第六章 澱を払うは栄誉の契り
バルコニーを抜ける夜風が、ふたりの衣服を小さく揺らす。月光の下、正面から射抜くような眼差しを向けてくるエルフィムに対し、アッシュは手すりに肘を預け、冷ややかな視線を送り返した。
「おいおい、大きく出たじゃねえか。言っとくがな、俺の剣は安くねぇぞ? それも、国ひとつ救う仕事となりゃあ……金貨数枚じゃ到底きかねぇ」
アッシュは鼻で笑い、試すような口調で吐き捨てる。その言葉に、エルフィムはハッと息を呑んだ。「国ひとつ救う」という言葉のあまりの重みに、一瞬、思考が真っ白に染まる。冷や水を浴びせられたように、いまさらながら思い知らされたのだ。アッシュにすがりたい一心で発した己の依頼が、どれほど無謀で、どれほど破格の代価を要求する代物であったか。
傭兵たる彼に、情や正義感は通用しない。対等な交渉に必要なのは、現実的な対価。眼鏡の奥で視線が揺れ、喉が不自然に乾く。手持ちの金貨など、たかが知れている。どれほど地位を重ねようと、この男の剣を買うほどの即金など持ち合わせてはいない。断られる──その絶望が脳裏をよぎった、次の瞬間だった。
エルフィムの瞳に、ハッと光が戻る。自身の歩んできた半生。積み上げてきた栄誉。そして、かつて賜った、あの「誇り」。彼女は迷いを振り払うように身を固くすると、懐から王家の刻印が施された小さな黒檀の木箱を取り出した。慈しむように滑らかな木肌を指で撫で、その蓋を静かに開く。
内側に敷き詰められた濃紺のベルベットの上で、月光を受け、青白い一閃の光を弾く硬貨。それは見たこともないほど緻密な、王家の紋章が刻まれた美しい白金貨であった。
「……これは、私が王立魔法学院の全ての術理を修め、更には対極する神学の深淵をも修め高位聖職者の位階を賜った折、ユノー様より前例なき偉業とお認めいただき、直々に授けてくださった白金貨です」
アッシュの眉が、わずかに跳ね上がる。
「……王室直封の、プラチナコインか」
「これ一枚で、純金貨にして三百枚。私個人が用意できる限りの全財産であり……私の、これまでの人生のすべてです」
エルフィムは小箱を大切に胸の前で抱えると、すっと背筋を伸ばし、正面からアッシュの瞳を射抜いた。
「……どうか、これで王都を、ユノー様が愛した民草を救ってはいただけないでしょうか」
夜風がふたりの間を吹き抜け、箱の中の白金貨が月光のもとで鈍い光を放つ。アッシュは小箱の中の輝きを半眼で見下ろし、呆れたように息を吐き出した。
「……ハッ。王に仕える聖職者が、賜った最高の栄誉を傭兵の雇い賃にするとか、正気かよ。元老院のジジイ共に知れたら、お前自身ただじゃすまねぇぞ」
だが、エルフィムの決心は揺るがなかった。
「構いません」
迷いのない声が、夜の空気をつんざく。
「人造魔法石……あの理を歪めた不吉な存在を野放しにすれば、この国が積み上げてきた平穏も、守るべき人々の暮らしも、いずれすべてが瓦解してしまうでしょう。あのような恐ろしい存在に晒された人々の命を前にして、私個人の立場や全財産など何の価値もありません。私は、私のすべてを賭けて、あなたを雇いたいのです」
指先ひとつ震わせず、アッシュを見つめ返すエルフィム。その瞳に宿る、悲愴なまでの覚悟と澄んだ炎を前に──アッシュはしばし無言のまま、手すりに背を預けた。
「……ふん。決意だけは一人前ってわけだ」
アッシュは短く鼻を鳴らすと、手すりから体を離し、エルフィムが差し出す木箱へと視線を落とした。白金貨の青白い輝きを一度だけ見つめ、だがすぐには手に取らず、胸の前で腕を組む。
「腹は括れてるようだな。……で? 『救ってくれ』たぁ、具体的にどういうことだ。王都で一体何が起きてやがる」
エルフィムは静かに木箱の蓋を閉じると、大切に胸元へ抱え直し、深く息を吐き出した。その瞳から、先ほどまでの動揺は完全に消えていた。
「……三ヶ月前、王城の保管庫に賊が侵入する事件がありました。狙われたのは、亡きユノー様の遺品です。盗み出された品はすぐに回収され、表向きは事件解決と処理されました。……ですが、真の目的は遺品そのものではなく、その中に混ざっていた『神々の褥たる北の山より発見された古の魔法石に関する文献』でした。他の品々は、本命を隠すための単なる煙幕に過ぎなかったのです」
