第三章 雪解けぬ峰に臨む
山裾の小さな村に着く頃には、空の茜色もすっかり削ぎ落とされ、夜の冷気が足元から静かに這い登ってきていた。
あてにしていた宿屋は、ただ地にへばりつくように建つ木賃宿で、他に乗客の姿もない。寂れてはいたが、静かではあった。
あてがわれた夕食も、驚くほど質素なものだった。
赤く煮込まれたトマトと豆のスープ。
粗く挽いた堅い麦パン。
手に残る、削ったチーズの酸っぱい匂い。
肉もなければ、華やかな香辛料もない。大人の男の胃袋を満たすには些か物足りない献立だったが──
(……味がする)
熱いスープにパンを浸し、口へ運んだアッシュは、静かに噛みしめた。
酸味が弾け、豆の素朴な甘みが広がる。そこにチーズの塩気が重なる。
華やかさとは無縁の、素朴で力強い味覚。それがじわじわと、疲れ切った胃の腑を温めていく。あてのない無宿者の傭兵にとって、生きていることを確かめるには、これで十分だった。
向かいでは、リッカが未だ兜を傍らに置いたまま、厳しい眼差しを崩さずにスープを口へ運んでいる。手元を狂わせることもなく、無駄のない動作で黙々と匙を動かす姿には、いかにも熟練の武人らしい緊張感が漂っていた。
一方、巨躯を持て余すように薄暗い壁側に座るシェ・ダライは、酒には一切手をつけず、水杯を小さく傾けている。あの咆哮のような腹の虫を静めるように、静かに、だが確実に皿の豆とパンを胃袋へ収めていた。
会話らしい会話はない。カトラリーが木皿を叩く微かな音と、薪のはじける音だけが、薄暗い食堂を満たしている。
「ふう……」
木のジョッキに注がれた麦酒を喉へ流し込み、アッシュが小さく息を吐く。
喉を穿つ苦みとともに、一日馬車に揺られて張り詰めていた空気が、ゆっくりと解けていった。
ふと見れば、エルフィムが満面の笑みを浮かべている。
彼女が大事そうに手にしていたのは、焦がした麦粉にたっぷりのバターと砂糖を練り込んだ、この地方の粗野な菓子だった。
サク、と小さな音を立てて一口噛みしめるたび、香ばしい麦と甘い油脂の匂いが漂う。
普段の淑やかな聖職者のすまし顔はどこへやら、ただの少女のように頬をゆるませ、心底うれしそうに味わっていた。
互いに多くは語らない。
けれど、ただ同じ時間を分け合い、静かに空腹を満たしていく。
──ふと、胸の奥をかすめるものがあった。
言葉を交わさずとも成立するこの沈黙に、アッシュは一瞬、かつての「懐かしさ」を覚えてしまう。
だが──次の瞬間、その甘さを打ち消すように苦い顔を浮かべると、吐息とともに窓の外へ視線の軸を逸らした。
振り返る資格など無いことを、自分に言い聞かせるように。
漆黒の闇の中、山の冷たい夜風が、静かに宿の軒先を撫でていた。
◇
ひとしきり腹を満たすと、匙を置いたリッカが腕を組み、静かに一同を見渡した。
「……明日は過酷な一日になるぞ」
その声に、ジョッキを傾けていたアッシュが視線だけを向ける。
「峰を迂回するなだらかな街道を使えば、馬車のまま国境へ向かえる。私たちがこの村へ来る際に使ったのもその道だ。……だが、それを使えばさらに丸二日の日数がかかる」
リッカは言葉を区切り、隣で大人しく控えるエルフィムへ一瞬だけ視線をやった。
「本来なら安全な迂回路をとるべきだったが……お前の貴重な時間を無駄に縛り付けたくないという、エルフィムの提案でな。早く報酬を支払って解放するためにも、一日でも早く王都へ近づくべきだということだ」
「へっ……ご親切なこった」
