第十一章 疾走る者たち
重厚な黒曜石の扉が、地鳴りのような音を立てて内側から開いた。
追撃の手を緩めず、外から扉を叩き続けていた兵士たちが一斉に身構え、槍の尖端を突きつける。 だが、現れた人物の姿を目にした瞬間、彼らは一瞬だけ気圧されたように固まった。
秘庫からゆっくりと歩み出てきたエルフィムの顔には、もはや追手から逃れようとする焦りも、いつもの穏やかな面影もなかった。 ただただ、魂を抜かれたかのように蒼白で、虚ろな双眸が影を落としている。眼鏡の奥の瞳は焦点すら合っておらず、その頬には乾ききっていない涙の痕が、うっすらと白く残されていた。
「……エルフィム様」
警備隊の隊長が、居心地の悪そうに一歩前へ出た。才女として王都に名を馳せる彼女に対し、最大限の敬意を払いながらも、その声には元老院の命を預かる者の冷徹さが混じる。
「元老院の命により、身柄を拘束させていただきます。秘庫への不法侵入、および機密文書の閲覧……申し訳ありませんが、ご同行願います」
エルフィムは反論どころか、一言も発しなかった。 差し出された鉄の枷に対しても、ただ差し出された腕を素直に委ねるだけだった。そのあまりに無抵抗な姿は、兵士たちに不気味なほどの寂壮感を感じさせた。
──王都の地下深く、静寂が支配する最深牢獄。 冷たい石壁に囲まれた小さな独房に投げ込まれても、エルフィムは身じろぎひとつしなかった。
元老院の詰問を突っぱね、己の正義を確かめるべく決死の覚悟で潜り込んだ秘庫。だが、そこで暴かれたのはあまりに残酷な真実だった。 冷え切った床に膝を抱えて座り込み、虚ろな眼差しでただ目の前の石壁を見つめ続ける。 脳裏に去来するのは、あの日、月光の下で見せたアッシュの自嘲めいた横顔と、その左手に刻まれた忌まわしき封印の痕。
自分が差し出した一枚の白金貨が、彼の手甲の封印を解き、その肉体と生命を内側から焼き尽くす薪になっていたとも知らずに。
激しい眩暈に襲われたように、エルフィムは胸元をぎゅっと掻きむしり、浅く荒い息を吐き出した。過ちの大きさに視界が歪み、とめどなく溢れ出す冷や汗が蒼白な頬を滑り落ちていく。 胸を押し潰すような後悔が波のように寄せては返し、彼女はその場にさらに深く丸まり、身を震わせるしか出来なかった。
「アッシュさん……っ……」
膝に顔をうずめ、エルフィムは誰にも聞こえない声で漏らした。 王都を去った『葬槍の姉妹達』がすでに遥か南のサフィールへと立ち去ったことも知らず、暗闇の中で過熱する思考は、自責の念という底なしの泥沼へどこまでも落ちていくのだった。
◇
アル・ザハル王国の国境を越え、乾燥した風が吹き抜ける交易都市サフィール。
アッシュの出立を知るや、未明の王都を飛び出してきた『葬槍の姉妹達』。一刻も早く追いつかんと強行軍の末、ようやく辿り着いたサフィールの街並みを前に、隊長のリッカは郊外の陰で低く冷厳な声を発した。
「いいか、我らの目的は二つ。アッシュより先に『円環の双蛇』を見つけ、叩き潰すこと。そして、あの男の手からエルフィムの白金貨を取り戻すことだ」
部下たちに言い渡したその二つの目的──しかし、リッカの胸の奥底にある、アッシュに対する強烈な対抗心や複雑な葛藤までは誰にも明かさない。
リッカは手にした長槍の柄を、指の節が白くなるほど強く握りしめた。奥歯を噛み締め、どこか遥か遠くを見据えるその瞳には、焦燥と意地が入り混じった鋭い光が宿っている。 小さく、硬い息をひとつ吐き出すと、彼女は一瞬で隊長としての冷徹な顔つきへと戻った。
「手分けして町に入り、敵の足取りを追う。散開せよ」
