第十章 枷
静まり返った深夜の『銀の雨蛙亭』。
カウンターの端。アッシュはハセミが出した塩魚の炙りをつまみながら、酒をあおっていた。
すぐ隣には、シェ・ダライが腰を下ろしている。髪を剃り上げた丸坊主の頭。岩を削り出したかのような筋骨隆々の巨躯。背には、布で包まれた巨大な重剣。強面の顔に険しい表情を浮かべたまま、じっと座っていた。
僧兵ゆえ、酒には一切手を付けない。だがカウンターには、ハセミが出した大盛りの炙り肉や山盛りの雑穀飯の皿が、幾つも空になり積み上げられている。
食べる。食べる。さらに食べる……。
その豪快な食いっぷりに感嘆の息を漏らすコナ。
そんな視線を微塵も気にすること無く、ただ黙々と目の前の料理を貪っていた。
アッシュが呑む酒はサフィール産の多肉植物から作られる、癖のある蒸留酒だ。内陸のこの街まで運ばれてくる魚は、どれも強く塩を振って干されたものばかりで、口に含めば舌が痺れるほどの強い塩気が弾ける。魚特有の脂が滲む皮目の香ばしさに、喉を焼くほどに硬く癖の強い酒。その肴として、これ以上のものはなかった。
「……思い出すねぇ」
グラスを拭きながら、ハセミがふっと目を細める。
「あんたが初めてこの店に流れてきた夜のことさ。あの時も、そうやって静かに飲んでたっけ」
アッシュは答えず、ただ杯を傾けた。
あの夜。
酒の勢概念に任せた五、六人のゴロツキどもが店に上がり込み、大層な態度で暴れ回っていた。隣の客を追い出し、テーブルを叩いて酒を要求する。逃げ出す客を見て愉快そうに笑う。
すっかり店を自分たちの占領下においた気になり、イキり立っていた連中が最後に目をつけたのが、カウンターの端で黙って呑んでいたアッシュだった。
「おいおい兄ちゃん、周りの客がみんな逃げ出してんのに、気取って一人で飲んでんじゃねえよ」
「なんだテメェ、ツラが気に食わねえな。この店の酒、俺たちに全額奢ってもらおうかぁ?」
下品な大笑い。頭格の男がアッシュの肩をガシッと掴み、周りの連中もヘラヘラとニヤつきながら手を出してくる。
ハセミがカウンターの下から棍棒を引き抜こうとした、まさにその時だった。
アッシュは、眉ひとつ動かない。足元に立てかけられていた使い古しの竹箒を、ごく自然な動作で手に取っていた。
次の瞬間──動きが弾けた。
肩を掴んでいた男の顔面へ、箒の穂先を雑巾のようにドスッと押し当てて視界を奪う。「うわっ、目が──!」と男がのけぞる間もなく、しなった竹柄の反動を利用し、みぞおちへ容赦ない一撃を叩き込んだ。
「がハッ……!?」
崩れ落ちる男を足蹴にして別のゴロツキへぶつける。間髪入れずに箒を反転させる。驚きに固まる二人目の首筋と顎の下を、硬い竹柄の先端で正確に穿った。
「ヒッ! な、なんだこいつ──」
気後れした残りの連中が武器に手を伸ばそうとするより早く、アッシュは踏み込んだ。
狭い店内のテーブルや椅子を巧みに遮蔽物にしながら、しならせた竹柄で手首を打ち砕き、膝裏を払い、急所を的確に突き穿っていく。
ゴキリ、と骨の砕ける重い音。短く途切れる悲鳴。
武器というにはあまりに頼りない掃除道具の一本で、アッシュは息一つ乱さず、まるで散らかったゴミでも掃き出すかのように、ただの作業として五、六人のゴロツキをことごとく床へ転がしていった。
文字通りの「掃除」であった。
折れた竹柄で正確に急所を突く冷ややかな眼光と、身近な道具を凶器に変える圧倒的な手慣れ感。ハセミは今でも、あの夜の光景を鮮明に覚えている。
「あの箒一本で片付けちまってさ。店を壊されずに済んだあたしは『今夜は奢らせてくれ』って、酒を注いでやったのが始まりだった」
「……そんなこともあったっけか」
アッシュは可笑しそうに小さく鼻を鳴らし、塩辛い干物の身をむしって口に運ぶ。
「そのあとだろ。ちっとばかし路銀が必要だから、暫く雇われてやるよって、街の連中が手を焼いてた『旧鉱道の惨劇』を引き受けたのは」
