第五章 王都
幾重もの歴史を塗り重ねてきた灰褐色の巨大な岩株が、眼前に聳えていた。
王都グラナディア。
大陸の土手っ腹に、穿つように根を張る巨大な城郭都市である。
遥か北方を見やれば、白く霞む神々の褥たる霊峰が雲を穿ち、西方には赤茶けた地骨の剥き出しとなった厳めしい巨峰アルドミラが、太古より伝わる魔界への門を、その圧倒的な質量で封じるが如く鎮座している。
富も、情報も、生者の息吹も、あるいは死者の未練すらも。すべてを呑み込んで脈打つ巨大な王都が、いま四人の目の前に横たわっている。
西の空がゆるやかに黄色みを帯び始める刻限であった。陽の光は角度を増し、城壁の陰を長々と地上に引き伸ばしている。
外壁の正面、閉ざされた門の麓に立つ二人の衛兵が、近づく軍馬車を認めると、背筋を伸ばし敬礼した。
御者席のリッカが短く顎をしゃくり、エルフィムがやわらかく手を振る。
ふむ、と重い鉄の格子が悲鳴を上げ、馬車はその暗い腹の中へ滑り込んだ。
門を越えた途端、熱気が押し寄せてきた。
生きものの匂いだ。
斜めから差し込む陽光を受け、正面奥には白銀の王城が光を弾いて聳え立っている。
その脚元にひしめくのは、石造りの街並みと、雑多な人々の群れ。
夕刻の仕込みや買い出しに差し掛かる市場からは、商人たちの太いダミ声と、焦げた肉や香辛料の匂いが鼻を突く。
長くなった影を引きずりながら行き交う足音。喧噪。熱気。昼と夜の隙間、熱を帯びた都市の力強い鼓動が四人を包み込んでいた。
城の奥深く、西日の差し込む政務室。
玉座に腰を下ろした王ミネアは、手元に届けられた羊皮紙に目を落としていた。
眉間の皺が、深く、刻まれている。
四十代半ばを過ぎ、なおも精力漲る雄々しい面構えでありながら、その瞳には国を統べる者特有の苛烈な影が宿っていた。
書状に記されていたのは、山岳警備の兵士長から届いた銀鉱山での事態──突如あらわれた狼のごとき巨大な化け物との死闘、そして手負いの兵たちの惨状についての報告であった。
化け物は警備兵らの死闘の末に討ち取られ、最期は泥のように崩れ去ったという。
そして、その陰に見え隠れする「臙脂色の長袍を着た人物」の影。
密勅との関連性を拭えない匂いを孕んだ報告に、雄々しき王の発する重々しい気が、室内の空気を重く湿らせていた。
その傍らには、静まり返った二つの影がある。
一人はいかにも異彩を放つ、初老の男であった。
漆黒の道衣。羽織は灰色。
首元に巻かれた厚い首巻きの影から、鋭い眼光がぞっとするほど覗いている。腰には大小二本の刀。
もう一人は、背に長弓を背負った軽装の女。
しなやかな身体を包む深緑色に染められた革甲冑。流れるような黄金の髪から、尖った耳が覗いている。
光を宿さぬ冷たい瞳。熟練の斥候が放つ、刃のような気配であった。
そこへ、ひた、と足音を殺して衛兵が一人の歩み寄り、膝をついた。
「報告いたします。リッカ殿、ならびにエルフィム様が帰城されました。現在、謁見の間におられます」
ミネアは書状から目を上げ、部屋の窓から差し込む斜陽へ視線を走らせると、短く息を吐いた。
「戻ったか……。予定より随分と早いな」
「はっ。……それと、ご報告がもう一点」
衛兵は一瞬言葉を詰まらせた。
「お二人のお供として、なにやら妙な男を二人、連れております」
「妙な男、だと?」
「はい。一人は物騒な重剣を背負った、筋骨隆々の大柄な男。……そしてもう一人は、腰に曲刀を下げた、いたく態度の悪そうな革鎧の男で。いかにも無法者、といった体の二人でございます」