アッシュが気怠げに肩をすくめると、エルフィムは申し訳なさそうに、けれどどこか健気に胸の前で小さな手を握りしめ、静かに深々と頭を下げた。
「……まあ、だらだらと馬車に揺られるのが延びるよりはマシだがね。で、その最短ルートってのが?」
「中腹の崩落跡までは馬車で行ける。だがそこから先は馬車を捨て、険しい断崖を徒歩で越えることになる。荷物は最小限に切り詰め、自分の脚で登る覚覚をしておけ」
「ちょ、徒歩で峰越えかよ……いくら近道とは言え、だりぃな……」
「安心しろ。峰を越えた先、中腹の山村近くには『山岳警備駐屯地』がある。そこまで辿り着けば軍の手配で新たな馬車を調達できる。そこからは再び馬車で一気に王都を目指す。……文句を言っても道は平らにならん。今日は早く体を休める。──亭主、明日の分の干し肉とパンを用意しておいてくれ。水袋の補充も頼む」
手際よく指示を終えると、リッカは己の荷物を取り上げ、迷わず奥の階段へと向かった。そのあとにエルフィムが当然のように続く。
残されたアッシュとシェ・ダライは、顔を見合わせるまでもなく、それぞれの背嚢を担いで二人の後を追った。
あてがわれた部屋は二部屋。
女二人と男二人。言葉で確かめるまでもなく、リッカとエルフィムが手前の木戸をくぐり、アッシュとシェ・ダライはその隣の部屋へと吸い込まれていく。
ギシギシと鳴る薄暗い廊下に、二つの扉が閉まる重苦しい音が相次いで響いた。
リッカたちの部屋に入ると、エルフィムは静かに扉を閉めた。
部屋の中は、山特有の湿気を帯びた古い木と、乾いた羊毛の匂いが満ちていた。
調度品といえば、煤けた燭台が一つ載るだけの小さな丸卓と、荷物置きを兼ねた歪な木箱、そして片隅に斜めに立てかけられた、銀の裏打ちが剥げかけた姿見があるばかりだ。敷かれた二つの羊毛布団は素っ気なく、余計な飾りなど一切ない。
どこか冷え冷えとしたその室内に、エルフィムは申し訳なさそうに視線を落とすると、布団の端へ小さく腰を下ろし、ぎゅっと衣服の裾を握りしめた。
リッカは無言のまま、小脇に抱えてきた兜を歪な木箱へ置いた。
首周りの装甲を緩め、ふうと小さく息をつく。長時間の圧迫から解放されたように、編み込まれたブロンドが肩口で軽く揺れた。愛用の長槍を壁際へ立てかけ、胸当ての小さな金属音を擦らせながら窓辺へと歩み寄る。
暗がりの中で、揺れる燭台の小さな炎が、彼女の横顔を淡く浮かび上がらせていた。
「……ねぇ、リッカ」
「なんだ、エルフィム」
振り返らぬまま、短く応じる。
「……怒ってる? 私が、勝手にアッシュさんを連れて行くって言ったこと……」
先ほどまでの固い面持ちを思い返し、エルフィムは自分が軽率だったのではないかと胸を痛めていた。
だが、リッカは深く、長い吐息を漏らすと、ゆるやかに首を横に振った。
「違う。……お前の判断を怒っているんじゃない」
リッカは窓枠に手をかけ、暗闇の山並みをじっと見つめた。その背中は、どこか硬く強ばっている。
「……あいつは、数年も私たちの前から勝手に姿を消した男だ。再び会えたなら、その喉元に槍を突き刺してやろうと、ずっとそう思っていた」
静かな声の奥に、滲み出るような感情が揺れていた。
「それなのに……いざ相乗りしてみれば、まるで昨日まで一緒に旅をしていたかのように、当たり前のようにそこにいる。……そんな自分たちの空気に、そしてどこかで安堵してしまっている自分自身に、私は苛立っているんだ……」
吐き捨てるようなリッカの言葉。