サフィールと外郭を結ぶ流通の要、旧鉱道に棲みついた巨獣、岩食い大蜥蜴。衛兵隊すら撤退した死地へ、アッシュはハセミの「通商路が止まると酒が入ってこなくなる」という愚痴混じりの依頼状一枚で潜り込み、たった一夜で巨大な主の太い尻尾を店のカウンターにドスンと放り投げて帰ってきたのだ。
「酒が入ってこなくなるのは、俺にとっても一大事だったからな。……でも、あのバカでかい尾肉は案外いい珍味になったろう?」
「まったく、呆れた呑み助だよ」
ハセミは呆れたように肩をすくめつつも、どこか愛おしそうに目を細めた。
「……けどまあ、おかげでうちの店も救われたよ。『あの雨蛙亭には大蜥蜴を一人で狩る化け物がいる』って噂が広まって、ゴロツキどもも滅多に悪さをしなくなったのさ」
「あんたがゴロツキに怯えるタマかよ。元流浪の盗賊団の女首領ともあろうお人がな」
「ハッ、昔の話だよ」
ハセミは磨き終えたグラスをトンと置き、アッシュの減った杯に酒をトクトクと注ぎ足す。
「今はただのしがない酒場の女亭主さ。腕も鈍る。店を荒らされずに済むなら、あんたみたいな化け物の威光だろうが喜んで借りるさね。……だからさ、あたしにとっちゃ、この店と街を救ってくれた頼もしい傭兵で、一番の上客さ。あんたがここにいる間くらい、ゆっくりさせてやるよ」
「そいつはありがてぇ」
アッシュが酒を口に含み、静かに息を吐き出した、その時だ。
「ありがたい、だなんてぇ~! アッシュったら相変わらずしれっとした顔しちゃってさぁ~」
奥の厨房から、エプロンの裾を揺らして現れたのはコナだった。丸みのある豊かな肉感とぽっちゃりとした愛嬌を漂わせ、甘ったるい声を出す。一見すると柔らかく親しみやすい佇まいだが、その身体に潜む筋肉の密度は恐ろしいほどの代物だ。
「コナ、お前さっきから聞き耳立ててたね?」
「違うってばぁ~。でも、それだけじゃないでしょ~? 『黒い霧の森』の件だって、一流の冒険者の一団が返り討ちに遭った武装集団を、たった一人で夜のうちに全員の武器叩き折って縛り上げちゃったんだからぁ~」
「ハセミの回す仕事は割がいいからな。それだけの話だ」
「割がいいのは、あんたが何事もなかったみたいに一晩で片付けて帰ってくるからだろうが」
ハセミは苦笑しながら煙草に火をつけ、紫煙を細く吐き出した。
「あの件のおかげで『雨蛙亭の仕事に手を出すと化け物に狩られる』って噂になってね。おかげでうちの斡旋業も、サフィールで一番安全で確実だって評判がついたのさ」
コナは柔らかそうな太い腕で嬉しそうにアッシュの肩をポンと叩く。
「ハセミの情報網と、アッシュの腕っぷし! ふたりが揃えば、どんな厄介事だってイチコロなんだからぁ~」
「言っとくけどね、コナ。一番の厄介事は、こいつの周りに勝手に寄ってくる連中さ」
ハセミは可笑しそうに目を細めると、煙草の灰を落としながらアッシュに視線を向けた。
「そういやアッシュ、あんた……『ピチカート・ペチカ』にもつきまとわれてるんだって?」
アッシュは眉をひそめ、酒杯を弄んだまま首をかしげた。
「は? 誰だそれ、知らねえよ。……シェダ、知ってっか?」
振られたシェ・ダライは、黙々と雑穀飯を運んでいた手をふっと止めた。喉を鳴らして口の中のものを飲み干すと、強面に微小なピクリとも変化をつけず、小さく首を横に振った。
そして、再び黙々と飯を食い始めた。
「ほら見ろ。……で、誰だよそいつ」
ハセミは呆れたように肩をすくめた。
「つれないねぇ。昔うち(チート・カラーニャ)の諜報部隊にいた小娘でさ。今は『ピチカート』とかいう、トレジャーハンター気取りの盗掘屋だか火事場泥棒紛いの一味を率いてるよ。昔、ゴブリンの集団に取り囲まれて絶体絶命だったところをあんたに救われて以来、すっかりほの字らしいじゃないか」