それを聞くと、ミネアはあからさまに怪訝な顔をした。眉間の溝が、いっそう深くなる。
傍らの初老の男とエルフの女もまた、無言のまま視線を交わした。
ふ、と気配が鋭くなる。
傾きかけた太陽が影を深めゆく中、王都の奥深くで、時が静かに動き出そうとしていた。
広大な謁見の間。
高々とした天井から伸びる柱の陰に斜陽が落ち、荘厳な朱と暗がりが静かに交差していた。
重い木扉が開かれ、リッカを先頭に四人が足を踏み入れる。
連添う二人の衛兵は、案内しながらも苛立ちを隠せずにいた。
先頭を行く女武人と聖職者の後ろで、巨大な重剣を背負った巨漢と、首を鳴らしながら退屈そうに周囲を眺める革鎧の男。
「……おい。王の御前であるぞ。背筋を伸ばし、控えよ」
アッシュの怠惰な歩調と、シェ・ダライの醸し出すどこか不躾な圧迫感に、衛兵が低く掠れた声で注意を飛ばす。
だが、アッシュは「へいへい」と軽く手を振るだけで、一向に態度を改める気配はない。
玉座の前に並び立ち、リッカとエルフィムが深く頭を垂れた。シェ・ダライもそれに倣い、無言のまま大きな体を折る。
ただ一人、アッシュだけが腰に手を当てたまま、玉座に座す男を見上げていた。
玉座のミネア王は、一歩前に出たリッカとエルフィムへ向け、深く静かな声を掛けた。
「……よくぞ無事に戻った、リッカ、エルフィム。予定よりも随分と早い帰還であったな。苦労をかけた」
労いの言葉を下したミネアの視線が、ふと、リッカの斜め後ろにたたずむ男へ留まった。
退屈そうに片足を投げ出し、ひらひらと手を振る革鎧の男。
その面影。瞳の奥に宿る、鋭く捻曲がった光。
ミネアの呼吸が、ぴたりと止まった。
王としての威厳に満ちていた顔が、みるみるうちに目を見開かれ、固まる。
「あ……アッシュ!? アッシュなのか……!?」
掠れた声が、広大な謁見の間に小さく響いた。
アッシュは口元をへにゃりと歪めると、肩をすくめて軽く片手を上げた。
「よぉ、ミネア。久しぶりだな。相変わらず重苦しいツラしてやがる」
「き、貴様ッ! 王に向かってなんと礼を失した口を……! ひかえ──」
衛兵が色めき立ち、腰の剣に手をかけながら怒号を上げようとした。
だが、ミネアは咄嗟に片手を上げ、それを制した。
「よい、よいのだ! ……ふっ、コイツは昔からこうだ。いまさら正そうとしても無駄というもの」
ミネアは苦笑を漏らすと、座し直して深く息を吐いた。
そして余計な目を憚るように手元を僅かに動かし、侍立していた衛兵たちを謁見の間の外へと退がらせた。
重々しい扉が閉ざされ、ミネア王と影のように傍らに控える二人、そしてリッカたち四人だけとなった謁見の間。
「息災でなによりだ。……だが、どうして急に戻ってきた? 三年近くも姿を消していたお前が、なぜこの二人と……」
「へっ、俺が自分から戻ってくるわけねぇだろ。そこの可愛いビショップ様がよ、コレを高く買い取ってくれるって言うからついてきただけだ」
アッシュは懐に手を突っ込むと、取り出した小さな『青い石』を、ぽん、ぽんと手元で弄び始めた。
掌の中で鈍い光を放つ人造魔法石。
それを見た瞬間──ミネアの瞳が、僅かに、そして鋭く細められた。
だが、その気配は一瞬で消え去り、何事もなかったかのように平静を取り戻す。
「……なるほどな。リッカ、エルフィム。報告を聞こう。国境付近での首尾はどうであった」
リッカが一歩進み出で、頭を垂れてから朗々と声を張り上げた。
