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傭兵放浪譚ASH  作者: 悪食兵衛武丸


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第四章 軋む車輪は徒歩より重く

青が、落ちてくる。


抜けるような蒼空を鋭く削り取るように、巨大な岩肌がそびえ立っていた。


冷ややかな大気のなか、陽の光だけが容赦なく降り注ぐ。


未だ溶けぬ残り雪が、黒ずんだ岩肌の皺に白くへばりついていた。


疎らに生える針葉樹は低く折れ曲がり、薄まる空気に命の気配は薄い。


ざれ、と小石が滑落する。


足を運ぶたび、吐息が白く乱れた。


散りばめられた小石のなかに、うっすらと残る踏み均された跡。


尾根に向かって細く伸びるその一筋だけが、かろうじてここがかつての山道であった面影を残している。


一歩。


また、一歩。


重い靴底が岩を噛む音が、薄い空気を揺らす。


あがる吐息。焼けるような喉の渇き。


腰の革袋から水を引き抜き、含み、喉の奥へ流し込む。だが、渇きはすぐに唇を侵した。


歩む四人の足取りが、じわりと重くなる。


それを見かねたように、歩調を緩めた者がいた。


エルフィムである。


彼女は深く息を吸い込むと、小さな呟きのような詠唱とともに、手にしていた杖をそっとかざした。


風が、微かに唸る。


四人の周りに、山嶺の清冽な大気が急激に集い始める。


澄んだ大気が円を描き、目に見えぬ球体のように四人を優しく包み込んだ。


「……ふ」


アッシュの喉から、漏れるような息が吐き出された。


肺を満たす圧力が、一瞬で変わる。


荒立っていた呼吸が急速に静まり、喉を灼いていた渇きが、湿り気を帯びた空気によってじわじわと解けていく。


「ふぅ……助かるぜ」


アッシュが呟くと、エルフィムは杖を胸元に寄せ、少しだけ誇らしげに、けれど気負いのない笑みを浮かべた。


大気の球体に守られ、四人は静かな歩みを進める。


ざっ、ざっ、と足底が踏みしめる岩の感触だけが規則正しく響く。


先ほどまで喉を焼いていた苛烈な乾きが嘘のように、快適な息遣いのまま、一行はぐんぐんと高度を稼いでいった。


傾斜は増し、道はさらに細くなる。


シェ・ダライの巨躯が岩を叩く重い足音。


一切の無駄を削ぎ落とした、リッカの規則正しい足踏み。


それらすべてが、大気の球体の中で静かに巡っていた。


どれほど登っただろうか。


不意に、頭上を遮っていた巨大な岩壁の影が薄れる。


視界を塞ぐ壁が、斜め前へと逃げていく。


最後の大きな岩を一つ、足で蹴るようにして踏み越えた、その瞬間──


視界が、一気に開けた。


立ち塞がっていた岩壁が途切れ、足元から世界が一望のもとに広がっている。


尾根に出たのだ。


「……へっ、やっと抜けたか」


アッシュが背嚢を肩から少し浮かせ、肩をすくめながら吐息を漏らす。


振り返れば、登ってきた荒々しい岩肌と、はるか下層に小さく霞む山裾の村。


そして眼下──これから進むべき北側の斜面が、牙を剥くように横たわっていた。


登りよりも、さらに急峻。


切り立った断崖の腹を細く縫うように、頼りない崖道が九十九折りに落ち込んでいる。一歩足を踏み外せば、そのまま雲の下まで滑落する死の道だ。


「……おいおい、登りより酷いじゃねぇか。膝を笑わせに来てやがる」


アッシュの軽口に、リッカは苦笑すら見せず、無言のまま深く頷いた。


「ああ。焦りは落石と滑落を呼ぶ。……あそこで少し身体を休めるぞ。尾根を越えれば風の通り道も変わる」


リッカが指し示したのは、尾根の少し開けた場所にぽつりと残る、石造りの避難小屋跡だった。


かつて、ここが唯一の山越えの道であった頃の名残だろう。決して大層な賑わいがあったわけではない。ただ、過酷な嶺を行き交う数少ない旅人に、幾許かの安息を与えるためのささやかな休息所だったはずだ。


