第七章 空の黒檀
天井から吊るされた幾つものランタンが、脂で燻された木造の広間を、淡い黄色に照らし出している。
点在する無骨な木製の丸テーブル。
若い冒険者の一団や独り者の傭兵達が、粗末だが温かい酒と肉を前に、思い思いの時を過ごしていた。
アル・ザハル王国──
貿易都市サフィール。
『銀の雨蛙亭』。
旅の者が腹を満たし、身体を休め、明日を求めて集う辺境の安宿である。
そこは活気と喧噪に溢れ、同時に、泥臭英気と男どもの熱に満ち満ちていた。
カウンターの奥では、一人の女性が立ち働いていた。
トントン、とリズムよく包丁が俎板を裁く。塩漬け肉を手際よく切り分けると、ぐつぐつと煮えたぎる大鍋の中へ放り込んでいく。
歳の頃は四十を過ぎたあたりか。
小柄で、赤髪を後ろできつく縛っている。数々の修羅場をくぐり抜けてきた男勝りの胆力を感じさせながらも、整った目鼻立ちと涼やかな目元には、齢を重ねた女ならではの洗練された色香が漂っていた。
ハセミ。
この『銀の雨蛙亭』の女亭主である。
かつて諸国を荒らし回った流浪の盗賊団『チート・カラーニャ』。その首領であった彼女は、類稀なる手腕をもって一代で財を成し、足を洗った今も、裏社会に深いパイプを持つ顔役であった。
額にうっすらと汗を浮かべ、鍋の中を見分ける。塩漬け肉の脂が、旨味の油膜を大鍋一杯に拡げながら、とろりと崩れる。
「はいよ! 角猪豚の塩漬煮、一丁! コナ、運びな!」
ハセミが木皿に盛ると、厨房の脇から一回りも二回りも大きな体幅を持った女性がやってきた。
名を、コナという。
並の重戦士をも凌ぐ巨躯。丸みのある豊かな肉感に潜む筋肉の密度は恐ろしいほどで、かつての得物だった斧槍を軽々と振り回す膂力を秘めている。だが、その佇まいにはおよそ見合わない、愛嬌ある笑顔と、甘ったるく鼻にかかる声が持ち味であった。
「はーい! 角猪豚の塩漬煮、お待たせぇ♡」
コナが木皿をテーブルへと置いた、その時である。
ギィ、と雨蛙亭の分厚い木のドアが重い音を立てて開き、真鍮のドアベルがカランと揺れた。
「いらっしゃーい! 二名様? 生憎いま満席でね、ちょっと待って──」
言いかけた瞬間、コナの言葉が止まった。
入ってきた男の、使い古された赤茶けた革鎧。
腰の一振りの曲刀。
そして──左手の不気味な赤黒い手甲。
「って……あら! アッシュ!!」
コナの目が丸くなった。次の瞬間、大きな身体を揺らして喜びを爆発させる。
「ひっさしぶりぃ〜! 生きてたの!? ハセミー! ハセミー!! アッシュだよ、アッシュが来た!」
ハセミがぴくりと包丁を止め、湯気の向こうから顔を出した。男の姿を捉えた瞬間、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「あらぁ〜! アッシュじゃない!! ほらほら、はやくはやく! こっちにおいで!」
「相変わらず繁盛してんなぁ。歓迎は嬉しいが、席がねえや」
アッシュが苦笑いすると、ハセミは目の前のカウンターの一等地を、バン、と手のひらで叩いた。そして、エールを飲み干したばかりの若い冒険者二人の肩をガシッと掴む。
「お客さん達、悪ぃね。もう時間だから。コナ、おあいそ! はい、そこ退いた退いた!」
「ちょ、今さっき来たばかりな──」
言いかけた冒険者の背後を、ぬっと影が覆った。コナの巨躯である。
頬丘を上げて微笑んではいるが、その眼は冷たく、まったく笑っていなかった。かつて、ハセミ率いるチート・カラーニャにおいて『断首のコナ』と恐れられ、無数の首を叩き落としてきた処刑人の狂気が、得体の知れない殺気となって背中に刺さる。
若い冒険者は青ざめた顔で弾き出されるように席を追われた。
「さあ座った座った! ……で、アッシュ」
ハセミは俎板に包丁を突き刺したまま、アッシュの後ろに立つ影へ、鋭い眼光を向けた。
