第十四章 裁きと糧
アッシュの体を抱え込み、必死に回復魔法を重ねるエルフィムの目から、大粒の涙がとめどなく零れ落ちていた。
「どうして……どうして治らないの……! お願い、アッシュさん、しっかりして……!」
シェ・ダライの祈り歌によって辛うじて最悪の死地は脱したものの、左手に禍々しく蠢く魔力の残滓は、いまだ昏い底でアッシュの肉を内側から蝕んでいる。自分の無力さと後悔に押し潰され、エルフィムはその場でただ震えることしかできなくなっていた。
「――泣いていたって、その男の傷が勝手に塞がるわけじゃないよ!」
突如として飛んできた乾いた怒号に、エルフィムはびくりと肩を揺らす。
振り返ると、そこに立っていたのはハセミだった。彼女は幾重もの戦いの傷痕も生々しく横たえる葬槍の姉妹達に視線を巡らせ、鋭い眼光をエルフィムに向ける。
「さぁ、メソメソしてる暇があったら、アンタは今アンタの出来ることをやるんだよ!ボサッとしてんじゃないよ!!」
「……っ!」
ハセミの泥臭くも現実的な叱咤に、エルフィムはハッと息を呑んだ。自分が涙を流している間に、傷つき倒れたリッカをはじめとする葬槍の姉妹たちが、冷たい底冷えの中で息を詰まらせている。
エルフィムは涙を手の甲で乱暴に拭い去ると、ぐっと唇を引き結んだ。
「……はいっ!」
そこからの彼女の動きは、まさに才女の本領発揮だった。これまでの迷いや怯えが氷塊のように消え失せ、頭脳と魔導の素養がフル回転する。負傷した姉妹たちの脈を指先で探り、魔力の波長を的確に合わせながら次々と最善の処置と回復魔法を施していく。
エルフィムの両手から放たれる洗練された緑光が、みるみるうちに隊員たちの血を止め、荒かった息を落ち着かせていく。数分も経たないうちに、絶望的だった負傷者たちの容態は劇的な安定を見せた。
「ハッ、すごいな……大したもんだよ」
応急処置を終えて息をついたエルフィムの肩を、ハセミが頼もしい手つきでポンと叩く。
だが、その安堵の余韻を断ち切るように、足元が凄まじい地響きを立てて揺らいだ。古の遺跡の深淵そのものが怒ったかのような、不気味などす黒い振動だ。
「――っ、なんだ!?」
頭上を見上げたアイネが息を飲む。ジュエルニュートとの激闘、そして相次ぐ魔力の暴発が限界に達していた地下遺跡の天井から、黒々とした巨大な岩盤が、まるで崩れ落ちる神殿のように剥がれ落ちてきた。
直撃こそ免れたものの、轟音と共に次々と天井の崩落が連鎖していく。
「クッ!ぼさっとしてる暇はないよ、ここが潰れれば生き埋めだ! 這いずってでも出るんだ!」
ハセミが皆に危機を鋭く知らせ、崩れゆく回廊の先へと声を張り上げて促した。
シェ・ダライは何も語らず、昏倒したアッシュと、その愛用の重剣を丸ごと力任せに背負い込む。巨躯の筋肉がミシミシと音を立てるほどの重量だったが、戦士の足取りは微動だに揺らがない。
頭上から降り注ぐ落石と、逃げ場を狭める崩落の瓦礫。その中を、ハセミが場数で培った鋭い勘と獣のような誘導で道を示していく。
エルフィムは必死に仲間の背中を追い、葬槍の姉妹たちもまた互いに肩を貸し合いながら、崩壊を始めた地下遺跡の深部から命からがら脱出を果たすのだった。
狭い遺跡の出口を駆け抜けた全員の背後で、重苦しい轟音と共に最後の天井が崩れ落ちた。土煙の舞う中、崩壊する遺跡から文字通り這い出るようにして外へ飛び出した彼らを迎えたのは、夜の闇を払い始めた冷たい外気だった。
ふと顔を上げれば、空はうっすらと白みかけ、東の空の端が、血に濡れたような鮮烈な朝焼けに染まり始めていた。
「ハァ、死ぬかと思った……。危うくあんな乾いた遺跡の中で、干からびた骨になるところだったよ」
瓦礫に手をつき、荒い息を吐きながらハセミが毒づく。
