第二章 撫ぜる不穏は麦穂を揺らして
夜深まる王城──その一角に位置する、重厚な石造りの元老院会議室。
昼間は重臣たちが威厳を競い合う広い円卓の部屋も、今は燭台の明かりがぽつりと落ちるのみで、暗闇に飲み込まれそうに静まり返っていた。
その重々しい静寂の中、深く皺の刻まれた顔を寄せる三人の陰があった。飾り気こそないが、厳かな深緑の長袍を纏う老臣たち。
ひとりの老臣が、枯れ枝のように痩せこけた指先で卓上の重厚な木目をそっとなでながら、その口をひらいた。
「……ミネア様がリッカとエルフィムを下したという『国境付近の哨戒任務』……。やはり、何やら臭うな……」
「ただの辺境の警戒に、インペリアルガードの2人を送り込むなどあり得ん。……勘の鋭いミネア様のことだ、あの噂に自ら動かれたのではあるまいな」
「『人造魔法石』……か」
対面に座るもう一人が重々しく受けて呟くと、老頭たちの眼光が陰影の中で爛々と光った。
「不吉な……。人の手で強引に精製された人造魔法石など、いずれあの『負の遺産』へと辿り着く凶兆でしかない」
「……まさか、どこぞの不届き者が模倣を試みているのではあるまいな。かつて前王ユノー様が北の果てから持ち帰り……植え付けられた『呪い』を」
「あり得ぬ話ではない。だが、もしもあれほどの『厄災』が量産されるようなことになれば……世界の平穏など一瞬で瓦解する」
それまで沈黙を守っていた三人目の老臣が、低く掠れた声で小さく首を振る。
「懸念すべきはエルフィムだ。あの小娘、普段はどこか抜けたような面構えで聖典を抱えているだけの害のない司祭を気取っておるが……王立魔法学院に眠るすべての術理をその身に修めた才女。もし人造魔法石の調査に関わるようなことになるとすれば……遠からず、ユノー様が犯した過ちの真実に思い至るかもしれん」
「日の目を当ててはならぬのだ。あの禁忌も、秘められた真実も……全ては歴史の闇に埋もれさせるべきもの」
老臣は冷ややかな吐息とともに、深く目を閉じた。
「……もしも事態が触れてはならぬ領域へ踏み込むならば……容赦は不要だ」
──密談の吐息を吸い込むように、燭台の炎が微かに揺れた。
◇
からりとした風が、黄金色の麦穂を撫で揺らしていく。
澄み渡る青空の下、どこまでも続く田園地帯の中央を、一台の乗合馬車が進んでいた。
年月を経て黒ずんだ厚い木板の車体は、未舗装の荒れた街道を進むたび、車軸からきしむ悲鳴を上げる。
乾いた土を蹴る蹄の音と、鉄輪が路面の小石を砕く低音の振動が、果てのない一本道に響いていた。
続く哨戒任務のため、国境付近の村に部隊を駐屯させたリッカとエルフィムが、アッシュ達を連れて王都へ向かったのは、再会の翌朝のことだった。
目指す王都は北西。馬車に揺られて三日の道のり。
初日の宿がある山の麓の村までは、まだしばらく、この長閑な景色が続く。雲一つない空からは高い鳥のさえずりが降り注ぎ、見渡す限りの麦畑が風に波打つ長閑そのものの昼下がり。
しかし──鼻孔をつく青く甘い草の匂いとは対照的に、揺れる馬車の中はなんとも言えない気まずい静寂に包まれていた。
使い込まれた革張りの座席は長年の摩擦で擦り切れ、大人四人が身を寄せるには些か手狭だ。車輪が土道の轍を踏み抜くたびに、車体全体が大きく縦に跳ねる。とりわけ大柄なシェ・ダライは、その巨躯を持て余すように肩をすくめ、窮屈そうに身を縮めて耐えていた。
深々と被る羽根兜の隙間から、一言も発さず鋭い視線を射抜いてくるリッカ。その無言の圧に耐えかねたアッシュは、心底あきれ果てたように深く息を吐き、やれやれと首を横に振った。
「お前さぁ……いつまでそうやって俺のことを睨み続けるわけ? シワが増えんぞ?」
投げられた軽口を黙殺し、尚も睨み続けるリッカ。
「ちぇっ。文句なら、エルフィムに言えっての」
面倒くさそうに、車窓の外に目を逸らすアッシュ。
「まあまあ、リッカもアッシュさんも。せっかくこうして再会できたのですから……」
二人の間に挟まれたエルフィムが、困ったような苦笑いを浮かべながら仲を取り持とうとする。しかし、リッカの兜から発せられる鋭い嫌悪は収まる気配がない。
その隣では、腕を組み目を閉じたシェ・ダライが、我関せずといった体で静かに座していた。激しい車の揺れに大きな身体を預け、ただ存在感を消している。
「……エルフィムの決定にケチをつけるつもりはない」
車輪が鳴らす低音の隙間を縫うように、ようやくリッカの口から絞り出されたのは、低く硬い声だった。
「だがな、アッシュ。お前のその態度の軽さが気にくわんのだ。前王ユノー様が崩御されたあの混乱の最中、何の前触れもなく王都を捨てて姿を消したお前の薄情を……私たちが忘れたとでも思っているのか?」
「……俺がどこへ行こうと、俺の勝手だろ」
「勝手だと!?」
リッカの拳が、膝の上でぎゅっと握りしめられる。兜の影で表情は見えないが、その声には溢れんばかりの感情が籠もっていた。
「勝手で済むと思っているのか! どれだけ捜したと思っている! 遺された私やエルフィムが、どんな思いで……! お前はいつだってそうだ。何も言わず、独りで勝手に背負って、勝手に消える!」