裏路地の密売人や酒場の裏役に金を握らせ、あるいは刃をちらつかせて『円環の双蛇』の尾を追う強引な聞き込み。休む間もなく夜を明かし、太陽が南天を過ぎて再び傾き始めても、有力な手応えは得られなかった。焦燥を隠しきれぬまま、彼女たちはサフィールの街中を駆け回っていた。
──そして、翌日の夕刻。
賑やかな大通りから外れた薄暗い路地裏。 聞き込みを終えて合流したリッカたちの前に、荒い息を吐きながら一人の男が崩れ落ちるように倒れ込んできた。ボロ布のような服を纏い、肌は蒼白で、腕には凄惨な術式の痕のような変色が見える。
「た、助けてくれ……! あんたら、旅の冒険者か、それとも傭兵団かい……!?」
リッカの眼光が鋭くなり、長槍の柄を握る手にぐっと力がこもる。
「……何者だ」
「逃げ出してきたんだ……あいつらの実験場から! 『円環の双蛇』の奴らからだ!」
男は怯えたように周囲を気に病みながら、震える手で懐から一粒の怪しい石を取り出してみせた。不気味な蒼い光を放つ『人造魔法石』の破片。それを見た瞬間、リッカと副隊長ヒルダの表情が変わる。
「奴らは……サフィール南東の遺跡群の地下に潜んでいる。この蒼い石を使って……人を、人間をさらっては恐ろしい人体実験を繰り返しているんだ……!」
男は涙と汗にまみれた顔で、縋りつくようにリッカを見上げた。
「俺は運よく抜け出せたが、あいつらは今……あの石の魔力で『強大な化け物』を作り上げようとしている! あれが完成すれば、一気に王都へ侵攻してすべてを灰にする気だ!今すぐ止めないと……大変なことになるぞ……っ!」
「姉様、お待ちください。話が出来すぎている……罠の可能性があります」
ヒルダがリッカの肩を覆う外蓑の端を深く掴み、強く制した。
だが、リッカの鋭い眼光は微動だにしなかった。彼女にとって、それが罠かどうかなど最初から愚問だった。
「罠だろうと何だろうと構わん。化け物ごと奴らを叩き潰し、殲滅するまでだ」
吐き捨てられる冷徹な一言。 敵の本拠地を叩き潰し、アッシュの手から白金貨を取り戻し、エルフィムのもとへ帰る──その誇りと焦燥が、リッカに一切の躊躇を許さなかった。
「ハッ、流石は姉貴だ。退屈させねぇや!」
リッカの斜め後ろで、身の丈ほどもある武骨な重槍を肩に担ぎ直し、口元を獰猛に歪めたのはアイネだった。ヒルダが「アイネ!」と咎めるように振り返るが、アイネは不敵な笑みを浮かべたまま、重槍の柄を軽く叩いて好戦的な瞳で薄暗い路地の奥を見据えている。
リッカは長槍を力強く握り直し、倒れ込む男を見下ろした。
「あとは我らが引き受ける。場所を教えろ」
「あ、ありがとう……助かった……!」
恐怖に引きつっていたはずの男の瞳の奥で、暗い歓喜の光が爆ぜた。 『葬槍の姉妹達』は、暗雲垂れ込めるサフィール南東の遺跡群へと足を踏み入れていくのだった。
◇
西の空が深く昏い茜色に染まる夕刻。 『銀の雨蛙亭』の店内には、夜の営業に向けた静かな刻が流れていた。
看板娘のコナが、手際よくテーブルを拭き、ランプのホヤを磨いて明かりを灯していく。その傍ら、カウンターの端ではアッシュがいつものようにグラスを傾け、安酒の琥珀色をただじっと見つめていた。その隣には、重厚な沈黙を纏ったシェ・ダライが腕を組み、微動だにせず座っている。
静寂を破るように、店の扉が静かに開いた。 この街の闇に潜み、丹念に敵の動向を探り続けていたハセミが戻ってきたのだ。
彼女は一瞬だけ店内の様子を窺うと、足音を消してカウンターのアッシュの隣へと歩み寄る。
「……戻ったよ」
低く抑えられた声に、シェ・ダライがゆっくりと片目を開け、アッシュはグラスを置かずに視線だけを向けた。
「例の南東の遺跡群だがね。ようやく絞り込めていなかった『蛇』の具体的な潜伏層がつかめたよ。大崩落で複雑骨折を起こした地下網の……一番深い第四層の隠し区画だ。そこで人造魔法石を使った不穏な実験を進めているらしい」