その名を聞いた途端、それまでニコニコしていたコナの目の色が変わった。
「はぁ? 女狐ペチカぁ!? あんのクソアマ、まだ生きてんの!?」
「生きてるどころか、あんたの知らんところでアッシュの足取りを必死に追っかけてるよ。かわいそうにねぇ」
「かわいそうなのはアッシュでしょぉ~!? 諜報部隊とか、あんなのただのハニトラ要員っしょ? あんな色目遣いしか能のない小狡い女、絶対に近づけさせちゃダメぇ!」
ハセミがくっくっと肩を揺らして笑う横で、アッシュは心の底から嫌そうな顔で溜め息を吐いた。
「ゴブリンの集団だぁ? そんなもん、いちいち覚えてねえよ」
ゴブリンは光り物を拾い集める習性があり、時には高価な宝石を抱え込んでいることもある。
群れを成せば熟練の冒険者すら命を落としかねない脅威だが、アッシュにとってみれば、気が向いた時に間引く程度の丁度いい「小遣い稼ぎ」でしかなかった。
「あんたにとっちゃただの小遣い稼ぎだったんだろうよ。だが、助けられた側にとっちゃ運命の白馬の騎士ってわけだ」
「ちょ、余計な尾ヒレをつけるな」
アッシュは吐き捨てるように言い、残っていた酒をぐっと喉へ流し込んだ。
空になったグラスが、カツンと乾いた音を立てて木製のカウンターに置かれる。
その横で、ちょうど全ての料理を平らげ、ふたたび無言に戻ったシェ・ダライはピクリとも動かない。背に負った巨大な重剣を微動だにさせず、無口な強面にいっそう冷ややかな影を落として佇んでいる。その異様な圧迫感が、賑やかだった店内の空気をゆっくりと冷やしていく。
「……で、調べ物の進捗はどうだ?」
アッシュが視線をハセミへ戻す。追憶と軽口の空気は完全に霧散し、そこには冷徹な傭兵の目が戻っていた。
ハセミもまた煙草の煙をくゆらせながら、ふっと笑みを消す。
「サフィールの南東に点在する旧王朝時代の遺跡群が有力なのは間違いないよ。だが、古い大崩落のせいで地下の網の目が複雑骨折を起こしててね。具体的にどこの層に潜んでいるかまでは、まだ絞り込めてない」
ハセミは煙草を灰皿の縁でトントンと叩き、声を少し落とした。
「……だがね、それより面白い話を耳にしたよ。王都からの知らせさ──あの『葬槍の姉妹達』が、隊ごと丸ごと姿を消したそうだ」
「……何?」
「逃げたのか何なのか、軍の許可も得ずにねぇ。隊長の奴が何をトチ狂ったか知らんが、二十人余りの部下と共に兵舎から抜け出したらしい。今頃、王都の元老院は大騒ぎさ」
アッシュは深く、溜め息を吐いた。
ハセミはアッシュのわずかな反応を見逃さず、探るような目を向けた。
「心当たりがありそうな顔だねぇ、アッシュ」
「……さあな。でも、相変わらず、暑っ苦しい連中だってことだけは知ってる」
脳裏に浮かぶのは、直情径行を絵に描いたようなリッカの顔だ。
リッカが何を考えているのか。何を求めて走り出したのか。そんなことは、アッシュにも知る由もない。
ただひとつ言えるのは、あの女の無鉄砲さは、昔から何ひとつ変わっていないということだけだ。
余計な厄介事が転がり込んできそうな予感。リッカが走れば、あの忠実な妹たちが黙って見送るはずもない。
「ふん……その暑っ苦しい連中が、揃いも揃って何仕出かそうっていうんだろうね。もしかして、あんたのことを追ってるとか? ペチカのことといい、ハハハ、色男はツライねぇ。ほんと、妬けるよ」
ハセミは可笑しそうに紫煙をふっとアッシュの顔へ吹きかけた。アッシュが露骨に嫌そうな顔でそっぽを向くのを見て、満足そうに目を細める。
「まあ冗談はさておき、王都の殲滅部隊と呼ばれてる奴らが勝手に動いているとなれば、国境周辺の警戒も一気に跳ね上がるよ。約束の4日が経つ前に連中がサフィールに入ってくるようなことになったら、ことは面倒になる」
「……ああ。面倒事は嫌いだからな」
アッシュは強い酒で焼けつく喉を湿らせた。