言葉の端々に滲むのは、責め立てる怒り以上に、残された者たちの困惑と悲愴だった。
外からは遠くひばりの鳴き声が聞こえるというのに、車内の空気ばかりが重く沈んでいく。アッシュは反論の言葉を見失い、車窓の向こうへ視線を泳がせるしかなかった。流れていく黄金色の景色の眩しさが、かえって気まずさを際立たせる。
車輪がふたたび大きな石を乗り上げ、車内が大きく揺れた。リッカは一度大きく肩を落として息を吐き出すと、ふと横目でアッシュの隣へと視線を逸らした。
「……チッ」
兜の鋭い視線が、それまで沈黙を貫いていた巨躯へと注がれる。
「ところで、そこの連れは何者だ。自分以外の一切を足手まといのように言うお前が、旅の共を連れているとはな。どんな酔狂だ?」
リッカの疑問に、アッシュがいつもの調子で軽口を返そうと口を開きかけた、そのときだった。
「……従者だ」
車体のきしみと振動を押し潰すように、地底から響くようなシェ・ダライの低い声が唐突に落ちた。
信じ難い言葉に眉をひそめるリッカ。そこにアッシュが、シェ・ダライへ苦々しい視線を向ける。
「従者はやめろって、言ってるだろ?」
低く吐き捨てると、アッシュはそのままリッカの方へと向き直った。
「コイツはシェ・ダライ。旅の途中で立ち寄った森の民の集落で出会ってな、まぁ、色々あって、今じゃ一緒に傭兵稼業を楽しんでる。な? シェダ」
ひそめた眉のままリッカはシェ・ダライに向き直ると、静かに口を開いた。
「……シェ・ダライ。余計なお世話かもしれんが、こいつの気まぐれに付き合うのはやめておけ。ろくな死に方をせんぞ」
兜の奥から吐き捨てられた言葉に、シェ・ダライは小さく鼻を鳴らした。
「……余計なお世話だ」
「何だと?」
眉をひそめるリッカに対し、シェ・ダライは表情一つ変えずに言葉を継ぐ。
「わざわざ王都へ連れていこうとしているお前たちが言う言葉ではない」
あまりに淡々としたカウンターに、リッカはぐうの音も出ず言葉を詰まらせた。
「っ……! 私は別に、こいつと再び連むつもりなど──!」
動揺を隠すように語気を強め、反論しようとしたリッカの肩を、隣のエルフィムがぽんと優しく叩いて制した。
「ふふ、あなたにとってもアッシュさんは大事な仲間なんですね」
エルフィムはシェ・ダライに向かって、花がほころぶような穏やかな微笑みを向ける。
「改めまして。私はエルフィム。そしてこちらがリッカ。王都までの短い間ですが、よろしくお願いしますね」
エルフィムの言葉を受け、シェ・ダライは否定も肯定もせず、ただ静かに目を閉じた。背に回された無骨な重剣の柄に置かれた大きな手が、ゆっくりと力を抜いて離れていく。
「あー……腹減ったなぁ。まだ昼飯食えるような村には着かねぇのか?」
重苦しい雰囲気を完全に放棄するように、アッシュが両腕を頭の後ろで組み、背もたれに深く身を預けた。
「村に着くのは夕方頃の予定です。昼は干し魚で済ませ、また道中の村はどこも小さいので、食事はあまり期待できませんが……ふふ、でも、もう暫くの我慢ですよ、アッシュさん。王都へ着いたら、きっとミネア様が豪華なご馳走でもてなしてくださいますから」
エルフィムの言葉に苦い顔をするアッシュ。
「おいおい冗談だろ、勘弁してくれ。ミネアの顔を見たら俺ぁさっさとズラかるつもりなんだからな。あんなケツの座りの悪い王宮で饗されるくらいなら、まだ樹海で味の無い魚でも喰ってたほうがマシだっつの」
「き、貴様……どこまでもどこまでも身勝手な……!」
呆気らかんと言い放つアッシュと、声を荒げるリッカ。その横でエルフィムは、困ったような苦笑いを浮かべていた。
──その時だった。
飢えた大型の肉食獣が吐き出す唸り声のような重低音が、車内に響いた。
音圧に細かく振れる座席。瞬時に車内が凍りつき、全員の動きがぴたりと止まる。
……近い。
リッカは槍の柄に手をかけたまま硬直し、アッシュもまた、警戒で眼光を鋭くした姿勢のまま完全に固まっていた。
響き続ける唸り声。
その音源を辿るように、全員の視線が、ゆるやかにひとつの点へと集まっていく。
そこには、シェ・ダライの腹があった。
当の巨躯は、腕を組んだ姿勢のまま微動だにしなかった。深く閉ざされていた瞼がわずかに持ち上がり、静まり返った車内に、ぽつりと声が落ちる。
「……宴」
シェ・ダライの腹の虫だった。
「腹の音で人を警戒させるな」
アッシュの低い呟きに、リッカは腰を浮かせかけた体勢のまま脱力し、エルフィムはそっと口元を袖で覆った。
豪華なご馳走という言葉に反応した腹をなだめるようにさすりながら、深く鼻から息を吐き出すシェ・ダライ。
車内の出来事とは対照的に、馬車の外には、どこまでも穏やかな田園風景が広がっていた。揺れる麦の海を茜色が染め上げ、斜陽の光が長い影を地面に引いていく。
初日の宿となる小さな村のシルエットが、山裾の彼方にうっすらと見え始めてきたのは、日がすっかり西へと傾いた頃のことだった。