「はっ。我らが国境付近の村に到着した当日、偶然にもこのアッシュらと遭遇いたしました。事情を聴取したところ、前夜に大樹海で野営中、我々が追っていた巨大な怪異と酷似する化け物と遭遇。アッシュらがこれを討ち取った際、その体内から現れたという『青い石』を所持しておりました。
状況から察するに、追撃対象の怪異はすでに退治され、かつ、その起源に繋がるであろう証拠品も確保されたと判断。密勅の一応の達成とみなし、部隊には引き続きの哨戒を命じた上で、エルフィムと共に急ぎ報告に戻った次第にございます」
静かに耳を傾けていたミネアは、深く深く頷いた。
「事態の収束、しかと聞き届けた。現場での臨機応変な判断、見事であったぞ。……追って精査せねばならんことは山積みだが……」
ミネアはそこで言葉を切り、アッシュに向かって柔らかく目を細めた。
「何はともあれ、折角こうして戻ったのだ。今夜は無事の帰還を祝い、晩餐の席を用意させよう。久々の再会だ、存分に饗させてくれ」
「おいおい、大層な宴なんて別にいらねぇよ」
「口を挟むな。支度が整うまで、ゆっくりと身体を休めるがいい」
アッシュは「ハッ、物好きなこった」と鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わなかった。
四人が謁見の間を後にし、重い木扉が静かに閉じられる。
室内にはミネア王と、先ほどアッシュを咎めた衛兵が戻り、そして影のように控える初老の男とエルフの斥候だけが残されていた。
衛兵は静寂が戻った室内で、堪えきれずに膝をついた。
「……王よ。差し出がましいお尋ねをお許しください。あの無法者……ミネア様に対し、あまりにも不遜極まる態度。……一体、何者なのですか?」
疑問と不信に満ちた衛兵の声。
ミネアはすぐには答えなかった。
西日の差し込む高窓へ視線を向け、どこか遠い目をする。
過去の血と鉄の匂いを手繰り寄せるように、重々しく口を開いた。
「……あいつはな」
ミネアの声が、深く落ちる。
「私の兄である先王ユノーの、インペリアルガードを務めていた男だ」
衛兵が息を呑む。
「そして、かつて王都術剣師団に存在した特殊戦術部隊……通称『厄災の手』。その部隊長にして……『戦鬼』の二つ名で恐れられた男だ」
静まり返る謁見の間。
衛兵は「厄災の手」の名に恐れをなして息を呑み、影に潜んでいた二人は静かにその気配を深めた。
初老の男──ゲンマ・キラサギは何も語らず、首巻きの奥からただ無言のまま、去っていった男の背中があった空間を見つめている。
背に長弓を背負ったエルフ──リーフウインドもまた、細い腕を組んだまま冷ややかな瞳を伏せていた。
「……フン。相変わらず、食えない奴だ」
リーフウインドが、誰にも聞こえぬほどの小さな呟きを漏らす。
ミネア王は高窓から差し込む西日に視線を走らせ、過去の血と鉄の記憶を手繰り寄せるように、重々しく言葉を繋いだ。
「先王ユノーが即位した折、国防のために自ら結成した少数精鋭の特殊戦術部隊……それが『厄災の手』だ」
王の低い声が、広大な部屋の天井へと吸い込まれていく。
「王都に降りかかる全ての脅威に対し、厄災を齎すことにより安寧を守る──。奴らはユノーの絶対の懐刀として、敵国の軍勢であれ、立ち塞がる巨獣であれ、圧倒的な戦力でことごとく退けてきた」
「あ、圧倒的な戦力……」
衛兵の額から、じわりと冷や汗が滲む。