スキンヘッドをぎらりと光らせ、一言も発さずに佇む強面の大男──シェ・ダライ。ただそこにいるだけで、周囲の気がひりりと引き締まるほどの威圧感があった。
「そっちのカタギに見えない大男は誰だい? あんたを狙う賞金稼ぎって風でもなさそうだけど」
「ああ、こいつか。──俺の連れだ」
ぶっきらぼうに、アッシュは言った。主従ではない。命を張り合って隣を歩く、ただひとりの相棒。
ハセミは一瞬だけ目を見張り、やがて口元に妖しい微笑を浮かべた。
「ふぅん……あんたの『連れ』だなんて、妬けるねぇ……」
かすかに掠れた大人の色香を含んだ声。かつて野盗どもを率いた女の眼が、どこか艶めかしくアッシュを射抜く。
「あんたみたいな一匹狼が『連れ』かい──よっぽど腕が立つか、よっぽどいい夜の相手をしてくれるのか、どっちだい?」
「オメェのそういう下世話なからかい、相変わらずだなぁ、ハセミ」
アッシュは肩をすくめて流した。幾度となくこの女のからかいを叩き落としてきた気安さである。
ハセミはふっと鼻で笑った。
「からかってなんかいるもんかね。おい、コナ! その『アッシュの連れ』の旦那にも特大のジョッキを持ってきな! 樽ごと空ける勢いで飲んでもらわなきゃ割に合わないよ!」
「あー、コイツはお硬いヤツでさ、酒は一滴もやらねーから。その代わり、ガッツリ喰わせてやってくれよ」
アッシュが口を挟むと、コナが巨躯を乗り出してきた。
「あらぁ、『どこ』がお硬いのかしら♡ ハセミがますます妬いちゃうじゃない♡」
コナは大きな木製ジョッキをふたつ掴むと、片方には黄金色のエール、もう片方には冷えた水を並々と注ぎ、カウンターへドンと並べた。
「積もる話は、胃袋を落ち着かせてからにしな」
湯気を立てる角猪豚の塩漬煮と、香ばしい厚切りの硬い麦パン、チーズが次々と運ばれてくる。
アッシュはニヤリと笑い、麦パンをちぎって肉の旨味が溶け出した脂にどっぷりと浸し、口へ運んだ。噛みしめるほどに広がる穀物の滋味と塩気。それをエールで豪快に流し込む。
隣のシェ・ダライも無言のまま、特大ジョッキの水を干し、丸太のような腕で淡々と肉とパンを口へ運んでいく。
喰らうこと。飲むこと。
それは傭兵にとって、命の糸を繋ぎ止める何よりの儀式であった。
ふたりが粗方腹を満たしたタイミングを見計らい、ハセミが手拭いで手を拭きながら身を乗り出してきた。
「──で? 今夜はただメシを喰いに来たわけじゃないんだろ、アッシュ。……何を探しに、サフィールまでやってきたんだい?」
笑みが消え、元盗賊団の首領らしい、鋭く澄んだ瞳がアッシュを捉える。
アッシュはジョッキを置き、息を吐き出した。
「ああ。……『円環の双蛇』って連中の名に、心あたりはあるか?」
ハセミの整った眉が、わずかに揺れた。
その瞳に、修羅場を噛み分けてきた女特有の不吉な色が浮かぶ。
「ハッ……アンタってやつぁ、ホント天の邪鬼だねぇ」
ハセミは手拭いを無造作に放り投げ、アッシュを睨みつけた。
「『オレぁ面倒事はキライなんだよ』……なんて口では言いながら、いつだってドえれぇ面倒事に頭突っ込んでくる。性分なのかねぇ、それともただの馬鹿なのかい?」
「……まあ、いろいろあんだよ」
アッシュは苦笑いを浮かべ、残ったエールを喉へ流し込んだ。己の足が勝手にその死線を選んでしまうのだと告げるかのように、短く吐き捨てる。
ハセミはしばらく無言で見つめていたが、やがて諦めたように大きく息を吐き出した。
「……その名前、ここでは軽々しく口にしないことだよ。奴らはサフィールに溶け込んでいる」
声のトーンが一段低くなった。
「ただの野盗や暗殺組織ならマシさ。……アイツらはタチが悪い。終焉だ創造主だの謳いながら、怪しげな錬金術の果てに化け物まで作っちまう正真正銘のイカレ集団さ。人体実験にも手を染めてるとか……関わって無事に帰ってきた奴なんて、あたしの知る限り一人もいないよ」