その横で、これまで身動きひとつしなかったシェ・ダライの佇まいが、微かに張り詰めたものへと変わっていた。
◇
サク、ボリッ……と、静寂に包まれた秘庫の中に硬い音が響く。
エルフィムは腰の革鞄から次々と取り出した砂糖菓子を無造作に口へ放り込み、ボリボリと音を立てて咀嚼しながら、先王ユノーの手記に視線を走らせていた。
その緑髪に覆われた頭脳の回転速度は、常人の域を遥かに超えている。
知的な眼鏡の奥で、瞳が高速で紙面を追う。はたから見れば、ただ頁をパラパラと無意味に繰り続ける「斜め読み」にしか映らない速度。しかし、その内側では世界最高峰の才女たる脳が過剰な熱を放ち、猛烈な勢いでエネルギーを消費している。高速回転する脳を維持するため、ボリボリと砂糖菓子の甘みを貪り味わいながら、彼女の冷徹な知性が古代の記録を吸い上げていった。
だが──ある一節に差し掛かった瞬間、指がぴたりと止まった。
視線が、羊皮紙の一行に釘付けになる。
咀嚼する顎が、ピタリと止まった。
「……え、……?」
掠れた声が、彼女の薄い唇から漏れる。
そこに記されていたのは、王都の歴史から完全に抹消された、恐るべき真実だった。
かつて、先王ユノーにより王都にもたらされた『人造魔法石』に係る手記──。
そのすべての源流は、北の山にある「神々の褥」から持ち帰られたものだった。即位する以前、一介の冒険者に過ぎなかった先王ユノーが持ち帰った『人造魔法石』の精製方法と、高圧縮された古代の『天然魔法石』。それこそが、すべての元凶だったのだ。
ページを繰るエルフィムの指先が、かすかに震え始める。
手記の次なる記述が、彼女の思考を激しく殴りつけた。
『──王都に迫る絶対的な脅威に対抗するため、旧文明の失われた技術『生体との融合技術』を用いざるを得ず。余はこの過剰なる絶対の力を宿した高圧縮天然魔法石を、信頼するアッシュの左手に直接埋め込み、大陸最高純度の魔法触媒と成した。これにより、彼は「厄災の手」とし得たのである──』
「アッシュさんの……左手……」
エルフィムの脳裏に、あの男の姿が鮮烈によみがえる。いつも気になっていた存在と、その者の異様な左手。
かつて謁見の間や宴の場で見せた、軽薄な笑み。面倒くさそうに耳をほじり、ひらひらと手を振って見せる怠惰な佇まい。酒を煽り、くだらない冗談を叩き、まるで世界の重荷など何ひとつ背負っていないかのように飄々と振る舞っていた、あの男。
──その軽い身のこなしの裏で、彼は左手にどんな業を宿していたというのか。
通常「厄災の手」の団員たちが着ける手甲は、杖や聖鈴に代わる魔法の『触媒』だ。
だが、アッシュだけはそんな触媒など最初から必要としていなかった。彼自身の左手に融合された【天然魔法石】そのものが、命を喰らう規格外の触媒だったのだから。
手記は、非情な事実を追い打ちのように突きつけていた。
『──しかし、肉体に直接融合せしめた高圧縮天然魔法石の魔力はあまりに膨大であり、制御を誤れば宿主の肉体を内側から焼き尽くす。ゆえに、左手に宿る暴走を抑え込み、命を繋ぎ止める【絶対の封印】として、特製の赤黒い手甲を装着せしめねばならぬ──』
『──元老院はこの人間を触媒とする非道な処置に対し、「王都の安寧を揺るがす禁忌」と表向きは激しく猛反発してみせた。……しかし、その実、彼らが真に恐れていたのは未だ秘匿された人造魔法石の技術による「他国に対する絶対的な技術的・軍事的優位性」が脅かされること、そして王都を守る絶対的な防衛力を失うことのみであった。外敵の報が届くや、元老院は掌を返し、この処置を非公式に黙認。アッシュの犠牲の上に胡坐をかいていたのだ──』
ボロ……と、彼女の指先から砕けた砂糖菓子の欠片が落ちた。
頭の中で、すべてのピースが絶望的な音を立てて噛み合っていく。
元老院の老害どもは、知っていたのだ。
