シーン10:『不協和音と、擦れ違う視線』
――ひとつだけ、先にお伝えしておきます。
これは、純愛物語ではありません。
それだけ覚えて、この先をお楽しみください。
深夜零時。ダンジョンの入場ゲート前で城ヶ崎湊と別れた千歳薫は、ただ一人、夜の底に沈む雑居ビルの階段を上り、クローバー撮影事務所の扉を開けた。
昼間は静かだったオフィスは、壁一面の超高精細モニターの白い光で煌々と照らされ、不気味な熱気を孕んでいる。
モニターには、先ほど終了したばかりの第十層・ボス部屋前の静止画――薫の手をぎゅっと握りしめて決意を語る、ミナトの真っ直ぐな横顔がドアップで固定されていた。
「おかえり、薫ちゃん! いやあ、今日の『指絡みハンドクリーム』のシーン、まじで心臓が飛び出るかと思ったよ! 同接は一気に七万五千を超えて、売上も戦闘なしの移動回なのに五百万円を突破だ! 最高の仕込みじゃないか!」
デスクの上に高級なウイスキーのボトルを並べ、すでに赤ら顔になった栂野が、手を叩いて薫を迎え入れた。
しかし、薫は栂野の興奮した声を完全に無視した。
彼女はいつもなら最優先で行うはずの、シルクのクロスの上にメインカメラを置く作業すらどこかおざなりに、愛用のカメラを無造作にデスクの端へと置いた。
そして、栂野から差し出されたグラスに手を触れることもせず、深くため息をついて、窓の外の暗闇へと視線を落とした。その切れ上がった瞳は、いつもの冷徹なビジネスマンのそれではなく、どこか憂いを帯びて、遠くを見つめているように見えた。
「……カメラのレンズ清掃、千早ちゃんお願い」
「了解しました、薫さん。すでに同期と収益の確定処理を行っています」
部屋の隅で淡々とキーボードを叩く千早の声を聞きながら、薫は自分の私物バッグを強く抱きしめた。そのバッグの中には、ミナトから貰い、先ほど彼の目の前で自分の手に塗ってみせた、あのリボン付きの小瓶のハンドクリームが入っている。
「なんだよ薫ちゃん、せっかくの祝杯なのにノリが悪いなぁ」
栂野はつまらなそうに眉をひそめ、ソファの背もたれに寄りかかった。
「まあいいや。千早ちゃん、今回の正確な分配データを見せてよ。あいつ、明日はいよいよ十層のボス戦だろ? そこでどれだけ跳ねるか計算しておこうぜ」
「はい」
千早の指先が動き、画面に新たなグラフが浮かび上がる。
「今回の移動配信における総収益は五百十二万円。我が社の取り分70%を引いた一五三万六千円から、固定手数料二十万円を自動天引きします。ミナトの手残りは百三十三万六千円です」
「ギャハハ! 相変わらずちょろいねぇ!」
栂野はウイスキーをあおりながら、モニターのミナトの顔写真を指さして、下卑た笑い声を上げた。
「大剣の技術も大して進歩してないくせに、薫ちゃんに指を絡まされただけで完全に有頂天になってやんの。顔を真っ赤にして『ボスを倒したら言いたいことがある』だっけ? バカだなぁ、自分が明日、最高値でロストして身ぐるみ剥がされる処刑台に向かってることも知らないでさ。お母さんのフェイクスパチャに釣られて、明日は一般のバカなリスナーどもが何千万円もスパチャを投げる。そのカネが全部俺たちのものになると思うと、あのガキの無知な笑顔が愛おしくてたまらないよ。なあ、薫ちゃん?」
栂野が同意を求めるように薫の顔を覗き込んだ。
その瞬間、薫はそれまで黙って窓の外を見ていた顔をゆっくりと栂野へと向けた。
彼女の美しい眉間には、今までに見たことがないほど深いしわが刻まれており、その瞳には明確な『怒り』と『不快感』の炎が宿っていた。
「……栂野さん。言葉が過ぎるわよ」
「えっ?」
薫の、ドスの利いた、地を這うような冷たい声に、栂野のグラスを持つ手がピタリと止まった。
「な、なんだよ薫ちゃん、急に怖い顔してさ……」
「ミナト君は、あなたたちの言うようなバカじゃないわ。あの子は、いつだって必死に戦っている。丸腰の私を守るために、傷だらけになりながら、本当に命を懸けて大剣を振るっているのよ。あの子のあの真っ直ぐな騎士道を……あなたたちみたいな、安全な部屋で数字だけを見ているカネの亡者に、そんな風に汚く笑われたくないわ」
