最終章 蒼き邂逅の果て
アッシュの身体は、化け物じみた回復力によってだいぶ元に戻っていた。
ハセミが東国『ナルカミ』のお偉方から支払われた依頼の報酬――その山分けの分け前を懐に収めると、アッシュはまたいつもの使い古した革鎧を纏い、放浪の旅に出るための準備を静かに始めた。
「また行っちまうのかい? ふらふらと、まるで根無し草みたいにさ」
片付けをするアッシュの背中で、ハセミがどこか名残惜しそうに声をかける。
アッシュは手際よく荷物を革紐で縛り上げながら、ニヤリと口元を緩めた。
「風の向くまま、気の向くままってな。元々、一箇所に長く留まる性分じゃねぇよ」
「寂しくなるねぇ。……まったく、手がかかる客だったけど、いなくなると少しは静かすぎるくらいか」
ハセミはそう言いながら、大鍋から立ち上る香ばしい煮込みの匂いに鼻を鳴らす。
「まぁいいさ。どうせまたアタシのことが恋しくなって帰って来てくれるんだろう? 今夜は餞別がわりに、腕を振るって盛大に振る舞ってやるよ。ありったけの肉と、喉が痺れるような強い酒をな」
「そりゃ楽しみだ。骨身に染みるな」
そんな気取らない会話が、宿の温かな空気を満たしていた。
その時――。
カラン、と乾いた鈴の音が響き、銀の雨蛙亭の重い木の扉が無造作に押し開かれた。
冷たい夜の風と共に流れ込んできたのは、見慣れた、しかし予想もしなかった気配だった。そこには二人の女性と、その背後に続く二十名ほどの人影がひしめいていた。
リッカとエルフィム。そして、彼女たちに率いられた葬槍の姉妹たちの姿だった。
宮殿の冷たい石造りの広間で裁きを受けたはずの彼女たちは、いつもの絢爛な軍装を脱ぎ捨てていた。代わりに纏っているのは、質素な旅人の装いであり、リッカは愛用の長槍を背負い、その柄にずっしりと重そうな麻の荷袋をくくりつけている。一方のエルフィムも、身の丈ほどもある木杖を大事そうに片手に握りしめ、その肩からは慣れない旅の荷袋を不器用そうに下げていた。
リッカは入口に立ち尽くしたままアッシュと目が合うと、わずかに気まずげな表情を浮かべた。だが、すぐにその厳しい顔を和らげ、旅支度を進める男の身体を気遣うように一歩歩み寄る。
そして、プライドが高くとも礼節は決して忘れない彼女は、まっすぐにアッシュを見据えて頭を下げた。
「……アッシュ。妹たちを……私の部下たちを救ってくれてありがとう。心から感謝する」
思わぬ素直な謝意に面食らったアッシュは、鼻を掻きながらあきれたように笑った。
「おいおい、なんか変なもんでも喰ったのか? そんな改まって礼を言うとかよ。……それに、あんなところでお前に死なれちゃ、後味が悪くてこっちの寝覚めがわりいからよ」
軽口に混ぜてさらりと本音を返したアッシュに、リッカはわずかに呆れたような、しかしどこか救われたような複雑な笑みを浮かべる。
その光景を横目に、一方のエルフィムは、あの地底の遺跡でアッシュを死地に追いやってしまったという罪悪感がまだ心の底から消えていなかった。アッシュの姿を見るや否や、彼女は申し訳なさそうに視線を彷徨わせ、震える声で謝罪を繰り返すばかりだった。
「あ、あの……アッシュさん、その……本当に、ごめんなさい……私、があの時……っ」
矢継ぎ早に謝るエルフィムを横目に、アッシュはやれやれといったふうにため息をつき、かすかに痛む腹を押さえながら口を開いた。
「リッカ、見ての通り身体はもうだいぶ良くなった。明日にはここを離れるつもりだ」
そう告げてから、アッシュはすぼまった目でエルフィムを見据える。
「それと、お前。もう謝んなよ。ありゃ仕事だ。俺が俺の勝手で引き受けた。だから、そんなにいつまでも謝られる言われはねぇよ。それに――俺はな、いつまでもウジウジと卑屈な奴は嫌いなんだぜ?」