それが一人の青年を内側から苛む悪魔の実験だと知りながら、他国への優位と王都の防衛という己の都合のために反対のポーズだけを取り、最後にはアッシュという生贄を受け入れて利用し続けていたのだ。
そして彼が去った後、窃盗未遂事件が起きるや、己たちの醜悪な保身と真実の発覚を恐れ、この最深の秘庫の奥底へ手記を閉じ込めて闇に葬ったのだ。
あの赤黒い手甲は、武具などではなかった。自身の肉体が内側から魔力で焼け落ちるのを必死に食い止めるための、冷酷な【枷】であり【封印】だったのだ。
アッシュが一度術を重ねれば、山をも穿ち、巨獣の肉を爆ぜさせるほどの暴威を振るう。リッカたちが「戦鬼」と恐れるその力の正体は、命をガリガリと削りながら、左手の呪いを解き放つ地獄の行使そのものだった。
そして、手記の欄外に刻まれたユノーの痛切な述懐が、エルフィムの胸を鋭く抉り去った。
『──愛する民を守るための苦渋の選択とはいえ、一人の青年になんと残酷な呪いを背負わせてしまったことか。元老院の醜悪な保身に憤りを覚えつつも、他に術がなかった余の無力が恐ろしい。……しかしアッシュは笑って言った。「いいよユノー。アンタの手は民草を導き、抱きしめるためのものだからな」と──』
息が、止まる。
「っ……」
あの飄々とした笑顔の下に、そんな残酷な覚悟を隠していたのか。自分の手は汚れ仕事で構わないと、王と民の未来のために、そして元老院の醜い欲望すら呑み込んで、その身を悪魔に差し出すような真似を笑って受け入れたのか。
涙が眼鏡のレンズを濡らし、視界を歪ませていく。手記の記述は、さらに容赦なくエルフィムの精神を追い詰めていく。
『──魔法石の力を使い続ければ、いずれ手甲の封印すら破り、能力の暴走を抑えられなくなる。人造魔法石の精製過程に用いられる抑制技術をもって余がその魔力を安定させていたが……元老院の意向により、人造魔法石の秘術そのものを外部や一般の目に触れさせるわけにはいかなかった。ゆえに、アッシュの左手を抑え込める処置を知る者は、この王都において余を置いて他にない──』
『──能力の使用は即ち彼の生命を直接侵食し、喰らい尽くす。そして制御を失った力は、彼が愛したすべてを焼き尽くす悪夢と化すのだ──』
ぽたり、と羊皮紙の上に大きな雫が落ちた。
ユノー亡き今、彼の左手の暴走を抑え込める人間は、この世界のどこにも存在しない。能力を使えば使うほど命は削られ、やがて封印が破れれば、彼自身が守ろうとした王都グラナディアと民草を、我が手で焼き尽くす悪夢が待っている。
──故に王都を離れ、そしてそれを知りながら。
──彼は、あの夜のバルコニーで己の依頼を引き受けたのだ。
『私からの依頼として受け取ってください。仕事として……私に、あなたの剣を貸してください』
あの日、ただの傭兵として彼を雇った己の姿がフラッシュバックする。
あの時アッシュが見せた、どこか自嘲めいた笑み。己の辿る破滅をすべて分かっていながら、静かにこちらを見据えていたあの瞳。
「あ……ぁ……っ」
声にならぬ呻きが、かすかに漏れる。
何も知らなかった。
あまりにも、愚かだった。
三年ぶりの邂逅に、漣立つ胸に躍らされながら、その隔たれた時を彼が望むであろう形で埋めるように、ただの腕利きの傭兵として、金を払えば済む仕事として、自分は彼に何をやらせようとしていたのか。
王都を救うためという正義感から突きつけたあの依頼が、密かに想いを寄せる彼の生命を直接削り取り、彼を戻れぬ暴走と死の淵へ突き落としていたなんて。
「……っ……」
エルフィムは両手で顔を覆うと、小さく身を丸めた。
これ以上の言葉は出なかった。秘庫の冷たい暗闇の中、後悔と葛藤に胸をかきむしられながら、ただ溢れ出る涙を止められずに、肩を静かに震わせ続けていた。
分厚い黒曜石の扉の向こうでは、焦り狂った追手たちの虚しい打撃音が、今もかすかに響き続けていた。