だが、その安堵は長く続かなかった。背後から差し込む朝日に引き伸ばされた自分たちの影に重なるように、不自然な複数の影が長く、黒く、這うように伸びていることに気付く。
ゆっくりと振り返ったその先には、静まり返った荒野を囲むようにして、完全に退路を塞ぐ二つの武装集団が陣取っていた。
一方は、鋼の冷気をまとう王都グラナディアの正規兵。
そしてもう一方は、見慣れない荒々しい意匠の武具を纏ったアル・ザハル王国の正規兵たちだった。
「――そこまでだ」
静寂を破り、アル・ザハル王国の正規兵の中で一際重厚な鎧を纏った隊長らしき男が、一歩前に進み出た。彼は冷ややかに光る眼光をリッカたちに向け、澱みない声で告げる。
「王都グラナディアのミネア王より要請があった。『円環の双蛇』および『人造魔法石』に関する危険性について当国へ情報提供がなされ、それに伴う王都槍術師団殲滅部隊長リッカ・イ・ルシルヴァ殿と、管下の葬槍の姉妹たち――そして、王都魔術師団最高顧問エルフィム殿の身柄確保および王都送還の協力要請を受理している」
隊長は容赦なく言い放つと、周囲を取り囲む兵士たちに目配せをした。
「我らは、貴殿らの国境までの身柄引き渡しおよび護衛の任を帯びている。おとなしく従ってもらおう」
アル・ザハルとグラナディアの兵士たちに囲まれ、リッカやエルフィムたちに選択の余地は残されていなかった。有無を言わさぬ包囲網の中、彼女たちはそれぞれの武装を収めさせられ、王都送還のための隊列へと組み込まれていく。
リッカは悔しさに奥歯を噛みしめ、硬質な歯ぎたてを殺しながらも、部下である葬槍の姉妹たちの無事な姿を数え、どうにか頭を冷やしようとしていた。ここで無謀な刃を抜けば、命からがら生き延びた部下たちまで巻き添えにしてしまう。選んだのは、ひとまず従うことで牙を研ぎ直すという苦渋の決断だった。
一方のエルフィムは、自分の頭の中を占めているのは国家の行く末でも元老院の処遇でもなかった。ただ、あの時自分が余計な迷いを断ち切れず、あの男にすべてを背負わせてしまったのではないかという悍ましい後悔と、今も意識のない彼を置き去りにして連行されていくという現実だけで、胸が締め付けられそうだった。
連れ去られる最中、エルフィムは何度ふりかえったことだろう。
その視線の先では、シェ・ダライの傍らにぐったりと預けられたままのアッシュがいた。未だ意識を取り戻さないその巨躯は、血と泥に汚れ、痛々しいまでの沈黙を保っている。彼女の胸を、底知れぬ無力感と冷たい不安が這い上がっていた。
「おいおい、私らは王都の人間じゃないし、関係ないだろ? こちとら商売であんたらのいざこざに巻き込まれただけだ。これ以上付き合う気はないんでね、サフィールに帰らせてもらうよ」
冷え切った空気を切り裂くように、ハセミがやれやれといった調子で大きく肩をすくめてみせた。
周囲を警戒する王都とアル・ザハルの兵士たちが、一瞬どよめき、鋭い視線をハセミに向ける。だが、彼女はそんな威圧などどこ吹く風とばかりに鼻を鳴らし、ここまでやってきたときに乗ってきた愛馬の手綱を引いた。
「さぁ、いつまでもそんなところで突っ立ってないで、そいつを乗せな。お前も来るんだろ?」
ハセミに声をかけられたシェ・ダライは、無言のまま大きくうなずくと、昏倒したままのアッシュを丁寧に抱え上げ、手際よく馬の背へとくくりつけていく。
兵士たちの中から「待て」「身柄を……」と制止の声や剣の柄に手をかける者が現れたが、アル・ザハルの兵隊長がそれをピタリと制した。
「奴らは送還の対象として要請を受けていない。他国からの要請事に、余計な気心は不要だ」
分別のある隊長の言葉に、ハセミは不敵な笑みを浮かべてみせる。
血のような朝焼けに長く影を伸ばされながら、両国の兵士たちに護送されていくリッカ達とエルフィム。