ハセミはまな板に突き刺さっていた包丁をゆっくりと引き抜くと、その冷たい刀身に己の涼やかな目を映した。
「……本当に、その蛇の巣をつつき回すつもりかい、アッシュ?」
重苦しい静寂が、二人の間に落ちる。
だが次の瞬間、ハセミの薄い唇がふっと歪み、悪戯っぽい笑みが戻っていた。
「……まあ、アタシにも一枚噛ませてくれるってんなら、奴らの『巣』を探してやってもいいけどね」
「一枚噛ませろ、だと?」
「あぁ。実はね……奴らについては、東国ナルカミのとあるお偉いさんから、破格の懸賞金がかかった仕事を受けててさ。奴らが手を染めている禍々しい企み……その真偽と、実態の調査って仕事だ」
ハセミの目が、鋭い光を帯びる。
「実験を行っていそうな怪しい場所なら、手元に幾つか上がってる。……だが、相手は相当なものだ。破格の報酬は伊達じゃない。依頼を請負った手練れの冒険者一団も、歴戦の傭兵も、まだ誰一人として戻ってきちゃいないのさ。これ以上軽々しく斡旋してたら、ウチの客が減っちまうよ」
包丁をトントンと軽く叩く。
「だが……あんたらなら、話は別だ」
「ハッ……結局、俺に乗っかって、首尾よく儲けてぇだけじゃねぇか」
「利害一致と言しておくれよ。あんたらは奴らに用がある。アタシはナルカミの依頼を果たして報酬を受け取りたい。……悪くない取引だろ?」
アッシュは苦笑交じりに首を振った。
「で? その候補の中から、本星を絞り込むのにどれくらいかかる?」
「そう焦りなさんな」
ハセミは不敵に微笑むと、包丁を棚へと収めた。
「消えた連中が残したかすかな足跡と、サフィールの街に入ってくる薬物や資材の動き……それらを突き合わせて本星を一つに絞り込む。……アタシに5日……いや、4日差し出しな。確実なヤマを持ってきてやるよ」
「……よし、決まりだ。じゃあその4日、待たせてもらうとしよう。部屋を用意してくれ」
アッシュが木皿の端に数枚の銀貨を置くと、ハセミはカウンターの奥から古い木鍵を取り出し、卓の上へ滑らせた。
「あいよ。二階の角部屋を使っておくれ。あそこならベッドもでかい。その『お硬い』お連れさんでも床は抜けないはずさ。あんまり激しくしなければな」
「……冗談が利いてるな」
アッシュは苦笑しながら鍵を指先で拾い上げると、ポケットへと滑り込ませた。
そして立ち上がり、二階へ続く階段の方へと向かう。シェ・ダライもそれに続いた。
踏みしめる木階段が、ギィ、と古びた悲鳴を上げる。
二人の男の足音が、薄暗い廊下の奥へと吸い込まれていった。
ハセミは遠ざかる足音を聞きながら、包丁の刀身に映る己の目をじっと見つめ、ぽつりと呟いた。
「まったく……相変わらずな男だよ」
◇
同じ日の早朝──
王都。
白々と明けた空から落ちる薄光が、石造りの城内を冷ややかに照らし出していた。
身支度を整えたリッカは、硬い軍靴の音を響かせながら訓練場へ向かっていた。
アッシュたちに充てがわれていた客室の前を通り過ぎる。
扉は固く閉ざされ、中に気配はない。
昨夜の宴で痛飲し、泥のように眠りこくっているのだろう──そう思いながら通り過ぎた。
訓練場では、朝の澄んだ空気を切り裂くように部下たちの声が響く。リッカは自ら槍を執り、『葬槍の姉妹達』の教練にあたった。汗を流し、鉄と革の匂いに包まれる時間だけが、胸の奥の胸騒ぎを打ち消してくれた。
そして──昼。
食堂の喧噪から少し離れた席で、リッカは一人黙々と昼食に向き合っていた。
(……フン。いつまで居座る気だか)
苛立ちを吐き捨てるように、木匙を動かす。
その時、少し離れたテーブルから部下たちの賑やかな笑い声が飛び込んできた。
「ねえ、今朝のサフィール行きの乗り合い馬車、見た?」