ガサツではあるが、どこか突き放すような、それでいて底抜けに真っ直ぐなアッシュの言葉。
その真意を受け止めたエルフィムは、ハッと息を呑んで顔を上げた。彼に嫌われたくない、これ以上足手まといだと思われたくない――その一心で、彼女は必死に唇を引き結び、無理やりでも作ったような明るい笑みを顔に貼り付ける。
「あっ、はい……! そうですよね、もう謝ったりしません!」
空回り気味ではあるが、その瞳に再びかつての誇りを取り戻そうとする光が戻ったのを見て、アッシュはふっと鼻を鳴らした。
「で、だ……」
アッシュは怪訝そうに眉を寄せ、目の前に立つ王都の精鋭たちを見回す。
「こんなところまで何しにきたんだ? ってか、その妙な格好はなんだよ? お前たち、まさか……」
問われたリッカは、自分が担ぐ槍の柄から重そうな荷袋を軽く持ち上げ、少しだけ自嘲気味な笑みを浮かべた。
「実はな、アッシュ――」
*
王都グラナディアの冷たい石造りの広間。
二人の絞り出すような、しかし決して逃げない言葉を聞き届けたミネア王は、わずかに目を伏せ、思案するように顎に手をやった。
「それでは、判決を言い渡す――」
ミネア王の静かな声が、広間の天井へと冷たく響き渡った。
「リッカ・イ・ルシルヴァ。お前は明朝をもって、王都槍術師団殲滅部隊隊長の任を解く。王都グラナディアからの追放処分とする」
「エルフィム。お前も明朝をもって、王都魔術師団最高顧問の任を解く。同じく、王都グラナディアからの追放処分とする」
その処罰は、表向きには重罪に対する当然の沙汰として言い渡された。そして静かに閉廷を告げた後、ミネア王は立ち去り際、二人にわずかに視線を送り、こう付け加えた。
「――閉廷のあと、我が私室まで来るように」
*
王の私室の重厚な扉が閉ざされ、室内に残されたのはミネア王、そして彼の両脇を固める三人の影だった。
無言で控えていたのは、インペリアルガード――ゲンマ・キサラギ、リーフウィンド、マクシミリアンたちだ。
「来たか」
ミネア王は重々しい椅子に腰掛けたまま、静かに口を開いた。
「まず理解してほしい。元老院達は、決して絶対の悪ではない。今の歪んだグラナディアの統治において、あの者たちの利権と保身もまた、国の体制を繋ぎ止めるための歯車として必要なのだ。考え方こそ私とは真っ向から異なるが、あ奴らもまた、グラナディアの体制を守ろうとする者たちに違いはない」
王は一呼吸置くと、鋭い眼光を二人に向ける。
「ゆえに、今ここで彼らと真っ向から対立し、国を割るような争いを起こすわけにはいかぬ。今回の件で追及を強める元老院の不満を宥めるため、あえて『追放処分』という形式をとったのはそのためだ。……だが、この世界に撒かれた人造魔法石の脅威の種は、いつ芽吹くかもわからん。そこで、お前たちに密命を与える。世界の安寧のため、その身分を隠し、諸国を放浪しながら、『人造魔法石』の残滓を調査し、隠密裏に報告せよ――」
予想もしなかったミネア王の言葉に、驚きを隠せぬ二人。
それはあまりにも壮大で、途方角もない王の真意。その重圧にエルフィムは唇を噛みしめたが、しかし、「放浪」という言葉にアッシュの面影をふと重ね合わせると、どこか不思議な胸の高鳴りを覚えるのだった。リッカもまた、引き締まった表情でその命を受け止める。
そんな二人を見据え、傍らに控えていたゲンマが、腕を組んだまま低く野太い声を響かせた。
「表向きは罪人として放り出されるがな……。だが、本当の戦いはこれからだ。リッカ、密命の中で磨かれる御主の武人たる高み、楽しみにしておるぞ」
続いて、そよ風のように静かな気配を纏うリーフウィンドが、ふっと薄い笑みを浮かべた。