その緊迫した空気のなか、馬の背に横たえられ、しっかりと縛り付けられていたアッシュが、まるで死の底から這い上がるようにわずかにまぶたを震わせ、蚊の鳴くような、しかしどこか底意地の悪い低い声でつぶやいた。
「……腹、減った……」
ハセミは呆れたように大きく息を吐き、傍らを歩くシェ・ダライは、わずかにその巨体の肩を揺らしてフッと不敵な息を漏らしたのだった。
◇
王都グラナディアの厳重な警備に包まれた宮殿の一室。冷たい石造りの壁に囲まれたその広間には、逃げ場のない重苦しい空気が沈殿していた。
中央に直立させられたリッカとエルフィムの視線の先には、玉座に鎮座するミネア王と、その左右を固める三人の元老院議員が陣取っている。老いた彼らの目は、底冷えのするような愉悦を湛えていた。
「――よって、軍規違反および独断による越境、さらには王都の治安を揺るがす重大な機密の無断閲覧。これらはすべて、王国に対する明白な反逆行為とみなすに十分である」
ミネア王の冷徹な声が、広間の天井へと虚しく反響する。
長々と読み上げられる罪状の数々は、どれをとっても首がいくつあっても足りないほどの重罪だった。王の言葉を聞きながら、三人の元老院議員たちはどこか余裕を含んだ、うっすらとした笑みすら浮かべている。自分たちの権威を脅かした者たちが裁かれる様を愉しんでいるかのようだった。
――もはや、極刑は免れない。
リッカが密かに奥歯を噛みしめ、冷たい鉄の味が広がる中で最悪の結末を覚悟したその瞬間だった。
「――しかしながら」
ぴたりと、ミネア王の口調が変わった。
王は冷ややかな目をわずかに細め、手元に置かれた一枚の血の通わない報告書に視線を落とす。
「今回の件において、特筆すべき事実がもう一つある」
広間の空気がわずかにピリと張り詰める。
「本来であれば、元老院によって『円環の双蛇』および『人造魔法石』に関する重要機密が、深慮遠謀の下に秘匿されていたがゆえに、我が国は組織的な初動対応を取る遅れをとった。だが――」
ミネア王が顔を上げ、壇上から老いた元老院の面々へと視線を突き刺す。
「その隠蔽された闇の中で、彼らは独断でありながらも『円環の双蛇』の不穏な動きを正確に突き止め、王都の足元へと忍び寄っていた致命的な危機を、結果として未然に防ぎ伏せた」
その言葉の響きと同時に、それまで余裕の笑みを浮かべていた三人の元老院議員たちの顔色が一変した。
自分たちが隠し通そうとした腐臭放つ失策が公の場で暴かれ、さらにその尻ぬぐいを罪人たる者たちにされたという事実。元老院の面々は急速に表情を曇らせ、居心地の悪そうに露骨に顔を引きつらせていく。
「ここまでで、何か言い分はあるか? リッカ。エルフィム」
ミネア王の静かな問いかけが、重苦しい広間に落とされた。
元老院の面々が気まずげに視線を逸らす中、最初に口を開いたのはリッカだった。彼女は微塵の揺らぎもない足取りで一歩前へ進み出ると、きっちりと背筋を伸ばし、壇上の王を見据えた。
「――言い分はございません」
リッカの声は、冷徹な石造りの部屋によく通った。
「軍規に背き、独断で国境を越えたことは事実。そして、配下の者たちを危険に晒したこともすべて私の責任です。どのような処罰も、死罪を含めて甘んじて受ける所存です」
そこに私情や保身の色は一切なかった。ただ一軍の将として、犯した罪の重さを受け入れる覚悟だけが、凍てついた空気の中に示されていた。
リッカの横で、エルフィムもまた深く息を吸い込み、震える唇を開いた。彼女の瞳には、かつて王都で持て囃されていた「最高顧問」としてのプライドの色はなかった。あるのは、剥き出しの悔恨と、取り返しのつかない現実への絶望だけだった。