「あー、あの第一便? 何かあったのか?」
「いやさ、あの狭い乗合馬車に、とんでもなく巨大な大剣を背負った大男が無理やり押し込まれるみたいに乗っててさ。背中が閊えて本当に狭そうだったんだよ」
「うわ、災難ね……隣に座った人も気まずかったろうに」
「それがさ、隣に座ってたのも目つきの悪い、いかにもって感じの傭兵くずれでね。二人して顔をしかめながら揺られていってさ。あれでサフィールまで行くなんて、乗客も御者と同情しちゃうよね」
カタリ、とリッカの手が止まった。
スープに浸かっていた木匙から、ポタリと雫が落ちる。
「……おい。今の話、詳しく聞かせろ」
低い声が食堂の喧噪を圧した。
瞬間、楽しげだったテーブルの空気が凍りついた。
雑談を交わしていた部下たちが、弾かれたように跳ね起きる。
顔からは瞬時に血の気が引き、背筋をぴんと伸ばして直立不動の姿勢をとった。
リッカの放つ尋常ならざる威圧感に、問われた部下は喉を鳴らし、全身を微かに震わせながら叫ぶように報告を口にした。
「は、報告いたします! 今朝一番のサフィール行き乗り合い馬車に、身の丈ほどの巨大な剣を背負った禿頭の大男と、赤茶けた革鎧の傭兵らしき男が乗車しているのを複数名が目撃し、その怪しき風体を訝しんでいたところであります!」
身の丈ほどもある大剣を背負った大男。その横で不機嫌そうに肩をすくめる、柄の悪い男。
その風体は、疑うべくもなくアッシュとシェ・ダライだった。
またしても何も言わずに去ったのか。
湧き上がる猛烈な苛立ち。だが次の瞬間、冷ややかな違和感がそれを抑えた。
何故、早朝に発つ。
あいつは目的である人造魔法石の買い取りは済ませたのか。
昨夜から今朝まで、そんな機会は無かったはずだ。
リッカは外套を引き寄せ、勢いよく立ち上がると食堂を出ていった。
◇
重厚な扉が、軋んだ。
エルフィムの執務室である。
室内は暗い。高い窓から射し込む午後の光が、空気の中に漂う微小な塵を、黄金の粒のように浮かび上がらせていた。
執務机の前に、エルフィムが佇んでいる。
指先にあるのは──黒檀の小箱。
重みのある、漆黒の木肌。
息を殺し、そっと蓋を開け、その中身を見つめていた。
からっぽであった。
アッシュに手渡したのは、中に収められていた一枚の白金貨──彼女の半生の栄誉そのものである。
コインは既にあの男のポケットの中だ。
遺されたのは、濃紺のベルベットが敷かれた、虚無の器だけであった。
エルフィムは静かに、かちり、と蓋を閉じた。
アッシュに託した無謀な願いを、胸の奥底に再び押し込めるかのように。
その時──
ノックもなしに、扉が荒々しく押し開かれた。
踏み込んできたのは、リッカ。深紅の外套を翻し、その眼光は射抜くように鋭い。
「アッシュはどうした」
地鳴りのような、低い声であった。
エルフィムは答えず、ただ静かに深々と俯く。その沈黙が、かえってリッカの胸中の火を煽った。
「あの二人の姿が見えない。……早朝、サフィールへ向かう馬車に乗る怪しい風体の噂を聞いた。おかしいだろう。人造魔法石の買い取りは一体いつ済ませた? なぜあいつらがサフィールへ向かう?」
畳みかける詰問。
リッカの問いが執務室の空気を叩く。
その時──リッカの視線が、エルフィムの指先に止まった。
「……何を手にしている」
エルフィムの肩が、ぴくりと跳ねた。
あまりの問いの鋭さに、あるいは不意を突かれた動揺に、エルフィムの手から黒檀の小箱がすべり落ちた。
コトン、と重い音を立てて小箱が床を転がる。
衝撃で、蓋が開いた。
──空であった。
ベルベットの紺が、虚ろに広がっている。
リッカの目が細められた。
エルフィムが己の半身のごとく大切に抱えてきた白金貨の納められていた箱。
それが、空なのだ。
「……中身は、どうした」
静寂が、再び執務室を支配した。