「エルフィム、最高顧問の座などという窮屈な椅子に座っているより、風渡る大地を征くほうがよほど似合っている。魔道の探究も、宮廷の図書室より外の世界のほうが刺激的だろうさ」
最後に、歴戦の猛者であるマクシミリアンが、握りしめた拳を胸に当てると、力強く言い放った。
「リッカ殿ぉ、、、! このマクシミリアン、貴方の帰りをいつでも待ってますぞ! この身いつでも清らかに、貞操を守り抜き、、、」
しかし、その場違いな思いの丈は、その場の全員に聞き流されていた。
*
「つまり、私達もアッシュさん達みたいに、世界を旅して回ることになったんです! その日暮らしの放浪者です!!」
エルフィムは眼鏡の奥の瞳をきらきらと輝かせ、弾んだ声で言った。アッシュと同じあてなき放浪。そのピュアな胸は高鳴っていた。リッカは大きな溜息を吐く。
「アンタねぇ、そんな楽しいもんじゃないよ?」
リッカの言葉に頷くアッシュ。
「そうだぜ? 何日も風呂に入れないのなんてザラだしよ。まぁ、リッカは戦場で汗臭えのなんか慣れてるだろうけどよ」
アッシュがニヤニヤと口を挟んだ瞬間、部屋の隅で直立不動の姿勢を取っていた葬槍の姉妹の一人が、弾かれたように短槍を引き抜いた。
「きさまぁ! 今何と言った!? 姉様が汗臭いだと! ハチミツの匂いと言え!! ハチミツの匂いと!!」
「ぶっ!? ゲホッ、ゲホッ!」
アッシュは喰っていた干し肉を喉に詰まらせかけ、慌ててエールで流し込んだ。
「リッカ……お前、部下にどういう教育してんだよ……」
「ちょっと、私に振らないでよ! 私はハチミツの匂いになんてなりたくないわよ!」
顔を真っ赤にして怒るリッカの横で、シェ・ダライだけが「……ハチミツ」と、無口な強面をほんの少しだけピクリと動かし、そっと自分の手の匂いを嗅いで「……(ハチミツではない)」と静かに少しだけ悲しそうな顔をしていた。
エルフィムは不思議そうに首を傾げる。
「あら、お風呂に入れなければ、シャワーを浴びればいいじゃない?」
そのあまりにも世間知らずな言葉に、呆れ顔を隠せないリッカ。
「アンタねぇ……どこの貴族様よ? 野営の度に、都合良く温水なんて用意できるわけないでしょ」
「え? ほら、こうやって」
エルフィムが愛用の木杖を掲げ、短く呪文を紡ぐ。
「大気中の水分を凝縮させて、そこに暖のエッセンスを加えれば──」
宿屋の天井裏に白雲がむくむくと湧き上がり、次の瞬間、心地よい温水がザーッと恵みの雨のように降り注ぎ出した。
アッシュのエールが薄まり、リッカのブロンドの髪が濡れていく。
「――ほら、これでいつでも温水シャワーが浴びられますよ?」
エルフィムは満面の笑みで言った。
「……あのさあ、エルフィム」
アッシュは生温く薄まったグラスを呆然と見つめながら、ぽつりと言った。
「お前のその、才女たる至高の才から生まれる『世界最高峰の無駄遣い』の術理、今すぐ消してくれねえか? 俺のエールが台無しだ、、、」
◇
「さて、こいつらも饗してくれるんだろうな? ハセミ!」
びしょ濡れになった頭をタオルで拭きながら、アッシュは豪快に笑い飛ばした。
「当たり前だろっ! アンタのダチは、アタシのダチだよ!? 言われなくても、最高の席を用意してやるさね!」
ハセミの声に合わせて、宿の奥から次々と運び出されてきたのは、スパイスの効いた巨大な串焼き肉、山盛りの豆の煮込み、そして木製の大きな樽に満たされた濃厚な地ビールだった。
こうして、サフィール「銀の雨蛙亭」の夜は、旅立ちを祝う盛大な宴へと突入した。
賑やかな酒盛りの輪の中で、ひときわ異彩を放っていたのが、葬槍の姉妹たち――リッカを送り出すために付き従ってきたヒルダ、アイネ、ミサーシャの三人と、二十人余りの隊員たちだった。ひしめく銀の雨蛙亭の中、戸惑いの表情でリッカに視線を送る部下たちに、リッカは軽く微笑み、頷く。
