序章 味なき魚の夜に
大樹海──。
夜の帳の下、ひっそりと息づく深緑が生み出す暗黒に、ぽっかりと空いた木々の暇。
煌々と燃え盛る焚き火の傍らに、ゆらゆらと長い影を落とす二つの佇まいがあった。
時折爆ぜる薪の音が、深き闇へと吸い込まれていく。
「……おい、シェダ」
男が一人、胡坐をかきながら串に刺さった焼魚を睨みつけていた。
年齢は三十代前半といったところか。使い古した赤茶けた革鎧に身を包んだ姿は、一見すると無宿の傭兵のそれである。
腰には飾り気のない曲刀の鞘を下げ、盾は見当たらない。
その代わり、左手に嵌めた赤黒く焼けただれたかのような、不気味な革の手甲が目を惹いた。
「いい加減コイツにも飽きてきたな……。塩も無ぇし、味気無ぇ……」
睨みつける焼魚に愚痴を零す男に対し、シェダと呼ばれた大男は、焚き火にその巨躯を照らされながら微動だにしなかった。
それは、誰が見ても只者には見えぬ容姿であった。
誰もが道を譲るほどの巨体。粗末な肩当と胸元で交差する革ベルトの隙間から、西峰アルドミラを思わせる隆々とした僧帽筋と、渋皮をむいた巨大なチェストナッツのような上腕二頭筋が覗いている。
重ねた年輪に埋もれた数多の古傷、皺寄せる眉間の強面と、剃り上げた頭を煌々と火に照らし、一言も発さずに坐すその男──シェ・ダライは、曲刀の男と数年前から共に旅を続けている。
そしてその傍らには、男の背丈ほどもある、麻布を纏わせた重剣が静かに置かれていた。
シェ・ダライは無言のまま自分の串を持ち、黙々と味のない魚を口に運んでいた。
味の有無など関係なく、目の前にある「今」を、ただ静かに受け入れている。
曲刀の男の恨みがましい視線に気づくと、シェ・ダライは咀嚼を終え、低い声で短く呟いた。
「……命、しかと喰らえ」
その言葉に、男は舌打ちしながら諦めの表情を浮かべる。
「分かってるよ。ありがたく頂戴しろ、ってんだろ? 相変わらず説教くせぇ坊さんなこった」
男は苦笑し、諦めたように魚を一口齧った。
やはり、味はしない。
「はぁ……久しぶりにうめぇ肉が喰いてぇな、肉が……」
そう呟くと、下の歯に引っかかった小骨を舌先で探りながら、面倒そうに口元を歪めた。
「この大樹海に入ってもう十日だぞ、十日。おいシェダ、お前本当に明日、この陰気臭い森を抜けられるんだろうな?」
シェ・ダライは無言で夜空を見上げると、木々の隙間から覗く星々を確認し、ただ一度、静かに頷いた。
北方の明星に、連なるように三つ星が並んでいる。間違ってはいない。
方角も距離も誤りはなく、何事もなければ明日には国境近くにある村へと辿り着ける。
「あぁ…レヴィアの酒場が恋しいぜ……。あそこのエールは不味かったがよ、あのエールと、ガッツリ塩気の効いた干し肉の塊が、今の俺には神の恵みに思えるわ…」
大樹海に入る前、二人が立ち寄った賑やかな港町レヴィア。
そこで受けた仕事は、港の倉庫を荒らす大鼠を駆除するという、どこの町にもよくある傭兵稼業だった。造作もない仕事だったため当日中に片付けたところ、報酬が高すぎたと思われ、雇い主に足元を見られ、手に入った報酬は二人が十日間食いつなぐための最低限の銀貨と、数日分のまともな糧食、そしてこの底を突いた塩袋だけ。
それも数日前にすべて底を突き、ここ数日は川で捕った泥臭い魚を味付けもなしに焼いて喰う日々が続いていた。
「あのケチな雇い主め。もう少し色をつけてくれりゃあ、こんなひもじい思いをせずに……おいシェダ、お前もあの不味いエールが飲みたくなってきただろ?」