いまや屋根は風雨に晒されて吹き飛び、壁も崩れて久しい。だが、積み上げられた分厚い石積みだけは今も力強く残り、尾根を吹き抜ける苛烈な高山風を遮るには十分だった。


四人はその石壁の陰へと足を踏み入れ、身を寄せ合うようにして腰を下ろした。


エルフィムが展開していた大気の球体が、ふっと薄い霧のように消えていく。


その途端、隙間風が衣服を小さく撫でたが、魔法のおかげで体力を削られずに済んだ四人の表情には、まだ余裕があった。


「感謝するぜ、ビショップ様様だな」


アッシュは腰の革袋から一口だけ水を含んで喉を鳴らすと、それをエルフィムへ向けて無造作に放り投げた。


「ひゃっ……!」


突然のパスに、エルフィムは慌てて両手を伸ばし、咄嗟に胸元で抱きかかえるようにして受け止めた。


ぽん、と重い水袋を受け止めた衝撃に、わずかにずれた眼鏡を指先で押し上げる。


彼女は平静を取り戻すと、小さな誇らしさを込めた笑みを浮かべた。


すまし顔を取り戻そうとしながらも、頬をゆるませて水袋の口を開ける。


その様子を横目で確かめたアッシュは、微かに口元を歪めると、そのまま冷たい石壁に背を預けた。


言葉はなくとも通じ合う、静かな空気。


その横では、シェ・ダライが言葉もなく背嚢から干し肉を取り出し、無骨な指先で引きちぎって口へ運んでいた。噛み締めるたび、彼の顎の筋肉が強く収縮する。


朽ち果ててなお、僅かな旅人にひとときの安息をもたらす石の廃墟の中。


沈黙の休息。だが、誰もが次の「下り」に向け、静かに感覚を研ぎ澄ませていた。


半刻ほどが、過ぎた。


「……そろそろ、行くか」


アッシュが膝をパンと打ち、立ち上がる。


背嚢を背負い直す。


四人は、言葉を交わさぬ。ただ互いに頷き、冷たい風が吹き抜ける石組みの廃墟を後にした。


ここからは、「下り」である。


登りとは、質の異なる過酷さであった。


山を下りるという行為は、自らの体重と荷の重さを、刃に変えて膝関節の奥へ叩きつけ続ける拷問に等しい。


崖の腹を削るように伸びる九十九折りの道は、どこまでも頼りなく、細かった。


つま先を靴底に押しつけられる激痛。


関節が踏みとどまるたび、骨の奥でぎしりと嫌な軋みが走る。


ざざっ。


足元で脆い砂利が崩れる。


一瞬、体が宙に浮くような恐怖。視線の先で、小石の群れがはるか下の雲間へとどこまでも落ちていく。


滑落=即死。


その事実が、逃げ場のないプレッシャーとなって脳裏を焼き打つ。


一歩の油断も許されぬ緊張感が、体力を上回る速さで神経を苛み、すり減らしていく。


視界に映る景色が、まるで変わらない。


幾度曲がり角を折れ、膝の痛みに耐えかねて腰を落としかけても、目的地であるはずの山裾は遥か遠く、雲の彼方に煙ったままであった。


距離が、縮まらない。


時間の感覚さえもが、過剰な集中の中で伸びきり、永遠のように引き延ばされていく。


太陽が傾き、山々の影がゆっくりと伸びてゆく。


ただ神経を削り取られるような苦闘の時間が、じりじりと過ぎていった。


どれほどの刻を費やしたろうか。


不意に、視界を圧迫し続けていた右手の岩壁が途切れた。


