第一章 蒼き石にいざなわれ
張りかけの蜘蛛の巣が残る天井。
軋む木椅子に腰を掛けた初老の店主は、片目を細め、その石をしげしげと見つめると、困ったような顔で深い溜息を吐いた。
「んー……とても綺麗な石ではあるがな。なんとも正体の分からんモノに、値は付けられんよ」
昨夜、あの鷲獅子の異形が泥となって消えた後に残った、奇妙な蒼石。
夜が明けて早々、二人が過酷な樹海を抜け、国境近くの村へと辿り着いたのは、太陽が天頂を過ぎ、わずかに西へ傾いた頃だった。
文無し。昼飯どころではない。二人が吸い寄せられるように足を踏み入れのは、村の寂れたよろず道具屋であった。
「出せて銀貨二枚……いや、一枚だな」
店主のあまりの値判に、曲刀の男の目が丸くなった。
「ちょいと待ちねぇ、銀貨一枚だと? こんなに綺麗で、吸い込まれそうな蒼んだぜ。そりゃねぇだろ、おやじ」
喰い下がる曲刀の男と、首を振る店主。
そんな押し問答を余所に、背の丸い窓から静かに外を眺めている男がいた。シェ・ダライである。
麻布を纏わせた、身の丈ほどもある重剣を無造作に背負ったその巨躯は、狭い店内では少々窮屈そうに見える。
村の入口付近が、なにやら騒がしい。長閑な開拓村の空気に、およそそぐわない異質な気配が満ちていた。
騎馬兵、そして独特の法衣を纏った魔導士の一団。それぞれ一個小隊ほどの規模だろうか。物々しい武具の擦れる音が、風に乗って微かに届く。
よそ見を決め込むシェ・ダライの視線を追い、曲刀の男も窓の外へと目をやった。
「ん……? なんだありゃ。王都の兵じゃねぇか。こんな辺境で国境戦でもおっぱじめる気か? 嫌な風が吹いてきやがったな……」
曲刀の男が眉をひそめた、その時だった。
風に翻った騎馬兵の軍旗。そこに描かれた紋章が、男の目に飛び込んできた。
金枠で縁取られた深い青地。そこに鮮やかに浮かび上がる、一双の白翼と貫く銀の槍。
見た瞬間──曲刀の男の顔から、すっと血の気が引いた。
「っ……!」
曲刀の男は店主の手から蒼石をひっ掴むように奪い取ると、旋回するように踵を返した。その足取りは明らかに焦っていた。
シェ・ダライの巨大な胸元へ寄ると、低く殺気立った声で囁く。
「シェダ、予定変更だ。この村を出る。北東の村へ向かうぞ」
あまりに唐突な翻意に、シェ・ダライは微動だにせず、地鳴りのような低音を返した。
「……ここで宿を取り、口減らしの仕事を探すのではなかったのか。我らに、もはや蓄えはない」
「大丈夫だ! あと二、三日食わなくたって死にやしない! ほら、つべこべ言わずに荷を纏めろ、急げ!」
曲刀の男がシェ・ダライの太い腕を引っ張り、焦りから半ば力任せに引き剥がそうとしていた、まさにその時である。
──ギ、と。
道具屋の古い木戸が、嫌な音を立てて軋みながら開いた。
そこに立っていたのは、一人の女であった。
頭には重厚な金色の羽根兜。そこから溢れる、硬く編み込まれた美しいブロンドの髪。歳の頃は、二十代の半ばを過ぎたあたりか。
リッカ・イ・ルシールヴァ。
白銀の雌狼の異名を持ち、王都槍術師団の凄絶なる殲滅部隊「葬槍の姉妹達」を率いる隊長であった。
背後には、鋭い目つきをした女隊員(姉妹達)が数名、影のように控えている。
凛とした、刃物のような佇まい。踏み込んできた女は、口を開いた。
「失礼する。私は王都より参じた、王都槍術師団の──」
名乗りを上げかけた女の言葉が、ぴたりと途切れた。
開いた扉の、すぐ目の前。逃げ出そうと扉へ向かっていた曲刀の男と、視線が真っ直ぐに交錯する。
静寂が、落ちた。
屋内の埃が、差す光の中で静かに舞っている。女の双眸が細められた。慈悲の光ではない。間合を測る武人の眼であった。
「……貴様」
凍りつくような低音が店内に沈む。
「何年も姿を消して、どこぞのドブで野垂れ死んだかと思っていたが……生きていたのか、アッシュ!」
アッシュと呼ばれた曲刀の男は、喉の奥で微かに舌を打ち、引きつった笑みを浮かべた。
「……よ、よお、リッカ。奇遇だな。こんな辺境の地で、高貴な槍術師団様にお目にかかれるとは」
リッカが一歩を踏み込む。長柄の愛槍の柄が微かに揺れ、洗練された武具特有の、冷ややかな鉄と油の匂いが鼻をついた。
「挨拶の一言もなく王都を飛び出し、国境の村で逃げ回る……それが貴様の選んだ生き様か。相変わらずの馬鹿戦鬼が」
「……悪ぃな。お前さんの顔を見ると碌な目に遭わねぇって、俺の勘が囁いてるんだ。じゃあな!」