アッシュは口を挟まず、ただ静かに先を促す視線を投げた。
「現物を持ち歩けば追撃の足がつきますので、文献の写しを取った時点で賊もろとも手放したのでしょう。……王城の厳重な警備を思えば、一介の賊が単独で侵入するなど不可能です。城内に内部協力者が存在していたと見るべきですが、捕縛した賊も記憶を消されておりました。最初から使い捨てにする算段だったのです」
「徹底してやがるな。……で、その陰に誰がいる?」
「はい……その後、独自に捜査を進めた結果、賊の裏に潜むひとつの組織の存在が浮かび上がりました。賊の隠れ家に残されていた小さな印章──表向きは単なる盗品の類として処理されていましたが、そこに刻まれていたのは、互いの尾を喰らい合う二匹の蛇を模した円環の紋様」
エルフィムの声音が、いっそう低く重くなる。
「──『円環の双蛇』。臙脂色の長袍を身にまとった、異端の錬金術師集団です」
その名を聞いた瞬間、アッシュの目つきが僅かに鋭くなった。
「……近頃、各地で世界の終焉だの再生だのと謳いながら、怪しげな研究や実験に傾倒している連中か」
「はい。アッシュさんが手にしたあの青い石……あれこそが彼らの完成させた人造魔法石です。それを生命の核として仕込んで異形の怪物を生み出し、世界を一度破滅させ、新たなる創造主として振り出しへと戻そうと企んでいるのです」
エルフィムは眼鏡の奥の瞳を強く光らせ、語気を強める。
「王都へ向かう道中、駐屯地近くの銀鉱山が襲撃された事件……あれも彼らの仕業に違いありません。人造魔法石の精製には、触媒として大量の純銀が必要となるからです。警備兵の死闘により鉱山自体の占拠は免れましたが、奴らが銀を求めて動き出している以上、精製計画に拍車をかけているのは確実です」
彼女の中で、これまで点と点であった出来事が、恐ろしい一つの線となって繋がっていく。
「古の文献から盗み出した製法と、それを可能にする銀の調達……。彼らは確実に準備を進めており、表の平穏の裏で、破滅の足音はすぐそこまで迫っています」
アッシュは顎をさすりながら、エルフィムが提示した事実を静かに咀嚼する。その顔から、先ほどまでの軽薄な笑みは完全に消えていた。
「……なるほどな。話の筋は通ってる」
アッシュはゆっくりと吐息を漏らすと、射抜くような視線をエルフィムに向けた。
「で? 敵の正体と狙いまで割れてるんなら、手遅れになる前に叩くだけだ。……その『双蛇』の奴らの巣窟に、あてはあるのかよ」
「……はい」
エルフィムは重く頷き、静かに言葉を継ぐ。
「彼らの本拠地は……この国の領域外。王都の南西、隣国アル・ザハルとの国境近くに位置する貿易都市──サフィール。その近郊に拡がる旧王朝時代の遺跡群の何処かを根城にしている可能性が高いのですが、他国の領域ということもあり、王国の手が届かず詳細までは掴めておりません」
「サフィール、ねぇ……」
アッシュの口元に、苦い笑みが浮かぶ。
「そいつは傑作だな。ミネアが動かねぇ理由もよく分かる……」
確たる証拠もないまま、他国の領内に正規軍を送り込むなど、隣国アル・ザハルへの侵略行為と取られかねない。ミネアが静観を決め込んでいるのは、危機に気づいていないからではない。外交問題という目に見えない壁に阻まれ、手足を縛られて「動けない」のだ。
「まあ、あそこなら、俺もアテがある。馴染みの店に顔を出しゃあ、ちったぁマシな情報が拾えるかもしれねぇ」
アッシュは短く煙を吐き出すように鼻を鳴らすと、手すりに肘を置き、夜の闇に塗り潰された遠くの景色へと視線を巡らせた。
国の面子や条約といった大層な事情は、傭兵の預かり知るところではない。だが、国家の正規軍が手を出せない場所だからこそ、自分のような裏の人間が自由に動ける隙ができる。
エルフィムはアッシュの言葉に微かに表情を和らげたものの、すぐにその面持ちを再び固く引き締めた。
「さらに厄介なことに、彼らの一部は一般市民としてサフィールに密かに溶け込んでいます。都市に近いからこそ、実験や研究に必要な資材、触媒を容易に手に入れることができるのでしょう」
エルフィムの言葉に、アッシュは手すりに背を預け直すと、どこか呆れたように肩をすくめた。
「人の目が多い街のすぐ側で、物資を仕入れながら潜伏か。やり口が抜け目ねぇな。だが……やっこさん方にしても、都市の近くだと派手には動きづらそうだが?」