「だが……王都に帰ってきたわけではなく、ただ拾った石を金に換えるためだけにフラリと現れるとはな。全くあいつらしいわ」
ミネア王は苦笑を漏らし、深く椅子に背を預けた。
「懐かしいな。アッシュ」
傾きかけた太陽の光が謁見の間を赤く染め上げていく。
静寂を取り戻した城の奥深くで、王都の時が密やかに刻まれていた。
◇
長テーブルの上に所狭しと並べられたのは、王都の最高峰の宴料理である。
香草とともにじっくりと焼き上げられた若鶏の丸焼き、溢れ出る肉汁を閉じ込めた大豚のロースト、深海から運び込まれた大魚の塩焼き。
惜しげもなく注がれるのは、王室御用達の黄金色に輝く最高級の熟成酒だ。
宴の始まりに際し、上座に立つミネア王が黄金の杯を高く掲げた。
「遠路遥々の帰還、見事であった! 今宵は我が国の勇士たちの無事を祝い、そして……久しく離れていた懐かしい友との再会を祝して乾杯としよう! 大いに食し、大いに飲め! 乾杯!」
王の声に応え、居並ぶ重臣や各師団長たちが一斉に杯を掲げ、豪快な歓声が広間に轟いた。
過酷な旅を生き抜いてきた身体へ、溢れんばかりの肉の脂と酒の熱が染み渡っていく。食の熱気は、刻一刻と高まっていった。
その一角、インペリアルガードの面々もまた座につしていた。
凛とした佇まいで静かに杯を傾けるリッカ。
その隣で、珍しい料理に目を輝かせつつも、品良く箸を運ぶエルフィム。
壁側に背を預け、喧噪から離れた場所で静かに手元の酒杯を傾けているゲンマ・キラサギ。
そして、肉の骨を細い指でつまみ、どこか退屈そうに噛み千切っているリーフウインド。
そんな洗練された者たちの輪の中で、アッシュとシェ・ダライの存在感は浮き彫りになっていた。
シェ・ダライが無言のまま巨躯に似合う大皿の肉を片端から平らげている傍らで、アッシュは豪快に肉を削ぎ落としては口へ放り込み、極上の酒を水のように煽っている。
姿を消していたかつての「戦鬼」の帰還に、場内の古い将校や面識のある騎士たちが、懐かしさと驚きを隠せずに次々と歩み寄ってきた。
肩を叩き、杯を突きつけ、口々にこの三年間の消息を問いかける者たち。
だが、アッシュは向けられる視線や歓声に目もくれず、顎で軽くあしらうように二、三度頷くだけで、手元の肉塊を喰らい、酒で流し込む作業を止めようとはしない。取りつく島もないその適当極まる態度に、集まってきた者たちも苦笑いを浮かべながら、一人、また一人と諦めて自分の席へと戻っていった。
そんな雑多な光景を温かい目で見守っていたミネア王が、自ら杯を手に歩み寄ってきた。
まず、アッシュの隣で黙々と肉を喰らう巨漢に視線を落とす。
「……アッシュ。その男は? 相当な手練れとお見受けするが」
アッシュは肉を喉奥へ呑み下すと、木杯を傾けながら気のない風に肩をすくめた。
「ああ、シェダか? こいつは俺の『連れ』だよ。余計な口を利かねぇから、一緒にいて一番ラクな奴さ」
シェ・ダライは問いかけにも動じず、黙々と料理を口へ運んでいる。その無言の巨躯が放つ静かな圧力に、ミネア王はふっと口元を緩めた。
「連れ……か。ふっ、一人が楽なお前が連れる男だ。ただの男ではないことぐらい分かっている」
ミネア王は杯を軽く傾け、アッシュの顔を正面から見つめ直した。
「……それで、今までどうしていた? 三年近くも音沙汰なしだったが」
「なーに、何も面白い話はねぇよ。風の向くまま気の向くまま、ふらふらと傭兵稼業さ……」
アッシュは何でもなさそうに言い捨て、新しい酒を杯に注いだ。