部屋を支配するのは、夜風が建付けの悪い窓を揺らす音だけだ。
怒りではなく、捨てきれない情念と戸惑い。リッカが誰よりもアッシュの不在に傷つき、そして今も彼を重く思っていることが、その横顔から痛いほど伝わってきた。
エルフィムはリッカの後ろ姿を見つめると、ただ一言、小さく言葉を落とした。
「……うん」
波風立つリッカの胸を、優しく抱きしめるようなエルフィムの声。
リッカはそれ以上、何も語らなかった。
ただ、その短い頷きに救われたかのように、強ばっていた肩の力がほんの少しだけ抜けていった。
◇
一方、隣の部屋──。
荷物を床へドサリと放り投げ、アッシュは倒れ込むようにベッドへ身を投げ出していた。ギィ、と古びたスプリングが鈍い音を立てる。
「……ふぅ」
腕を額の上にのせ、天井の木目を睨むアッシュ。
向かいのベッドには、巨躯を持て余すようにしてシェ・ダライが腰を下ろした。沈み込む床板。静けさの中で、男は閉じた目を薄く開け、低くボソッと呟いた。
「……居心地が悪そうだな」
アッシュは額にのせた腕をどけることなく、小さく鼻を鳴らした。
「ハッ、察してくれてありがとよ。……昔馴染みってのは、どうにもケツの収まりが悪くていけねぇ」
いつもの調子で軽口を叩き、煙に巻こうとする。
だが、シェ・ダライはそのおどけを受け流し、静かに深く言葉を落とした。
「……そうなることが、最善だったのであろう」
「……」
アッシュの言葉が止まった。
問い詰めるでもなく、かばうでもない。ただ、アッシュが背負ってきた選択の重みそのものを、短く肯定するような響き。
アッシュはゆっくりと額から腕を外した。
フッ、と苦笑を交えてシェ・ダライを一瞬だけ見やると、何も言わずにくるりと壁側へ背を向け、横になった。
シェ・ダライもまた、追及するように言葉を重ねることはしない。ただ静かに目を閉じ、壁に大きな背を預けた。
言葉はそれで途切れた。
更け行く夜は虫の音を響かせ、静かに山越えの朝を待ち続けていた。
◇
朝の光は、青白い冷気とともに山裾の村を包み込んでいた。
宿の亭主から受け取った包み――硬く焼き上げた干し肉、日持ちのする黒パン、そして満杯の革水袋。それらを各自の背嚢へと振り分け、四人は再び馬車へ乗り込む。
「出立する」
御者席に座る男が手綱を叩くと、馬の荒い吐息とともに車輪が回転を始めた。
村を抜けると、街道は急激にその傾斜を増していく。
平地の整った石畳は疾くに消え去り、むき出しの岩や擦り減った丸太が不規則に突き出す、荒々しい山道だ。
ガタガタと車体が激しく揺れる。
木製の車輪が岩を噛み、軸受けが悲鳴のような軋み声を上げるたび、車内の四人の体が小さく跳ねた。
窓枠の隙間から滑り込んでくる風は、刻一刻と冷たさと重みを増していた。濡れた土と、針葉樹の青く鋭い匂い。
「……冷えてきたな」
アッシュが首元を掠める風に身を縮め、吐息を白く染める。
向かいに座るリッカは、揺れに一切姿勢を崩すことなく、膝の上に置いた長槍の石突きをじっと見つめていた。その整った側顔は、硬い鋳物のように微動だにしない。
ただ、その手が不意に、腰元の水袋の留め具へ伸びた。
無言のまま留め具を外し、喉を潤すでもなく、ただ革の質感を確認するように指先で撫でる。
(……相変わらずだな)
その所作を目で追ったアッシュは、微かに口元を歪めた。
長旅の途中、集中が途切れそうになると、リッカは決まって武具や小物の調子を確かめる癖があった。昔と何も変わっていない。時が止まったかのような既視感が、胸の奥に苦く、重く広がっていく。