「いいえ。彼らにそのような躊躇はありません」
エルフィムの声が冷たく冴え渡り、アッシュの言葉を断ち切る。
「時が満ちれば、奴らは何の迷いもなく行動を起こすでしょう。……それも、この王都の中央で」
アッシュが怪訝そうに眉をひそめる。
「……なんでわざわざ、目の届く王都なんだ? 潜伏してるサフィールで暴れさせた方が手っ取り早いだろ」
「人造魔法石は、異形の生命を生み出し動かすための『核』となります。そして……その石の純度を高め、真の力を引き出すには、より多くの生命を石に吸い上げさせねばなりません」
エルフィムの瞳に、鋭く冷たい光が宿る。
「もしも彼らが、何らかの形でそれを成そうとするなら、その場所は多くの生命が営みを続ける、この王都である可能性が高いでしょう。堅牢な外壁に囲まれ、数万人もの人間が逃げ場もなく過密に暮らすこの街は、彼らにとって絶好の『収穫場』になるのです」
彼女は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「集められた事実を精査する限り、彼らがこの王都を最終標的に据えていると考えざるを得ません。……そして、王城内に内通者が潜んでいる可能性がある以上、私自身も表立って調査に動くことができないのです。奴らの目がある中で大手を振って動けば、かえって動きを察知され、先手を打たれる恐れがあります」
エルフィムの説明を聞き、アッシュはどこか納得したように口元を歪めた。
「つまり……身動きの取れないお前らの代わりに、しがらみのねぇ俺みたいな部外者が動くほうが都合がいいってわけだ」
アッシュは可笑しそうに鼻で笑うと、肘を預けていた手すりから体を離した。
「……ハッ、巧みなもんだな。あの気味の悪い石を買い取るなんて話も、俺をここまで引っ張り出すための口実だったってわけだ」
「いいえ。あの石自体は、お約束通り魔導師団の公金にてしかるべき価格で買い取らせていただきます。ユノー様の文献に端を発したか否かに関わらず、このような強大な力を内包した石……研究機関として回収するのは当然の公務です。内通者から見ても、至極まっとうな動きに映るでしょう」
アッシュは口元を歪め、呆れたように鼻を鳴らした。
「なるほどな。つまり石は石で公的に買い取ってくれるってことだな。……その裏じゃ私財で俺を雇い、双蛇の根城を叩かせようとか……聖職者様ってのはおっかねぇもんだ」
「……城内に内通者がいる以上、公的な調査隊や軍を動かすわけにはいきません。奴らに察知されずその根城を断つには、こうするほかないのです」
アッシュは組んでいた腕を解くと、エルフィムが胸元に抱えていた小箱へ迷いのない手を伸ばした。滑らかな木箱を開き、ベルベットに収まった白金貨をふたつの指先で無造作につまみ上げる。月光にかざした青白い輝きを一度だけ確かめると、それをポケットへと放り込んだ。
「了解だ。そういう話なら筋が通る。……さて、じゃあ俺は、そのサフィールに行って、奴らの根城を調べて叩いてくりゃいいんだな?」
「……はい。そして可能であれば、奴らが秘匿している更なる人造魔法石や研究資料を確保、または破棄していただきたいのです」
「分かった。早速明朝出立してみるかよ。……お前もせいぜい上手く立ち回れよ、高貴な聖職者様」
「……ええ。アッシュさんも、どうかご無事で」
背後から返ってくる硬くも頼もしい声を聞き流しながら、アッシュは喧噪の残る大広間へと戻っていった。
宴はいまだ熱気を帯びていたが、大皿の山と空の器が転がるテーブルの片隅に、揺るがぬ岩のごとき存在感で座している姿があった。シェ・ダライだ。周りの喧噪に呑まれることもなく、静かに肉を胃袋に収め続けている。
アッシュは自然な動作で隣へ腰を滑らせると、その耳元へ短く呟いた。
「……シェダ、次の仕事が決まったぜ」
シェ・ダライの手が、ピタリと止まる。
静かに、深く。ひとつ、吐息を漏らした。
何も言わない。仏頂面のまま、ただアッシュを見つめ返した。
誓いがあり、業がある。従者であり、そして背を預け合う相棒であった。声にならぬ全てを呑み込んだ、深々とした眼差し。
ただ、共に往く。
死線を潜り、その背を守る。ただ、それだけのことだった。
シェ・ダライは深く、一度だけ頷いた。




