
「さあ、今日も魔石を一緒に回収しよ?」
「うん! いっぱい集めようね、薫ちゃん!」
楽しげに笑いながら、床に転がるオークの死体から魔石を回収し始める紬。
薫はその背中を見つめながら、今しがた握られていた自分の右手の平へ、ゆっくりと視線を落とした。
まだ、温かい、あの子が自分を信じて笑えば笑うほど。
お揃いの友情の記憶が、これほど愛おしく積み重なれば重なるほど――。
いつかは、中層の深淵であの子をロストさせる。
その装備も、その財産も、最後に残された遺品のすべてさえも、冷酷に回収する。
それは、誰かの気まぐれで決められた結末ではない。
紬自身が内容をろくに確認することもなくサインした、クローバー撮影事務所との契約書。
その契約に刻まれた『ロスト時には遺体、装備、全資産の所有権を会社へ移転する』という冷酷なルールが、最初から彼女の行く末をチェス盤の上に固定していた。
なのに。
その盤上を紬の軽い足音が進むたび。
笑い声が増えるたび。
手の平に温もりが残るたび。
これまで一度たりとも鳴ったことのない小さなノイズが、薫の胸の奥深くで、少しずつ、少しずつ大きくなっていく。
先ほどオークの棍棒が紬へ迫った瞬間、僅かに強張った自分の指。
その意味を――。
薫は、まだ考えようとはしなかった。
「よし、魔石はこれで全部だね! 薫ちゃん、次の階層へ行こ!」
「ええ、そうね。足元に気をつけて進みましょう」
すべての魔石を拾い終え、満足げに立ち上がった紬へ優しく声をかけながら、薫は業務用ビデオカメラのケースを肩に担ぎ直した。
二人は並んで、第一層の奥にひっそりと佇む、第二層へと続く冷たい石造りの下り階段へ足をかける。
トン、トン、と小気味よく響く紬の軽いスニーカーの足音。
その横で揺れる、お揃いのウサギの髪留め。
その規則正しい足音を追うようにして、薫もまた静かに、一段、一段と暗い階段の奥へ足を進めていった。
【あとがき】
「配信(シーン22)を見てくれてありがとう! カメラマンの千歳薫よ。
前回の配信まであんなにガチガチだった紬ちゃんが、今日はもう私の指示なんて待たずに、自分の判断だけでオークの群れをズタズタにしちゃったの。すごいでしょう?
もちろん、あの子が急に強くなったわけじゃないわ。
自分がどれだけ速く動いても、私なら必ず最高のアングルで追ってくれる。
そう信じ込ませてあげたから、元々持っていた実力をようやく全部出せるようになっただけ。
ほらね?
友情って、とっても優秀な演出装置でしょう?
しかも今回は、リスナーのみんなにも私たちのお揃いのウサギさんをしっかり見つけてもらえたし、前回以上にコメント欄は大盛り上がり。
『紬ちゃん、めちゃくちゃ強くなってる!』
『この二人、本当に最高の相棒じゃん!』
そう思ってくれた画面の前の、そう、そこのあなた!
その熱い気持ちを、ぜひ【ブックマーク】登録で私に直接届けてちょうだい。
『面白かった!』
『紬の成長と薫の神カメラワークが最高だった!』
と思ってくれたら、下にある評価の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に染めるという名の、私への『最高額スパチャ』も忘れないでね?
……それにしても。
配信が終わったあと、あの子ったら私の手を両手でぎゅっと握って、『薫ちゃんが追ってくれてるって分かったから迷わず戦えた』なんて言うのよ。
手の平に残った温かさが、なかなか消えなくて……。
…………。
なによ。
ただのノイズよ。
私のチェス盤に、そんな余計な感情が入り込む隙間なんてあるわけないじゃない。
あの子はこれからもっと強くなって、もっと人気になって、もっともっと高く売れる『商品』になるの。
そのために私は、これからも最高の親友を演じて、最高のアングルであの子を撮り続ける。
それだけよ。
……そう。
それだけ。
君たちの一票(星)が、私のカメラワークと、この物語をもっと強く、もっと美しく輝かせるエネルギーになるの。
もちろん今回も、フェイク抜きの贅沢な本物の星5個でお願いね? みんなからの熱いコメント(感想)も大歓迎よ!
さあ、第一層を抜けて、二人の足音はもっと暗い場所へ向かっていく。
私のチェス盤に響き始めたこの小さなノイズが、ただの雑音なのか、それとも――。
……ふふ。
そんなの、あなたには関係ないわね。
次の配信(シーン23)も、楽しみにしててね♡」