「……そうか」
短く応じるアッシュの言葉を聞き届け、ハセミは煙管の灰をトントンと落としながら、さらに声をひそめて続けた。
「それと……もうひとつ、妙な話がある。ここしばらく、街の中を不格好に嗅ぎ回っていた連中がいてね。王都の流儀で、酒場や裏路地の連中に強引な聞き込みをして歩く武者仕立ての女たちさ。恐らく『葬槍の姉妹達』……彼女たちだろう」
アッシュの眉が、ピクリと小さく跳ねた。
「あの連中が、何故サフィールにいる」
「目的は、アンタと同じみたいだねぇ。ただ、探り方が露骨すぎたよ。サフィールの情報網を舐め切っていたね。王都の正義感を振りかざして一晩中嗅ぎ回ってたんだ、蛇どもからすりゃ丸見えさ。……実を言うとね、さっきその彼女たちの姿が街からフッと消えたんだ。向かった先は……まあ、察しがつくよ。不格好に臭いを振りまいていたんだ、蛇どもにうまく食いつつかされたんだろうね。あの入り組んだ第四層で、夜な夜な作った化け物の餌にでもならなきゃいいけどさ」
ハセミの言葉に、店内の空気が一気に張り詰めた。
「……チッ、馬鹿な奴だ」
アッシュはグラスの酒を一気に飲み干すと、カウンターに手垢のついた銀貨を放り投げた。その手に迷いはない。
「シェダ、支度だ」
アッシュの言葉に、シェ・ダライは何も問わず、ただ無言で深く頷いた。巨体を揺らしてゆっくりと立ち上がると、傍らに立てかけてあった身の丈ほどもある無骨な重剣へと手を伸ばす。
二人の迷いのない動きを見届け、ハセミは煙管の煙をふうと天井へ吐き出した。その口元には、どこか呆れたような、それでいて可笑しそうな笑みが浮かんでいる。
「助けにいくのかい?」
「……」
「ハッ、妬けるねぇ。アタシもアンタに馬鹿って言われてみたいよ」
軽口を叩くハセミを横目に、アッシュは手甲の具足を確かめながら短く問いかけた。
「馬、借りれるか?」
「安くないよ?」
「分かってるさ」
アッシュの返答を聞くと、ハセミはくすりと笑って煙管の灰をトントンと落とした。
「まあ、あの入り組んだ遺跡の地下網は、アタシの案内なしじゃ迷い鼠の死体が増えるだけだからねぇ。……ちょっと待っておくれよ、アタシも支度してくる」
ハセミは煙管を置くと、急ぐ風もなくゆったりとした足取りで店の奥へと姿を消した。
アッシュとシェ・ダライが短く視線の対話を交わし、旅の荷と武器の確かめを終えた頃──奥の扉が静かに開き、ハセミが戻ってきた。
姿を見せた彼女の佇まいは、先ほどまで店を取り仕切っていた女将のそれとは一線を画していた。
身に纏っているのは、艶やかな漆黒の狩衣。革と鉄で無骨な補強を施しながらも、端々に施された美麗な刺繍が、纏う者の威風を無言で物語っている。腰帯には見慣れた鍵束とともに、数本の暗器と小太刀が手慣れた配置で収められていた。かつて諸国を荒らし回った流浪の盗賊団『チート・カラーニャ』──その首領たる証しとも言える装束は、手入れが行き届き、彼女にとってそれが今なお「いつでも着慣れた服」であることを示していた。
カウンターでグラスを拭いていたコナの手が、ふっと止まる。
呑気な酒場の空気が一瞬にして削ぎ落とされ、場を支配した死線の匂い。小さく息を呑んだコナの胸に、かつて同じ『チート・カラーニャ』として駆け抜けた日々の、あのヒリつくような緊張感が一気に蘇っていた。
「……ハセミ、私も連れてってよ!」
目を輝かせ、思わず身を乗り出したコナに、ハセミはくすりと呆れたような笑みを漏らした。
「馬鹿言っとくれ。これはただの道案内だよ? 別に死体の山を築きに行こうってんじゃないんだ。お前さんの物騒な斧槍の出番じゃないよ。大人しく留留番しておいで」