その軽薄な態度に、隣に座っていたリッカの眉間にしわが寄る。
バン、と小さくテーブルを叩いて立ち上がると、刺すような眼光でアッシュを睨みつけた。
「貴様の自分勝手で、どれほどの混乱と負担が現場に生じたと思っている……!『風の向くまま』で済まされる話では──」
「よい、よいのだリッカ」
溢れ出そうになるリッカの怒りを、ミネア王が手で静かに制した。
「コイツにそれを言っても無駄というものだ。こうして無事に生きておった、今はそれで十分ではないか」
「……っ、御意」
リッカは苦虫を噛み潰したような顔で、不承不承腰を下ろした。
そのやり取りを冷ややかな瞳で見つめていたリーフウインドが、細い指で杯を回しながら、低く呟くように口を開いた。
「フン……。お前が勝手に抜けてからというもの、我らインペリアルガードの体制も色々と変わってな……」
リーフウインドの言葉が続きかけた──その時である。
どしん、どしん、と床を揺らす重厚な金属音が、大広間の歓談を叩き割るように響き渡った。
「ハッハッハ! 遅くなってすまん! なにやら珍しい顔ぶれが揃っていると聞き、急ぎ駆けつけたぞ!」
熱気とともになだれ込んできたのは、眩いばかりに輝く白銀の全身鎧に身を包んだ大男であった。
背には、大人が二人隠れそうな城壁のごとき『大盾』。
王都聖騎士団団長、マクシミリア。
武骨の一心。ただひたすらにまっすぐで、正気すら疑うほどの愚直な善性を撒き散らす男であった。
マクシミリアのギラついた視線が、まず一瞬でリッカを捉える。その途端、顔を真っ赤に煮やけさせ、大股で歩み寄った。
「おお、リッカ殿! 無事のご帰還、このマクシミリア、心よりお喜び申し上げる! 無事と知っていれば私が一番に駆けつけ──」
「鬱陶しい。あっちへ行ってくれ」
リッカは視線すら合わせず、冷ややかな声で一蹴した。
文字通り塩を撒くような拒絶。だが、マクシミリアの揺るぎなき愚直さは微動だにしない。
「ふ、ふふっ……なるほど! 旅の疲れで照れているのだな! 相変わらず奥ゆかしいお方だ!」
一人で深く頷き、感無量といった様子で胸を張る。周囲の呆れ顔などどこ吹く風だ。
だが次の瞬間、そのギラついた視線が、リッカの隣で豪快に酒を煽る革鎧の男へと移った。
その顔を確かめた途端、マクシミリアの瞳がカッと見開かれ、背中の大盾がゴゴと鳴る。
「き、貴様ッ……! アッシュ!! どのツラ引っ提げて戻ってきたのだ!」
マクシミリアは大盾の縁をドスンと床に叩きつけ、雷鳴のような大声を張り上げた。
「勝手に姿を消した落人が今更なんの用だ! 勘違いするなよ! インペリアルガードの座も、今やこの我が担っているのだ! 貴様の居場所など、この王都のどこにも無いと思え!」
並々ならぬ対抗心を全身から噴出させ、堂々と宣戦布告する白銀の騎士。
誰もが固唾をのんで見守る中、アッシュは肉の骨を皿に放り投げると、面倒くさそうに耳の穴をほじった。
「インペリアルガードの座?……いらねーよ、そんなもん。お前のそのデカい大盾で、穴埋めでもしとけよ」
アッシュは薄い笑みを浮かべ、鼻でふっと笑った。
その無関心極まるあしらいに、一瞬静まり返る場内。だが──マクシミリアの顔がパッと輝いた。
「なにっ……!? ほう……! 『自分の代わりに王都の盾となれるのは、お前のその大盾だけだ』と……そう言いたいのだな!? フハハハハ! 認めたかアッシュ! 貴様もようやくこのマクシミリアの真価に気づいたようだな!!」