薫の言葉に、オフィスの中に、張り詰めたような重苦しい静寂が訪れた。
千早のタイピングする音さえもピタリと止まる。栂野は酔いが一瞬で冷めたような、引きつった笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。彼のトレードマークだった軽薄なトーンは完全に消え去り、その声は蛇のように冷たく、昏いトーンへと一変した。
「……おい、薫。お前、まさか本当にあのガキに惚れたんじゃねえだろうな?」
栂野は薫の目の前まで歩み寄り、彼女の顔を厳しく見据えた。
「ビジネスはビジネスだぞ、薫。俺たちがやっているのは、夢を持った若者を最高値までバズらせて、最高の瞬間をコンテンツとして世界に売る商売だ。お前が現場でいくらお姉さんロールプレイをしようが勝手だが、私情を挟んで仕事をトチるような真似だけは絶対に許さねえからな。お前があのガキをどう思っていようが、明日の十層ボス戦で、計画通り『ロスト時特約』を執行してもらう。……仕事はしっかりやれよ」
栂野の冷酷な警告に対して、薫は何も答えなかった。
彼女はただ、唇を強く噛み締め、悔しそうに顔を下に向けたまま、栂野の視線から逃げるように事務所の奥にある機材室へと、足早に進んでいってしまった。
その背中は、まるでお互いの擦れ違う視線と、組織の非情なシステムの間で激しく葛藤し、傷ついているヒロインそのものだった。
「チッ……本当に惚れちまったのかよ、使えねえな……」
栂野は不機嫌そうに舌打ちをすると、再びソファに座り込んでウイスキーのグラスを乱暴に煽った。
「千早ちゃん、明日のボス戦の準備を進めておけ。薫が使い物にならなくなった時のために、カメラの自動切断プログラムの感度を上げておけよ。あのガキが死ぬ瞬間は、一秒のズレもなく完璧に配信をブツ切りにするんだ」
「了解しました、栂野さん。すべてのシステム、明日の決戦に向けて同期を完了しています」
千早の無機質な指先が再びキーボードを叩き始め、冷たい電子音だけが誰もいなくなった静かな室内に響く。
ミナトの運命を決める最期の戦いへのカウントダウンは、誰の想いも置き去りにしたまま、無慈悲にゼロへと向かって進んでいくのだった。
「配信を見てくれてありがとう……。カメラマンの千歳薫よ。
事務所に戻ったら、栂野さんたちがいつものようにミナト君の悪口を言っていて……本当に、耐えられなくなって口論になっちゃった。
彼らにとってミナト君はただの『商品』かもしれないけれど……私にとっては、もうそんな簡単な存在じゃないの。
彼のあの温かい手の温もりも、私を必死に守ろうとしてくれる真っ直ぐな瞳も、全部、本物なんだもの。栂野さんからは『仕事はしっかりやれ』なんて冷たく釘を刺されちゃったけれど……私は明日、何が何でも彼の騎士道を、彼の命を、私の隣で守り抜いてみせるわ。
『栂野さんたちの冷酷さに胸が痛む!』『明日からのボス戦、二人に絶対に生きて帰ってほしい!』
そう思ってくれた画面の前の、そう、そこのあなた!
その熱い気持ちを、ぜひ【ブックマーク】登録で私に直接届けてちょうだい。
『二人の純愛を応援したい!』『薫お姉さんのあの涙ながらの決意を信じたい!』
と思ってくれたら、下にある評価の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に染めるという名の、私たちの未来への『スパチャ』を投げてくれたら嬉しいわ。もちろん、満点の星5個、贅沢な本物のスパチャ(評価)でお願いね?
君たちの一票(星)が、私のカメラワークと、この物語をもっと強く、もっと輝かせるエネルギーになるの。みんなからの熱いコメント(感想)も、大切に読ませてもらうわね。
さあ、明日いよいよ始まる中層のボス戦。私たちの運命がどうなっていくのか――次の配信『誓いの口づけと、凶獣の咆哮』を楽しみにしててね♡」