そう言ってハセミは、腰の鍵束からひとつを外すと指先でひょいと投げ渡した。放たれた鍵を手のひらで受け止め、コナは少し不満そうに口を尖らせつつも、すぐにピッと背筋を伸ばして頷いた。
「ちぇっ、分かったよ。気をつけてね、ハセミ! アッシュも、シェダも!」
コナの見送りの声に背を向け、三人は『銀の雨蛙亭』の重い扉を押し開けた。 裏の厩舎から足の速い馬を引き出し、夕闇が迫るサフィールの街並みを抜けて、暗雲垂れ込める南東の遺跡群へ向けて馬を走らせる。
──蛇たちの罠に自ら飛び込んだ『葬槍の姉妹達』。 そして、彼女らを追って夜の荒野を駆ける傭兵たち。
物語の舞台が死の匂い漂う南東遺跡群へと加速していく一方で──王都の地下最深牢獄には、いまだ重々しい静寂が垂れ込めていた。
◇
そこは、昼夜の区別すらつかぬ暗黒と、冷え切った石壁だけが広がる死の世界。
膝を抱え、冷たい床に体を小さく丸めたままのエルフィムは、ただ虚ろに闇を凝視していた。 自責の念は鋭い刃となって、胸の奥を絶え間なく削り削ぎ落としていく。己が「正義」と信じてアッシュに手渡した白金貨の重みが、いまや彼女の魂を押し潰していた。
その静寂を破り、重々しい足音が近づいてくる。
足音は独房の前でぴったりと止まった。 ゆっくりと顔を上げたエルフィムの視界に飛び込んできたのは、漆黒の道衣に灰色の羽織を纏い、腰に二本の太刀を差した初老の男──同じインペリアルガードの肩書を持つ老剣客、ゲンマ・キラサギの姿だった。
刻まれた目尻の皺と、半ば白いものが混じり始めた髪。 東の国ナルカミ出身の異国の剣士は、太刀の柄にそっと片手を添えたまま、鉄格子越しに静かな眼光をエルフィムへと向けていた。
「……ゲンマさん」
掠れた声で呟くエルフィムに、ゲンマは深々とした声で応じた。
「……エルフィム。秘庫への不法侵入、ならびに機密閲覧。元老院は御主を『国家叛逆の徒』として処断する構えだ」
「……国が私をどう裁こうと、構いません」
エルフィムは自嘲めいた笑みを浮かべ、虚ろな瞳のまま呟いた。
「私が犯した真の罪は……不法侵入などではありません。己の無知ゆえに、正義を騙り、一人の男の生命を薪のように使い潰したこと……。アッシュさんの命を削らせてしまったこの罪は、どんな罰を受けても贖いきれるものではありません。処刑でも何でも、甘んじて受け入れまて……」
静かな絶望に満ちたその言葉。 だが、同じ立場でありながら数々の修羅場を潜り抜けてきた老剣士は、眉ひとつ動かさず静かに一歩を踏み出した。
「受け入れる、か。……手ぬるいな、エルフィム」
「……え?」
「己の無知を恥じ、悲しみのまま死ねば、その罪悪も幾らかは癒されるだろう。……だがな、我が同胞よ。己が苦しみから逃れるために差し出す首に、いったい誰が救えようか。そのような首を、このゲンマ・キラサギは『贖罪』とは呼ばん」
冷徹なまでに響く低音。 エルフィムが驚愕に目を見開くと、ゲンマは腕を組み、背筋をすっと伸ばした。その佇まいは、まるで一本の古木のように揺るぎない。
「明朝、ミネア王による審問が行われる。元老院の老いぼれどもは、お前を見せしめとして処刑し、秘庫の闇をすべて隠蔽する気だ。……我が主、ミネア様もまた、元老院の圧力と王の決断のはざまで揺れておられる」
「ミネア様が……」
「先王ユノー様が崩御されてより、現王は焦っておられる。亡き兄上の威光に縋り、王としての威厳を示そうと空回りし、元老院の手のひらの上で必死に苦闘しておられるのだ……不器用なほどにな」
ゲンマの瞳に、ほんの一瞬だけ、亡き主君を思う深い情が宿る。 先王ユノーが死の間際、己の胸に遺した「あいつをよろしく頼む」という言葉。それを果たすためだけに、ゲンマはこの混迷する新政権のインペリアルガードとして留まり続けていた。