その後ろから、アッシュが豪快に肩を組んできた。
「おい、お前ら! 突っ立ったままでないで座れよ。ハセミの飯は絶品だぜ?」
アッシュがドンと空いた席を叩くと、三人は少し気まずそうにしながらも、それぞれの個性を爆発させながら腰を下ろした。
天真爛漫なミサーシャは、目の前に置かれた巨大な肉の塊を見るなり目を輝かせ、「わぁ……おいしそう……。一口もらってもいいですか?」と、言いながら、既に口に運んでいる始末。
かと思えば、ヒルダは冷静な眼差しで「ミサーシャ、行儀が悪い。……しかし、この絶妙なスパイスの配合……ハセミ殿、いったい隠し味に何を……」と、すっかり料理のレシピに夢中になっている。
そして――一番端に座っていたアイネが、ガサツにジョッキを傾けてビールをあおり、乱暴に口元を拭った。彼女はギロリと鋭い獣のような目を光らせ、じっとアッシュを睨みつける。
「おい、アッシュ」
低く、地を這うような野性的な声が響く。周囲の空気が一瞬だけピリッと引き締まった。
「なんだよ、おっかねーな」
「ふん……。アタシはな、ずっと思ってたんだよ。お前みたいなゴロツキみてぇなのが、どうしてあんな化け物を倒せたのかってよ」
アイネは身を乗り出し、その鍛え上げられた分厚い胸板をアッシュの目の前に迫らせた。彼女の肌には、数々の死線を潜り抜けてきた者だけが持つ無数の擦り傷が生々しく刻まれている。
「認めたくはねぇが……自分の身を顧みず、巨大な化け物に単身突っ込むその馬鹿さ加減……!」
アイネの頬がわずかに紅潮し、その瞳には熱狂的なまでの尊敬の光が宿っていた。彼女にとって「強さ」と「覚悟」こそがすべての基準だった。
「――ぶっちゃけ、最高にイカれてやがったぜ! アンタ!」
「ぶっ、ゴホン……!」
アイネがバチンと豪快にアッシュの背中を叩いた。鍛え抜かれた女戦士の渾身の掌撃は、かさぶたの剥がれかけたアッシュの体にダイレクトに響き、彼は盛大にむせ返った。
「いてっ! おい、加減を知らねぇのかお前は! 殺す気か!」
「そんなか弱いタマかよ! あのイカレっぷりに、噂以上のバケモノだと思ったがよ、近くで見ると案外人間臭いじゃねぇか!」
アイネは嬉しそうに歯を剥き出しにして笑うと、自分のジョッキをアッシュのそれに勢いよくぶつけた。カンッ、と乾いた高い音が店内に響く。
「おい、アッシュ。今度どっかの荒野でぶつかったとき、どちらが先に巨大魔獣をブチ殺せるか勝負だ。逃げ隠れしたら、背中から槍で突っ込んでやるから覚悟しとけよ!」
「ハハハ、物騒な誘い方すんじゃねぇよ……。だが、いつだって受けてやるぜ?」
呆れながらも、アッシュは苦笑を浮かべてビールを飲み干した。
◇
そんな賑やかな喧騒のなか、カウンターの片隅では、コナが手際よく仕上げた特製の生菓子がそっと差し出されていた。
木製の小皿の上に載せられているのは、新鮮な生乳を贅沢に使った真っ白な生地に、鮮やかな深紅の木苺ソースがトロリと回しかけられた一品だった。
甘い物に目がないエルフィムは、真っ先にその菓子を見つけると、木製のスプーンでそっとすくって口へ運んだ。
次の瞬間、エルフィムは「んまぁ……!」と目を丸くし、普段の澄ました顔も忘れて頬をゆるませる。
「す、すごい……! 赤ちゃんのお肌みたいにふわっと柔らかいのに、噛むともちっとした心地よい弾力があって……そこへ生乳の濃厚なコクと、甘酸っぱい木苺のソースが完璧に調和して……コナさん!これ、まるで魔法です! あなたは凄腕の菓子作り魔法使いです!」
生粋の魔導士であるエルフィムからの「魔法」という最大の絶賛に、コナは大きな瞳を輝かせ、照れくさそうにはにかんだ。
「ホント!? 魔法使いだなんて言われたの初めて! えへへ、そう言ってくれると嬉しいな。いっぱい作ったから、たくさん食べてね!」