「……ん?」


先頭を行くアッシュが足を止め、擦り切れた吐息とともに山の中腹へ視線の先を落とした。


長い苦闘の末、街道が平原へと溶け込むその手前。


濃い緑の中に、小さな集落と、それに隣接する駐屯地が小さく見えた。


「あれか。あともう少しってとくだな」


アッシュが呟く。張り詰めていた神経が、わずかに弛緩する。


一行はそのまま残りの九十九折を下り、山裾の駐屯地へと足を早めていった。


だが──


距離を詰めるにつれ、何かがおかしかった。


駐屯地の外壁が間近に迫る。


本来であれば、見張り台に兵の姿があるはずであった。


定期的に交替し、街道を監視しているはずの兵士が見当たらぬ。


強固な石造りの外壁。


王都の紋章が刻まれた標識旗は、山風に吹かれて、ただ寂しげにたなびいている。


跳ね橋の目前まで来て、アッシュは足を取り直した。


堅牢な木門が開け放たれたままであった。


門の奥──敷地の影に人の気配はある。気配はあるのだ。


だが、兵室の窓からも、見張り台からも、監視の視線ひとつ送られてはこない。


静まり返っている。


ただ事ではない雰囲気が、そこには満ちていた。


「……静かすぎるな」


胸騒ぎが、四人の背を叩いた。


腰の獲物に手をかけ、四人は開いたままの門をくぐり抜けた。


門をくぐった時、そこに広がっていたのは、異様な光景であった。


建造物は無事である。石壁も、兵舎も、何一つ壊れてはいない。


だが、その敷地の中であった。


重傷を負った警備兵たちが、あちこちで背を丸め、地面に倒れ伏している。


呻いていた。痛みに耐えかねた低い声が、地面を這っている。


荒い息。


刺すような、濃密な血の匂い。


それに混じる、手当て用の消毒薬の臭気。


「……酷ぇな。建物はピンピンしてんのに、中の連中は全滅一歩手前じゃねぇか」


アッシュが吐き捨てるように呟いた。


兵士たちの鎧を切り裂き、肉を削いでいるのは、刃物による傷ではない。


巨大な爪。あるいは、太い牙。


化け物の痕であった。


そこへ、一人の男が歩み寄ってきた。


腕に布を固く巻きつけた兵士長らしき男である。痛みに顔を歪めながら、一歩、一歩と歩んでくる。


男の目が、ふとリッカを捉えた。


見開かれる。


「……ッ、リッカ殿!? なぜ、このような場所に……」


「何があった」


リッカの声は静かであった。


兵士長は痛みに耐兼ねるように固く息を詰め、胸元の装具を握りしめながら、途切れ途切れに言葉を繋いだ。


「は……三日前にございます。近くの銀鉱山の奥にて、突如、見たこともない巨大な化け物が姿を現しました。四つ足の狼のような躯に、ぬらぬらと涎を垂らし……低い唸りで坑道を塞いだのです。知らせを受け、我ら山岳警備の総力を挙げ、死闘の末に何とか討ち果たしました。ですが……」


息を荒く吐き出し、言葉を詰まらせる。


「息絶えた化け物は、まるで泥のようにドロドロと崩れ去りました。……そうしたら、その影から臙脂色の長袍を纏った不気味な者が姿を現しまして……。泥の中から何かを拾い上げると、こちらを恨めしそうに睨みつけ、そのまま暗闇の奥へ消え去ったのです」