アッシュは口元をわずかに引きつらせ、心底呆れ果てた顔で肩をすくめた。
言葉を返す気すら失せたように、静かに息を吐き出す。
「よろしい! その言葉、確かに受け取った! インペリアルガードの誇り、この大盾で完遂してみせよう! だが勘違いするな、貴様をライバルと認めたわけではないからなッ!」
勝ち誇った高笑いを響かせ、満足げに胸を叩くマクシミリア。
あっぱれなまでの思い込みの強さに、アッシュは「勝手に言ってろ……」と脱力したように新しい杯を手にとった。
そのやり取りに、傍らで見ていたリーフウインドが呆れたように息を吐き、ゲンマは影の中でふっと口元を緩めた。
大広間の喧噪は、夜が更けるにつれてますます熱気を帯びていった。
マクシミリアは相変わらず高らかに笑い声を上げ、リッカへ向け熱弁を振るっては冷たくあしらわれ、それをまた独自の思い込みで受け止めては一人で満足げに杯を乾かしている。
その横では、シェ・ダライがまるで揺るがぬ大岩のごとく座し、一切酒には手をつけず、豪快に肉を喰らい続けていた。
酒を飲まずとも、ただ黙々と圧倒的な量の肉や料理を胃袋に収めていくその姿は、それだけで圧倒的な存在感を放っている。いつしか周りの近衛兵たちが感嘆の息を漏らしながら、彼の大皿へ次々と肉料理を運んできていた。
変わらず壁側に佇むゲンマとリーフウインドも、刻の移ろいとともにゆっくりと熟成酒を味わい、張り詰めていた気を解すように静かな時間を過ごしている。
生命の熱と、肉と酒の匂いが満ちる宴。
命を繋ぎ、明日を生きるための糧が、そこに集う者たちの身体へじんわりと満ちていく。
十分に腹を満たし、重い酒の熱を身体に宿したアッシュは、喧噪を逃れるように大広間を後にした。
ひんやりとした夜気が肌を撫でる廊下を抜け、静かなバルコニーへと足を向ける。
そこには、先客がいた。
夜空に浮かぶ白銀の月を、一人静かに仰ぎ見ている影。
エルフィムであった。
月光を受け、彼女の華奢なシルエットと手にした杖が、青白く美しく浮かび上がっていた。
アッシュは足音を隠す風もなく歩み寄ると、冷えた手すりに無造作に肘を預けた。
眼下に広がる王都の街並みは静けさに包まれ、遠く宴の喧噪だけがかすかな羽音のように届いてくる。
エルフィムは手すりに細い指をかけ、夜空に佇む月をただじっと仰ぎ見ていた。その側顔には、昼間の光の中では覆い隠されていた強い焦燥が張り付いている。
「……こんなところで、何してんだ」
アッシュの低く落ち着いた声に、エルフィムはハッとしたように肩を揺らした。だが、視線は月に向けられたまま、どこか遠い声で呟く。
「……少し、夜風に当たりたかっただけです」
その横顔を、アッシュは半眼で見つめた。
王都までの道すがらに抱いた違和感。人造魔法石を買い取るために王都に来いという不自然な条件、尤もらしい理由で急かせた峰越え、そして、時折みせる隠しきれない不安の表情。
アッシュは俯き、左手の手甲の金具を指で弄びながら、静かに口を開いた。
「……そろそろ、本題に入ってもいいんじゃねえか?」
エルフィムの背中が、ぴたりと固まる。
「人造魔法石の調査なら、魔導師団に任せりゃ済む話だって言ってたはずだ。……だが、もう調査どころの騒ぎじゃ済まないところまで来ちまってんじゃねーのか?」
隠していた底意──甘さも、あざとさも、その鋭い眼光にすべて暴かれた思いだった。
唇は細かく震え、眼鏡の奥の瞳には隠しきれない動揺と自責が満ちている。