男の軽口に、シェ・ダライは静かに目を閉じると、低い声で一言だけ返した。
「……酒は、戒律に、反する」
「あー、はいはい、悪うござんしたね。お前さんと旅してると、俺まで聖人君子になっちまいそうだ」
男はガリガリと頭を掻きむしり、再び味のない魚を睨みつけた。
生きるために喰う。
それが宿無し傭兵の、飾り気のない現実だった。
その時──一瞬、不穏があたりを包んだ。
見えない危機に叩き起こされた野鳥たちが、けたたましく羽ばたく。
突然の異変に走る緊張、曲刀の柄に手を伸ばしながら男が空を睨む。
すると、二人の頭上近く、漆黒の樹冠を突き破って巨大な何かが急降下してきた。
ほんの目と鼻の先、樹林へ荒々しく叩きつけられる凄まじい衝撃音。
激しい風圧が焚き火の炎を狂ったように煽る。
そして、それは落着の勢いのまま周囲の木々をなぎ倒し、地響きとともに巨大な影が二人のいる空き地へとなだれ込んできた。
焚き火の揺らめきに照らされ、浮かび上がったのは、鷲の頭と翼をもった「鳥」のような異形。
そして、何故「鳥」と言い切れないかといえば、その胴体は獅子のごとき四つ足だったからである。
突如として眼前に現れた異形に、曲刀の男の口元が、歪んだ。
じわりと潤いを取り戻す口の中で、渇望の舌が蠢く。
「シェダ、見たか!…… 肉だ!」
見たこともない巨大な異形を前にして、男の脳内にあるのは恐怖ではなく「捕食対象」としての歓喜だった。
対するシェ・ダライは、その巨躯を見つめ、
「アレは、喰えん」
そう吐き捨てると、静かに腰を上げた。
「はぁ? 喰えねぇって、おめぇんとこの戒律は四つ足禁食ってか? 古くせぇな。でも安心しろ。あの頭は、どう見たって鷲だ。鳥だ。なんならお前は首から上だけ喰っとけ。特大のせせり肉だぞ」
異形が、ゆっくりと首を傾けた。
狂気を含んだ琥珀色の眼球が、焚き火の明かりと、その傍らに佇む二人の人間を捉える。
次の瞬間、獣の口から発せられたのは、鳥の鳴き声でも獣の咆哮でもなかった。耳を刺すような高音と、空気を震わせる重低音が混ざり合った、不快な怪叫。周囲の木々から葉が散り落ちるほどの音圧が、夜の静寂を狂気に塗りつぶす。
異形が動いた。
前肢の太い爪が落ち葉の絨毯を深く抉り、湿った土の匂いを撒き散らす。
巨大な翼が大きく羽ばたき、地を払うような暴風を生み出す。
煙る灰と残り火が夜空へと舞い散る中、異形は後ろ脚で大きく大地を蹴り上げた。
巨躯が叩きつける足踏みが大地を激しく揺らし、恐ろしい密度の地響きとなって迫り来る。
その巨体からは想像もつかない凄まじい脚力と加速。押し寄せる肉と骨の質量と、むせ返るような獣脂の異臭が、圧迫感となって二人に襲いかかってきた。
そして、二人の眼前にまで迫り狂うと、異形は後ろ脚だけで立ち上がり、月光を覆い隠すほど翼を一杯に広げた。影が二人を完全に呑み込む。
振り上げられた前脚の鉤爪は、太い丸太すら一撃で引き裂く鋭利な鎌そのものだった。
「シェダ!」
男が叫ぶ。
「応っ」
地鳴りのような一喝。
シェ・ダライは傍らに置いていた重剣を背負うと、腰を深く落とし、両腕を大きく広げた。
知識と力、そして鍛え上げられた骨組み。振り下ろされた巨大な鉤爪を、正面から受け止める。
肉と骨、そして鋼のごとき爪が激突し、大気を爆裂させるほどの重低音が夜の森を震わせた。
シェ・ダライは、受け止めた。
踏ん張る大地が悲鳴をあげる。深く沈み込む、シェ・ダライの踵。