息を荒く吐き出し、言葉を詰まらせる兵士長の報告を、リッカは静かに受け止める。


「狼の化け物……。そうか、よく無事で踏みとどまった」


リッカは深く頷き、短くその武功をたたえた。


「は……っ。すでに昨日、事態の顛末と救護の手配について、王都へ伝令を向かわせました。ゆえに我らは……ここで待機を……」


「判った。無理に喋る必要はない、体を休めるといい」


兵士長が安堵と恐縮の混じった顔で頭を下げると、後ろで腕を組んでいたアッシュが、小さく息を吐き出した。


「なんだぁ? 泥みてぇに崩れたって、樹海の時とおなじじゃねえか。最近の流行りか?」


アッシュは眉をひそめて呟くと、隣に立つシェダへちらりと視線を送る。


シェダは何も言わず、ただ固い面持ちのまま、静かに一度だけ顎を引いた。


そのやり取りの傍らで、エルフィムの息がひやりと止まった。


血の気が引いた顔が、羊皮紙のごとく蒼白に変わる。


そして、何かを言いかけようとしたが、喉の奥で必死に押し殺すと、彼女は唇を固く結んだ。


「……手当てを、させてください」


静寂を破ったのは、エルフィムの声であった。


彼女はすまし顔を取り戻そうと拳を強く握り締め、救護所へ向かって駆け出した。


怪我人は多すぎる。小さな手ひとつでは、とても足りぬ。


シェ・ダライも巨躯を動かした。言葉はなくとも、自力で動けぬ怪我人を担ぎ上げ、混乱する現場を静かに支えていった。


事態が落ち着く頃には、陽はすでに西の峰へと沈んでいた。


一行は、駐屯地に隣接する村の小さな宿に身を寄せた。


王都への足となる軍用馬車は、リッカの手配により、明朝、駐屯地から出されることで話がついた。


その夜。


階下の食堂には、山から下りてきた四人のために、ささやかな食事の席が用意されていた。


山の麓の村とは、供される料理が違っていた。


木皿に盛られていたのは、肉である。


このあたりの深い森で仕留められたという、山獣の腿肉であった。


大ぶりに切り分けられた肉塊を、荒々しく火で炙り、粗塩と山野草の種子を砕いた香辛料だけを叩きつけただけの、手の込んだものとは言えない粗野な料理だ。


だが──


引き締まった肉に歯を立てると、じわりと強い脂が染み出してくる。


家畜の肉にはない、獣特有の濃い匂い。山の草木を食んで育った命の、荒々しい野性味であった。


肉の繊維を噛み千切り、喉の奥へ押し込む。


その独特の臭みごと呑み下すたび、冷え切り、削がれた全身の細胞へ、じんわりと山の滋養が染み渡っていく感覚があった。


生きるための肉であった。


アッシュは、無造作に置かれた木製の杯に、赤黒いぶどう酒をなみなみと注いだ。


山で獲れたぶどうを、皮ごと雑に発酵させただけの安酒である。


だが、酸味の強いその汁を喉へ流し込むと、口の中に残っていた獣の重い脂と臭みが、驚くほど綺麗に洗い流された。


ぶどう酒の強い酸が、荒々しい肉の旨味をさらに深く引き立てる。


「……ふう。やっぱり下界の肉と酒は身体に効くな」


アッシュが木杯をテーブルに叩きつけるように置き、満足げに息を吐いた。


「しかし、あの鉱山の獣の話……結局何だったんだろうな。臙脂色の服を着た奴が現れて消えた、なんてよ」


アッシュが言った。肉を骨ごとしゃぶりながらの、軽い問いであった。


だが、リッカは杯に口をつけたままであった。


「妙だな。お前が出くわした、空飛ぶ巨大な異形の最期と状況が酷似している。だが……獣はすでに討ち取られ、首謀者らしき長袍の者も姿を消した。伝令も王都へ向かっているのであれば、我らが手を出す領分ではない」


リッカの声は平坦であった。


自分たちに与えられた密勅は、あくまで「樹海の怪異」に対する討伐と調査である。その標的がアッシュによって片付き、ミネア王が懸念していた人造魔法石を手にした時点で、彼女たちの任務はすでに終わりを迎えていた。


銀鉱山を襲った獣は同じ輪郭の怪異とうかがえるが、討伐は果たされ、管轄の兵から王都へ伝令も走っている。密勅を負っている以上、管轄外の事案に今さら首を突っ込む理由はどこにもなかった。


アッシュも「そりゃそうだな」と鼻で笑い、それ以上その話を追おうとはしなかった。


だが──


その輪の中で、エルフィムだけが違っていた。


彼女の手に握られた木匙は、スープの皿をなぞるだけで、ほとんど動いていなかった。


大ぶりに切られた山獣の肉にも、一口つけただけで、手を伸ばしようとしない。


視線は、木目の中に落ちていた。


神妙な……いや、胸の奥を硬い氷で固められたかのような、重い沈黙が彼女を包んでいる。


アッシュがちらりと視線を向けたが、野暮な口を差し挟むことはしなかった。


傭兵は、他人の胸の内に深踏みはしない。


食事が終わると、四人は静かにそれぞれの部屋へと戻った。


火鉢の炭が、小さく爆ぜる。


疲れ果てたアッシュとシェ・ダライは、横になるやいなや静かな寝息を立て始めた。


リッカは壁に背を預け、腕を組んだまま深く目を閉じている。


だが、エルフィムだけは眠れずにいた。


毛布を引き上げ、暗がりの中で己の指先を見つめる。


胸の奥に揺らめく、いくつかの疑念。


それらが解けぬまま静かに重なり、望みもしないひとつの形へと繋がっていこうとする。


打ち消そうとすればするほど、冷たい不安が輪郭を増していった。


彼女は静かに目を閉じ、訪れぬ眠りを待ち続けた。


翌朝。


山嶺を包む朝靄を切り裂くように、一台の軍用馬車が姿を現した。


冷たい朝気が、四人の頬を撫でる。


一行は言葉少なく馬車へ乗り込んだ。御者が鞭を鳴らす。


重い車輪が、ガラガラと音を立てて転がり始めた。


坂を下りきる頃、霧が晴れた。


はるか北の平原が一望できる。


その中央に鎮座する、太古の神樹を切り落とした痕のごとき城郭都市──王都の影が、朝日に照らされて薄っすらと浮かび上がっていた。


不穏な予感を孕んだまま、四人を乗せた馬車は、王都へと続く平坦な街道を疾駆していった。


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