◇
アイネの奴め、相変わらず手加減を知らない馬鹿力を……と内心で呆れながらも、リッカは手元のエールを一口飲んでフンと鼻を鳴らす。
「……やれやれ。こんなガサツな男に、部下たちがこうも丸め込まれるなんてね」
いつの間にか隣に腰を下ろしていたリッカの言葉に、アッシュは乾いたタオルで首筋を拭いながら、ニヤリと口元を緩める。
「おや、これまた堅物そうな隊長さんじゃねぇか。お前の部下たちは、お前とは違って素直でいい奴らばかりだぜ?」
「は……? 誰が素直じゃないって?」
ぴくりとリッカの眉が跳ね上がり、その青い瞳に戦闘的な光が灯る。いつもの、一歩も引かないツンとした気性の荒さが戻ってきた。
「ほら、そういうとこだよ。ま、それはそれでお前らしくて良いんだけどな。せっかくの餞別だ。少しはましな顔でもしろよ、元・最強の隊長さん?」
「っ……! 私はいつでも真面目だ! お前みたいにヘラヘラと……!」
言い返しつつも、リッカの頬はほんのりと赤らんでいる。それは怒りからか、それとも酒のせいか、あるいは――。
アッシュはそんなリッカの横顔を見て、面白そうにからかうように肩をすくめた。
「はいはい、そんじゃあ折角だ。放浪初心者向けの特別講座ぁーっ!ってことで、まずは安全な荒野の歩き方でも教えてやろうか?」
「ふん、誰がお前の世話になんか……! こちとら王都の精鋭と謳われた身、一人でいくらでも生き延びてみせるわ!」
口ではそう強がりながらも、リッカの口元には隠しきれないわずかな笑みが漏れていた。
少し離れた席ではエルフィムがコナの生菓子に舌鼓を打ち、アイネたちがさらなる酒を要求して大暴れしている。
窓の外では冷たい夜風が吹き荒れているというのに、銀の雨蛙亭の中だけは、明日から始まる過酷な放浪の旅への熱い決意と、むせ返るような生気で満ち溢れていた――。
◇
銀の雨蛙亭の夜は、際限なく続くかのように賑やかだった。
だが、どんなに騒がしい宴にもやがて終わりは訪れる。酔いつぶれた者たちが床のあちこちで寝息を立て始め、囲炉裏の火がパチパチと音を立てて小さく萎んでいく頃、店内にはしんとした夜更けの静寂が戻ってきた。
放浪者に感傷的な時間は必要無い。
どうせ明日になれば、それぞれの荒野へ足を踏み出すのだから――。
◇
白々と夜が明け、冷たい朝の光がサフィールの街並みを照らし出す頃、銀の雨蛙亭の表には旅装を整えた面々が揃っていた。
「リツ姉……本当に、行っちゃうの?」
赤く腫れぼったい目をこすりながら、ミサーシャがぐずぐずとリッカの袖を掴んで離さない。その背後では、ヒルダやアイネ、そして二十人余りの葬槍の姉妹たちが、言葉を飲み込みながら痛切な眼差しでリッカを見つめていた。
「いつまでも甘えるな。……留守の間はヒルダ、お前に任せる。皆をしっかり束ねておけ」
「はっ……! 姉様のご意志、このヒルダ、命に代えても違えません! 必ずや葬槍の姉妹の名に恥じぬ組織を守り抜いてみせます!」
ヒルダは涙をこらえ、胸を張って力強く敬礼した。アイネもまた、ぶっきらぼうに腕を組みながら「……さっさと帰ってこいよ、姉貴」と、柄にもなく寂しげな声を漏らす。
部下たちの温かくも涙に濡れた見送りに、リッカはわずかに胸を熱くしながらも、ぐっと引き締まった笑みを浮かべて頷いた。
「――それでは、行ってくる。元気でな」
背中を向けて歩き出すリッカとエルフィム。その後を追うように、アッシュもまた愛用の革鎧の肩を鳴らしながら一歩を踏み出す。赤黒い革の手甲のベルトを締め直し、戦闘の記憶が染みついた左手を落ち着かせると、その傍らには、いつの間にか身支度を終えて無言で佇むシェ・ダライの姿があった。
「さて……俺たちも、そろそろ行くかよ」