「儂はユノー様との約束のために、インペリアルガードとしてここに残っている。我が主ミネア様が、元老院の傀儡となり、真実から目を背けたまま『愚王』の道を歩むことだけは断じて赦さん。……だからこそ、同じインペリアルガードの御主に問う」
ゲンマは鉄の格子に手をかけ、鋭い眼光でエルフィムの瞳を射抜いた。
「真実を知った今、御主自身はどうしたいのだ?」
「私は……っ」
「王の前でただ膝を折り、元老院の描いた筋書き通りに首を跳ねられるか? それとも……己の犯した罪の重さをその背に背負い、どれほど泥を啜ろうとも、自ら削り削ぎ落とし、なお笑いながら征くあの男のために抗うか?」
「……相変わらず重苦しい話が好きだな、この頑固親父は」
暗闇の天井近く、牢獄の太い梁の上から、鈴の跳ねるような低い声が降ってきた。
気配もなく舞い降りたのは、深緑の革甲冑に身を包んだしなやかな影──長弓を背負い、黄金の髪の隙間から尖った耳を覗かせたエルフ、リーフウィンドだった。 風の精霊を従える隠密の達人は、音もなく足元に着地すると、細い指先で弄んでいた風をふっと散らしてみせる。
「リーフ……なぜ、ここに」
「見張りなら今頃、心地よい風の歌を聴いて眠りこくっているさ」
呆れたように薄い唇を鳴らし、リーフウィンドは尖った耳を小さく揺らした。
「サフィールへ飛び出していったリッカといい、ここで大人しく首を差し出そうとしているお前といい……まったく、人の子とはどれだけ手を焼かせれば気が済むのだか。既に盟約は切れているというのに、私の苦労は増える一方だ」
黙然と佇むゲンマの横で、リーフウィンドは格子越しにエルフィムへ冷ややかな、けれど突き放しきれない視線を向ける。
「だが、ただ見過ごすわけにもいかないからね。この憐れな幼子が、己のしでかしたことにどう落とし前をつけるのか……私が見届けるのは、それだけだ」
リーフウィンドの言葉の奥にある確かな温もりに、エルフィムの胸が熱くなる。 罪の意識に押し潰され、死をもって逃げようとしていた己の弱さを、老剣士の喝と、見守り続けてくれていたエルフの視線が容赦なく暴き、叩き起こしてくれたのだ。
エルフィムはぐっと唇を噛み締め、両手で固い石床を押し拭うと、震える膝に力を込めてゆっくりと立ち上がった。
眼鏡の奥の瞳に、虚ろな影はもうなかった。そこにあるのは、自らの罪をすべて背負い直した者の、青く澄んだ決意の光だった。
「……私は、抗います」
まっ直ぐに二人の同僚を見つめ返し、エルフィムは毅然とした声で言い放つ。
「ミネア王の御前で、元老院の思い通りにはさせません。……生きてこの牢を抜け出し、どれほど泥を啜ろうとも、アッシュさんの元へ行きます。私の無知で奪ってしまった彼の命と未来に……私自身のすべてをかけて向き合うこと。それが、私の罪滅ぼしです」
その言葉を聞き届け、ゲンマの厳めしい口元がほんのわずかに綻んだ。 リーフウィンドが腰から失敬した牢の鍵を差し込み、静かに回すと、重厚な鉄格子が軋んだ音を立てて開く。
「……上等だ、エルフィム」
ゲンマは力強く頷き、暗闇の奥──王都の外へと続く脱出路を示した。
「明朝の審問など待つ必要はない。御主は今すぐに、あの男の元へ疾走れ」
リーフウィンドは腰の帯から小振りな鍵を取り出すと、エルフィムに向かって無造作に放り投げた。
「裏の厩の鍵だ。すでに国家叛逆の大罪人、いまさら馬を1頭盗んだところで大差ない。奥に繋がれたたてがみの長い白馬が一番の駿馬だ。サフィールまで半日とかからない」
「……感謝します、ゲンマさん、リーフ」
受け取った鍵を握り締め、エルフィムは二人に深く頭を下げると、二度と振り返ることなく駆け出していった。