かつて、これよりもさらに険しい山嶺を、二人で越えたことがあった。
猛吹雪の中、視界を奪われ、互いの足音と吐息だけを頼りに一歩一歩を進めた夜。かじかむ指先で剣を握り直し、背中を預け合って寒さと魔物に耐えた、あの過酷な旅路。
あの頃のリッカも、何かにつけてアッシュの屈折した言動に眉をひそめ、真っ直ぐすぎる気質ゆえに正面から喰ってかかってきていた。まともな理屈を叩きつけてくるリッカと、それを適当な軽口でかわすアッシュ。いつも衝突ばかりしていた。
(……だが、いまは違う)
たとえ昔のように喰ってかかってこようとも、いまのリッカには、ユノー崩御という暗雲のなかで王都を背負い続けてきた武人の貌がある。
逞しく、そしてどこか哀しく成熟したその横顔が、二人の間に流れた時間の長さを物語っていた。
アッシュはそれ以上昔日を追うのをやめ、意識を車外の音へと向けた。
蹄が石を打ち鳴らすタタタという連続音。
御者が馬を宥める短い掛け声。
そして、木々の間を吹き抜ける、不気味なほど鋭い風の唸り声。
隣のシェ・ダライは、大きな体を揺れに預けながら、静かに目を閉じている。一見すると眠っているかのようだが、その太い腕は、傍らに立てかけた布巻きの重剣から離れていなかった。
エルフィムは膝の上で小さな聖典を握りしめ、揺れに耐えながら、窓の外へ流れていく深い緑を見つめていた。その横顔には、不安よりもどこか澄んだ覚覚のようなものが漂っている。
言葉は途絶えていた。
けれど、その沈黙は昨日のような刺々しいものではなく、過酷な山へ挑む者たちが共有する、静かな緊張感へと変質していた。
坂はどこまでも急になっていく。
木々の隙間から見下ろす下界の景色はみるみるうちに小さくなり、代わりに灰色の雲が垂れ込める荒涼とした峰々が、眼前に大きく立ちはだかり始めていた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
ゴトン、という重い衝撃とともに、馬車が激しく揺れて前傾した。
馬の甲高いいななきが響き、車輪の回転が泥を噛むように急減速する。
「……おい、どうした」
アッシュが窓から顔を出す前に、御者席から引き結んだ声が届いた。
「……ここまでだ。これ以上は馬を殺すことになる」
御者の言葉に、四人は顔を見合わせ、静かに車外へと降り立った。
足を踏み降ろした途端、薄い空気を孕んだ苛烈な山風が、四人の頬を刺すように叩いた。
目の前に広がっていたのは、街道と呼ぶにはあまりに崩壊した光景だった。
数年前の大規模な山崩れによるものだろう。巨大な岩塊がなだれ落ち、かつての道は崖底へと押し流されていた。残されているのは、切り立った岩肌と、人間が一人抜けるのがやっとの、心許ない獣道のような足場だけだ。
馬車はおろか、馬を引いて渡ることすら不可能な断崖絶壁。
「御者殿、世話になった。ここでいい」
リッカが素早く銀貨を御者に手渡し、背嚢の紐を強く引き締めた。
長槍の柄をぎゅっと握り直すと、立ちふさがる険しい峰を見上げる。その瞳には、すでに迷いはなかった。
「ここからは自分たちの足だ。……行くぞ」
アッシュもまた背嚢を担ぎ直し、足元の頼りない岩場を踏みしめた。
横には静かに呼吸を整えるシェ・ダライ、そして視線を鋭くするエルフィム。
馬車という守りをもぎ取られた四人は、吹き荒れる冷たい風の中、岩肌の先にある王都を目指し、一歩を踏み出した。