アッシュは身を翻し、滑るような足取りで木戸口へ向かって疾走した。無宿者の逃げ足である。
だが──戸口を抜けるより早く、狭い出入り口へ重厚な鉄の壁が立ち塞がった。
控えていた「葬槍の姉妹達」の女兵士たちが間一髪で踏み込み、長槍を甲高い金属音とともに十字に交差させる。寸分の隙もない完璧な退路の遮断。
「チッ……」
舌打ちし、立ち止まるアッシュの背後で、重い音が響いた。
リッカが愛槍の石突きを、道具屋の板張りに打ち鳴らした音だ。振動が床を伝い、アッシュの足裏に届く。
「逃がすか。……引き立てろ」
手短かな地声の命令。「葬槍の姉妹達」が一斉に距離を詰めてくる。
アッシュは頭をガリガリと掻きむしり、手首を差し出すように肩を落とした。抵抗の無駄を悟った所作だった。
その横で、シェ・ダライは嫌がる素振りも見せず、ただ山のような巨躯をゆったりと揺らして兵たちに従う。背中の重剣を傾け、囲み寄る女兵士たちの頭頂を見下ろす大男の足取りには、怯えも焦りも微塵もなかった。
その一部始終を、兵たちの背後から見つめる影があった。
緑色の髪に、知性的な眼鏡。胸に分厚い聖典を抱えた女性──王都魔導師団の最高顧問を務めるエルフィムである。
王立魔法学院を首席で卒業した天才であり、若くして神学の深淵をも修めた高位聖職者。あらゆる術理と神聖魔術を統べる、王都きっての才女であった。
最高顧問としての責務を果たそうと、懸命に威厳ある佇まいを作っていたエルフィムだったが──アッシュの顔を視界に捉えた瞬間、その決意は一瞬で霧散した。
眼鏡の奥の瞳が、湿り気を帯びて揺れる。数年間、胸の奥でひっそりと温め続けてきた想い人が、いま、目の前に捕らわれている。
「あ……アッシュ、さん……」
震える声は小さく、消えた。エルフィムは胸元の聖典を指先が白くなるほど強く抱きしめ、あわあわと視線を彷徨わせる。
先刻までにわかに装っていた厳かな威厳は、跡形もなく消え去っていた。
その視線は、懐かしさと同時に、アッシュの左腕──不気味な革の手甲で覆われた手元へ、深い懸念とともに注がれていた。
村の裏手にひっそりと佇む、古びた宿屋。一階の居酒場からは安酒と脂の焦げた臭いが立ち上り、二階の薄暗い一室に、相容れない者たちが集まっていた。
部屋の隅、低く傾いた鴨居に頭をぶつけぬよう屈みながら、シェ・ダライが壁際にどっかと腰を下ろす。背負った重剣が壁に重く当たり、床板がギチと重苦しい悲鳴を上げた。
卓の中央、小さな音を立てて置かれたのは、例の蒼石である。
アッシュはボロい木椅子に深く腰を掛け、肘を突いて爪を噛んだ。面倒くささを隠そうともしない態度。
「……ミネア王より密勅が下った」
その言葉を吐き出してから、リッカは己の失言にハッと唇を噛む。
表向きは『国境付近の哨戒任務』だが、その裏に隠された真の任。王都を捨てた無宿者に対し、明かしてよい最高機密ではなかった。「葬槍の姉妹達」の長姉らしからぬ綻び。
何年も前に突如行方知れずとなった男が、相変わらずの減らず口を叩きながら目の前に座っている──その毒気と懐かしさに当てられ、無意識のうちに警戒を緩めさせられていた己に、リッカは苛立ちを覚えた。
だが、一度口から滑り出た言葉を呑み込むわけにもいかない。リッカは苦々しく眉間を寄せ、強引に言葉を続けた。
「この数か月、樹海に出没し街道を脅かしていた『空飛ぶ巨大な異形』の調査と討伐……それがあたしたちに下された真の任だ。だが、昨夜、その化け物の気配が突如として消えた。……説明してもらおうか」
「説明もクソもねぇよ」
アッシュは冷めた目で窓の外へ視線を向け、続けた。
「夜中にいきなり上から降ってきた。邪魔だから切って捨てたら、泥みたいに溶けて消えた。後に残ったのが、その石だ」
「……斬った……?」
リッカの動きが止まる。その瞳に、驚愕の色が走った。
「一隊を全滅させるほどの怪異を……貴様ら、二人で片付けたとでも言うのか」
「俺は美味い肉が喰いたかっただけだ。肉にならねぇ泥になっちまって、骨折り損だったんだよ」
吐き捨てるアッシュに対し、リッカは唇を噛み締め、怒りと脱力の間で拳を握りしめた。
その傍らで、静かに動いたのはエルフィムだった。
「……静かに」
どこか独特の悠然とした間を湛えた、しかし不思議と場を静まり返らせる声だった。
先ほどまでの挙動不審な狼狽はすっかり消え失せ、エルフィムは卓上の蒼石へと、そうっと指先を伸ばす。
眼鏡越しに覗くその瞳には、すでに甘い恋心の余韻はなく、真摯な光が宿っていた。この世のあらゆる術理を解き明かしてきた、探求者の眼である。