火に照らされた彼の肉体に、太い血管がのたうつように浮かび上がる。凝縮された上腕二頭筋が、過負荷によってさらに倍ほどに膨張していた。
しがみつく両腕、万力のように締め上げられた鉤爪は、まるで大地に拘束されたかのように微動だにできない。
小さき獲物に力で押される予想外の状況──動きを封じられた異形は、狂ったように羽根をばたつかせ、暴れた。
動きは制したものの、あまりの暴れように斬り込む隙が見出せない。
それを見た男は、右手で腰の曲刀を引き抜くと、静かに左手で印を結んだ。
その印を口元に添え、言葉短く詠唱を紡ぐ。握りしめた印の中に、蒼白い光が揺らめいた。
男はそれを、異形の眼前に向かって放り投げる。
光は、夜の闇に緩い弧を描いて飛んでいく。
そして、暴れる異形の目と鼻の先へ届いた瞬間、音もなく爆ぜた。
まばゆい閃光が迸る。
突然の出来事に驚いた異形は、嘴を大きく開いて鳴いた。
その挙動は、男の狙い通りだった。
閃光と同時に強く大地を蹴っていた男は、シェ・ダライがその怪力で封じ込めている化け物の前脚を足場にして、異形の頭目掛けてさらに高く飛び上がった。
異形の眼前に至った、まさにその一瞬。
大きく開いた嘴の口角に向かって、男は水平に曲刀を薙いだ。
深々と食い込む刀身。
そして──その刹那、男の左手に結ばれていた新たな印の術式が発動する。
乾いた大気が凄まじい圧搾によって弾けたような、鼓膜を裂く高音が甲高く突き抜けた。
刀で斬ったというよりも、空間そのものが弾け飛んだという方が相応しい衝撃。
下嘴から上が、消し飛んでいた。
頭を失った異形は、慣性で数歩前へ歩みを進めると、崩れるように倒れ伏した。
振動と共に大地に沈む異形の亡骸。
とどめを確認した男は、早くも美味い肉にありつける期待に喉を鳴らした。が、それは一瞬で裏切られる。
異形の肉体が、みるみるうちに崩れていく。
黒い泥のような液体へと変わり、ドロドロと地面に溶け落ちていった。
「お、おぉ……な、嘘だろ……俺の肉が……」
落胆の表情をあらわにする男に、
「言った、はずだ」
シェ・ダライが呆れたように溜息を吐く。
溶けた肉泥の真ん中に、何かがあった。
「ん? なんだこれ。」
曲刀の男が見つけたそれは、拳ほどの大きさの蒼い石だった。蒼は石の中心に向け濃く深くなり、奇妙なきらめきを放っている。見た目にきれいではあるが、宝石のようにカットや加工は施されておらず、装飾品としての価値はなさそうだった。
「石じゃ腹の足しにもなりゃしねえ…が、売りさばけば宿代くらいにはなるか」
男は気のない様子でそれを拾い上げると放り投げた。それをシェ・ダライが大きな手で見事にキャッチし、布包みの隅へ無言でしまい込む。
男は曲刀を鞘に納めると、ベルトごと外して傍らに放り出し、ゴロリと地面に寝転がった。
「寝ようぜ、シェダ。明日は絶対に、塩の効いた美味い飯を食うからな」
「……御意」
夜が、再び静寂を取り戻す。
男は左手の手甲をそっと撫でた。シェ・ダライが無言で歩み寄り、男の左手首を大きな手でギュッと包み込む。
シェ・ダライは静かに目を閉じ、地鳴りのような祈りの呪文を微かに呟いた。男の左手のこわばりが、みるみるうちに静まっていく。
「……悪りぃな、いつも」
「……」
シェ・ダライは何も答えない。
ただ静かに手を離すと、焚き火の傍らに腰を下ろし、慣れた手つきで静かに男の曲刀の手入れを始めるのだった。
味気ない夜が更けていく。