彼女は震える両手を胸の前で強く握りしめ、溢れ出そうになる感情を抑え込むように、固く目を閉じた。
王都を、民草の命を脅かすもの──。
そして、その唇から小さくこぼれ落ちたのは、かつてこの国を影で支え、そして闇に消えた部隊の唱文であった。
「……『我ら、王都に仇なす一切の厄災とならん』……」
手甲を弄んでいたアッシュの指先が、ぴたりと止まる。
伏せられていた彼の目元がゆるやかに持ち上がり、その切れ上がった瞳が、月光の中で凄絶な冷たさを帯びてエルフィムを射抜いた。わずかに細められた眼光には、思いもよらぬ言葉を向けられた驚きと、封印していた過去を抉られた暗い鋭利さが揺らめいていた。
「アッシュさん……! 王都を……王都を救ってください!」
エルフィムはなりふり構わず、すがるようにアッシュの革鎧の袖を固く掴んだ。その瞳には、切迫した真実と、抱えきれなくなった恐怖が溢れ出していた。
だが、アッシュは掴まれた腕を引くこともなく、ただ冷ややかな目で見下ろすだけだった。
「『厄災の手』は、ユノーの手だ」
アッシュの口から出た先王の名。
「……主無き手に、今更できることなんざねぇよ」
自嘲気味な吐息とともに、アッシュは視線を夜空へ逃がした。
ユノーがこの世を去り、部隊が闇に消えたあの日──。ユノーの『穢れた手』としての役目もまた、終わったはずだった。
役目を嫌っていたわけではない。ユノーの抱いた青く尊い夢のために振るった剣。その果てに左手へ刻まれた、焼けつくような、どこか愛おしさすら覚える痛みだけを抱え、ただの気ままな傭兵として生きる。
それこそが、彼が自分自身に引いた唯一の線引きだったのだ。
主亡き今、一体誰が為に牙を剥けというのか。
だが──エルフィムは袖を掴む手に、さらに強く力を込めた。
「確かに……確かにユノー様は亡くなられました! もうおられません!」
涙の膜が張った瞳で、彼女は真っ直ぐにアッシュの瞳を射抜いた。
「でも、アッシュさん……! あなたは、いま、ここに居ます!」
感情を爆発させるエルフィムの言葉が、夜の静寂を切り裂く。
「このままでは……このままでは、ユノー様が命をかけて守り、愛したこの国が……そこに生きる民草たちが……!」
悲痛な声が夜風に散っていく。
だが、アッシュの冷ややかな眼差しは、揺らぎひとつ見せなかった。
ユノーの名を出されても微動だにしない。熱も、揺らぎも、拒絶すらもない──ただ自らの引き直した線を越えさせまいと叩きつけられる、圧倒的な冷気。
その瞳に映る己の姿を見た瞬間、エルフィムはハッと息を呑んだ。
掴んでいた袖から、指がゆっくりと離れていく。 彼女は溢れそうになる涙をぐっと奥へ押し込めると、すっと背筋を伸ばし、直視した。
「……分かりました、アッシュさん」
先ほどまでの湿り気は、もう声にない。 エルフィムは正面からアッシュの瞳を射抜き、言い放った。
「あなたを……雇わせてください」
「……何?」
「私からの依頼として受け取ってください。感情や過去のためではありません。仕事として……私に、あなたの剣を貸してください。──ただの、放浪の傭兵として」
静寂が落ちた。
吹き抜ける夜風の音と、はるか下に広がる街並みの暗がりが、二人を包み込む。
仄かに照らす月光が、わずかに口元を歪めたアッシュの、己の境遇を嘲るような笑みに影を落とす。
そして、エルフィムの覚悟を見定めるように──眼鏡の奥、濡れた瞳の奥底まで射抜くように、その視線を据えた。
闇が、深くなりつつあった。