細い指先が蒼石の表面をなぞる。一瞬、石の奥で青い光が微かに揺らめいた。
「リッカ……これは、ただの魔石ではありません」
「何……?」
「『高純度の人造魔法石』……。自然界の法則を歪め、人の手によって組み上げられし、禁忌の術理の器」
薄暗い部屋に、重い静寂が落ちる。
「……つまり、昨夜アッシュさんが討伐された巨獣は、野生の怪物ではないんです。誰かが意図的に作り出し、放った人工の惨禍。ミネア王のご想像の通り……」
アッシュの目が、わずかに細められた。
だが──その瞳に宿っていたのは、国家の危機に対する戦慄でも、陰謀への疑念でもない。ただの、冷ややかな執着であった。
「人造だか何だかはどうでもいい。要するに……ただの綺麗な石ころよりは、ずっと値が張るってことだな?」
「……は?」
エルフィムの解説をあっさりと切って捨て、アッシュは卓の上の蒼石をひょいとつまみ上げた。
親指の爪でカツカツと表面を弾く。響く甲高い金属音。アッシュの口角が、薄っすらと歪んだ。
「最高顧問様の折り紙付きの特級品だ。王都の闇市か、怪しげな術士の取引所に持ち込めば、金貨数十枚には化けるんじゃねぇか……? シェダ、腹いっぱい肉が喰えるぞ」
壁際に佇むシェ・ダライが、フン、と太い鼻腔から重い息を吐き出す。沈黙の同意であった。
だが一瞬、部屋の中の空気が凍りついた。
リッカの顔から血の気が引き、次の瞬間、凄まじい殺気が爆発した。
「貴様……ッ! 今、なんと言った!!」
ドガン、と卓が跳ね上がらんばかりの音を立て、リッカが立ち上がった。長柄の愛槍の柄を握りしめる指が、白くきしむ。
「ミネア王が危惧される国家の害悪……その凶兆たる石を、売るだと!? 貴様、どこまで腐れ落ちれば気が済むのだ!!」
「声が大きいぜ、リッカ」
アッシュは耳をほじりながら、視線すら合わせようとしない。
「お前さんたち高貴な騎士様にとっちゃ一大事だろうがね、今日のメシにも困ってる無宿者の俺にしてみりゃ、ただの換金だ。王の密勅? 知ったこっちゃねぇよ。俺はとっくに、あの退屈な王都も、忠誠も捨てちまったんだ」
「アッシュ……ッ!!」
リッカの瞳に、激痛にも似た怒りの色が走る。愛槍の刃が微かに震え、アッシュの首筋へと向けられた。
二人の間に立ち込める刺すような殺気の中、壁際に陣取るシェ・ダライだけは麻布で巻いた重剣を背負ったまま微動だにせず、腕を組んだままじっとその光景を見下ろしている。
エルフィムが、静かにアッシュの手甲を見つめ続けていた。
やがて──エルフィムが静かに口を開いた。
「……その石、王都魔導師団が買い取りましょう」
鈴を転がすような、しかし低く静かな声であった。
「……なっ!?」
リッカが絶句し、振り返る。
「ちょっと、エルフィム!? 何を言い出すの! こんな男の言いがかりに付き合う必要なんて──」
「最高顧問の権限を使います」
エルフィムはリッカの言葉を静かに遮った。眼鏡の奥の瞳は、アッシュの冷め切った貌から揺るがない。
「この石は禁忌の術理の塊です。野に放てばどんな災厄を生むか分からない。……研究機関として、適正な価格で買い取る口実と予算は、私にあります」
「エルフィム……あんた本気なの!?」
リッカが苦々しく歯噛みする。
しかし、エルフィムはリッカの動揺など意にも介さず、淡々と言葉を続けた。
「……ただし、アッシュさん。条件があります」
アッシュは眉を微かにひそめ、片目を細めた。
「条件だ? 買い叩くつもりなら、他を当たるぜ」
「いいえ。金貨はご希望通りにお支払いします。条件はひとつだけ……」
エルフィムは胸元の聖典をギュッと抱きしめ、一歩、アッシュへと踏み出した。
「王都へ……一緒に来てくださいませんか?」
「……あ?」
「人造魔法石の調査に協力を求めているのではありません。調査なら、私と魔導師団だけで十分です。……そうではなくて」
エルフィムの言葉が、わずかに震えた。作り上げた厳かな仮面の奥から、胸の奥で温め続けてきた切ない想いが零れ落ちる。
「……顔を、見せてあげてほしいのです。ミネア王や……かつて共に戦った、昔の仲間たちに。あなたが生きていると……ただそれだけでいいのです」
凛とした静寂が、再び部屋を包み込んだ。
リッカは愛槍を握りしめたまま、言葉を失ってエルフィムを見つめている。アッシュは舌打ちひとつせず、ただ冷ややかな目で、旧知の才女を見返していた。