アッシュが片手を軽く上げて告げると、宿の入り口で見送るハセミが、寂しさを隠すように威勢よく声を張り上げた。
「おい、アッシュ! シェ・ダライ! あんまり無茶な稼ぎで死ぬんじゃないよ! 次に来たときは、全財産巻き上げるくらい饗してやるからね!」
「ハハ、そいつは楽しみだ。ハセミ、飯美味かったぜ。元気でな」
リッカとエルフィムも足を止め、最後にアッシュへと視線を向ける。
「……アッシュ。あんたも、道中で野垂れ死にしたりしないでよ」
「へっ、野垂れ死ねるほどか弱くねぇよ。お互いな。……もっとも、同じ荒野の片隅にいるからって、俺の稼ぎの邪魔しにくるんじゃねぇぞ」
「ふんっ、お前の受ける仕事を片っ端から片付けて、干乾びさせてやるよ」
「暇人かよ、ちゃんと人造魔法石追ってろ」
「ちょっとリッカ、何言ってるのよ……! ……アッシュさん、気にしないでくださいね。また何処かでお会いできる日を楽しみにしています。どうかお元気で」
リッカがフンと鼻を鳴らしそっぽを向き、その隣でエルフィムが少しだけ目を潤ませながら小さく頭を下げる。
ふと、アッシュは「そうだ」と、足を止めた。
彼は無造作に自分の懐へ手を突っ込み、ゴソゴソとなにかを探る。そして、指先で引っ張り出したそれを、エルフィムに向けて放り投げた。
ポン、と軽い音を立ててエルフィムの手のひらに収まったのは、かつて彼女から報酬として受け取った、あの白金貨だった。
「返しとくわ」
ニヤリと口元を緩めながら、アッシュはぶっきらぼうに言い放つ。
「お前の覚悟は十分に払ってもらった。そいつはその抜け殻だ。……それに、ここまで大層なもんだとよ、物の買い出しのときにいざ出そうとしても、街の店じゃなかなか売り捌けねーんだわ。こちとらその日暮らしの傭兵だからよ、あんまり眩しすぎる代物はかえって御荷物なのさ」
それはただの照れ隠しか。それとも、彼女の半生の証を、彼女自身の手へ戻してやっただけなのか。
白金貨の冷たい重みを受け止めながら、エルフィムは眼鏡の奥の瞳を大きく見開いた。胸の奥が熱くなり、堪えきれずにあふれ出た涙が、丸いレンズをぽつりと濡らしていく。
それを見たリッカは「ホント、喰えないヤツだ……」と呟きながら、親友に戻された半生の証を内心喜んだ。
「アッシュさん……っ……!」
震える声で頭を下げるエルフィムに、アッシュは「じゃあな」と片手をひらりと振るだけで、背中を向けた。
◇
晴れ渡る空の下、どこまでも続く乾燥した土を踏みしめながら、風の向くまま気の向くまま。アッシュとシェ・ダライの二人が荒野へと歩み出す。
流れていく雲を見ながら、アッシュはふと呟いた。
「そろそろ乾季も終わるか。じめじめと暑苦しい雨季に入る前に、カラッと涼しい北方へ向かうかよ。先ずはやっぱサンクトスだな」
北方の農耕地帯サンクトスでは、この季節限定でホップの効いた麦酒を醸造する。あの喉を穿つような鮮烈な苦味を思い出し、アッシュが小さく喉を鳴らすと、何気無しに腰のポーチのあたりをペタペタと探った。
……ん?
歩みを止め、アッシュは渋い顔をして自分の荷物をあさる。ハセミの宿を発つバタバタですっかり忘れていた記憶が、脳裏の片隅から蘇ってきた。
「あ、やべ……塩買うの忘れた……
また、味の無い日々かよ……」
隣を歩くシェ・ダライが無言でチラリと視線の先に向ける。その虚ろな眼差しが無言で「またか」と語っている気がして、アッシュは天を仰いで深いため息をついた。
苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、アッシュはふっと自嘲気味に笑うと、再び前を向いて歩き出す。
果てしない荒野の風が、放浪する彼らの背中を静かに押していった。