「……私からも、弁明はありません」
エルフィムは地に額をこすりつけるかのように、深く頭を垂れた。
「私がもっと思慮深くいたら、あんな風に、あの人にすべてを背負わせることはなかった……。私の浅はかさと無力さゆえの結果です。どのような罰であれ、私が受けるべきに異存はありません。すべて、甘んじて受け入れます」
二人の絞り出すような、しかし決して逃げない言葉を聞き届けたミネア王は、わずかに目を伏せ、思案するように顎に手をやった。
「それでは、判決を言い渡す――」
◇
数日後。
拠点である「銀の雨蛙亭」の一室には、外の緊迫した空気とは裏腹に、どこか生臭い日常の落ち着きが戻っていた。
ベッドの上で、全身に巻かれた包帯のあちこちを引き攣らせながら、アッシュは「いてぇ、いてぇ……」と低い獣のような呻き声を漏らす。その痛みに顔を歪めつつも、彼の右手は休むことを知らず、目の前の糧を掻き込む。
木製の荒々しい皿の上に山と盛られていたのは、ハセミが仕込んだ肉の煮込みと、固く焼き締まった黒パンだった。ハセミが手ずから大鍋で煮込んだそれは、香草の強い香りと、砕いた木の実のコク、そして失われた血肉を欲する身体の奥底に染み渡る塩気が効いた、傭兵の胃袋を鷲掴みにする雑把で力強い料理だ。
アッシュはスプーンを投げ出し、素手で掴んだ厚切りの肉にかじりつく。じゅわりと溢れ出す濃い獣脂の旨味が、ボロボロになった喉と飢えた胃袋を容赦なく叩き起こす。痛みに眉間を寄せつつも、歯で肉を引き裂き、黒パンをスープに浸して貪り食う。咀嚼するたびに全身の傷がひくひくと疼き、古い痛みが蘇るはずだが、その荒々しい咀嚼音には「生きている」という強烈な執念が満ちていた。死の淵から引き戻された肉体が、生を繋ぎ止めるために貪る――まさに剥き出しの野獣の営みそのものだった。
「いてぇ、いてぇって言いながら、相変わらず凄い食いっぷりだね……」
トレイを持ったコナが、呆気にとられたような顔でその猛然たる食べ様を見つめている。死線を潜り抜け、いまだ重傷の身でありながら、アッシュの手つきは容赦なく、出された肉の山を次々と胃袋へ放り込んでいく。その化け物じみた回復力と、執念に満ちた食欲に、コナは思わず感嘆の息を漏らした。
その傍らでは、ハセミがやれやれといった調子で腕を組み、手元の酒杯を軽く揺らす。
「まったく、化け物ってのは怪我の治りも早けりゃ、腹の減り方も尋常じゃないねぇ。死にかけた男の胃袋とは思えないよ。そんなに食えるなら、明日からでも荷物持ちに駆り出してやりたいぐらいだ」
呆れ顔を見せながらも、ハセミの口元にはどこか安堵の色がにじんでいる。彼女は空になった煮込みの鍋を眺めながら、ふっと鼻を鳴らした。
「そういやアッシュ、お前さんには礼を言わなきゃならないね。東国の『ナルカミ』のお偉いさん方から受けていた面倒な依頼――『円環の双蛇』が裏で進めてる胡散臭い実験の調査と、その芽を潰してこいって厄介払いさ。お陰さまで、あそこの堅物どもが納得するだけの証拠も、元凶の片割れも綺麗さっぱり吹き飛んだ。無事に仕事が完遂できたのは、ひとえにお前さんの無茶苦茶な暴れっぷりのおかげってわけだ」
ハセミはそう言って、からからと気っ風の良い笑い声をあげる。酒の匂いと肉の脂の香りが、部屋の空気を満たしていく。
シェ・ダライは無言のまま腕を組み、アッシュが最後のスープまで黒パンで拭い取って平らげる姿をじっと見守っていた。痛みで額に冷や汗をにじませつつも、目の前の皿を完全に空にしたそのタフな背中を見て、巨躯の戦士はわずかに満足げな笑みを浮かべる。
荒々しい戦いの日々は過ぎ去り、重苦しい政治の波がうねり始める王都を遠く離れた、サフィールの片隅。銀の雨蛙亭の一室だけは、肉を喰らい、命を繋ぐ泥臭い熱に満ちていた。




