第九章 秘封と追想
石の冷気が、密やかに満ちていた。
外の世界の熱も、風のさざめきも、いっさいを遮断した王都の最深部。手にしたランタンが吐き出す黄金色の揺らぎだけが、幾重もの棚と、そこに眠る古の記憶を暗がりの中から浮かび上がらせていく。
神々の褥より持ち帰られたという、今はただの石と化した古代の遺品。
かつての王朝が誇った、毒のごとく妖しい光を放つ宝石の数々。
時を吸い、羊皮紙の油分すら失って引き攣った羊皮紙の書物。
それらは皆、死んだように静まり返り、ただ刻の塵に埋もれていた。
エルフィムの足音が、かすかに床を打つ。
幾多の古物の中を掻き分けるように進むその瞳が、ひとつの棚の前で止まった。
先王ユノーの、手記。
王都の歴史から消し去られたはずの、古の魔法石に関する記録が、そこにあった。
その時だった。
背後、秘庫へと続く石の螺旋階段の底から、硬い靴音が響いた。
ひとつではない。複数だ。
重い甲冑の擦れ合う音と、動転した男たちの緊迫した呼気が、冷えた空気を伝って忍び寄ってくる。
エルフィムは動じなかった。
振り返る動作すらどこか緩やかで、ただ吸い寄せられるように、開け放たれた重厚な黒曜の扉へと戻る。
すッ──。
内側から手をかけ、滑らかに扉を閉ざす。
ズシリと重い音が響き、外界との繋がりが完全に潰えた。
エルフィムは眼鏡の位置を中指で静かに直すと、その分厚い扉の表面へとゆっくりと両手をかざした。
「……封じよ」
口唇から漏れ出たのは、祈りか、あるいは呪詛か。
秘封の術。
先刻までこの扉を守っていた古代の魔法陣など、ただの子供騙しに過ぎなかったと思わせるほどの、恐るべき高密度の魔力がエルフィムの指先から溢れ出す。
青白い光となって走る聖刻文字。
それは無数の糸となって黒曜の表面を這い回り、隙間なく、幾重にも重なり合いながら扉一面をびっしりと覆い尽くしていった。
文字の細かさは、もはや肉眼で追うことすら叶わない。
並の術者であれば、その解読だけに生涯を捧げようとも、解くことどころか端緒を掴むことすらできぬだろう。何百年という膨大な時を費やさねばならぬほど、強固で絶望的な封印が、一瞬にしてそこに完成した。
秘庫は、完全なる孤島となった。
エルフィムは静かに手を下ろすと、ランタンを近くの棚の端へと置いた。
灯りがひとつ、静かな影を落とす。
そして、愛おしむかのように、ユノーの文献へ手を伸ばした。
革の表紙を覆う薄い埃を掠めるように残された無数の指痕。
三ヶ月前の窃盗劇の折に刻まれたものであろう。奪い去られ、こうしてあっさりと手放されたということは、既にその中身は写し取られ、用済みとなった証だった。
扉の向こう、遠い遠い闇の底から、何者かが焦り狂って喚き散らす声がかすかに響いていた。
拳で叩く音か。剣の柄で打ちつける音か。
だが、そのすべては分厚い黒曜石と絶望的な聖刻文字に阻まれ、羽虫の羽音よりも微かなものへと噛み砕かれて消えていく。
ここには、誰も来られない。
エルフィムは冷たい石壁にそっと背を預けると、床に腰を落とし、膝を抱えるようにして山座りになった。
腰の革鞄に手を入れ、小さな包みを取り出す。
包みを開くと、香ばしい焼き菓子の匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
ひとつを指先で摘み、口へと運ぶ。
サクと、極めて小さな音が口中で弾けた。
その甘みを舌の上で転がしながら、エルフィムはもう片方の手で、古びた表紙をそっと開いた。
文字を追う瞳に、秘められた歴史の影が映り始めていた。
◇
風が、湿った草の匂いを運んでくる。
人目を避けるようにして纏った質素な外蓑が、歩みに合わせて擦れ、低い音を立てていた。
王都の裏門を暗いうちに抜け、未明の霧の中を踏み出してから、すでに半日以上が過ぎていた。
目指すは交易都市サフィール。
王都から伸びる大街道を馬車で飛ばせば、日の出から日の入りまでの道のり。だが、二十名を超える武装集団が目立たぬよう街道を遠く外れ、身を隠しながら林道や荒地を踏破するには、どれほど足を早めようとも丸二日の野営と行軍を要する距離だった。
立ち止まれば足元から冷気が這い上がってくるような雑木林の中、リッカは黙々と先頭を歩く。
そのすぐ後ろには、ヒルダ、アイネ、ミサーシャの三人が塊となって続き、さらにその後方には、息殺した二十名の妹たちが気配を消して追従していた。
「おいおい姉貴ぃ」
沈黙を破ったのは、アイネだった。
外蓑の隙間から覗く赤毛のクセ毛を乱暴に揺らし、肩に担いだ重槍の重みを確かめるように鼻を鳴らす。
「あの男──アッシュってのは、本当に強いのかい?」
リッカの背中に投げかけられた声には、隠しきれない不審と、武人特有の飢えが混じっていた。
「辻馬車に揺られて、今頃はサフィールの宿で酒でも飲んでる頃だろ。術剣師団の特殊戦術部隊『厄災の手』の元隊長で、『戦鬼』なんて物物しい異名で呼ばれてたって話は知ってるさ。だが、あいつは一度だってあたしら『葬槍の姉妹達』と前線を共にしたことがねえ。眉唾もんだな。……そんなに強いんなら、ぜひこのあたしと一回手合わせ願いたいもんだねぇ」
アイネの唇が、不敵に吊り上がる。
剛腕を誇る己の槍が、その『戦鬼』とやらにどこまで届くのか。試してみたいという野性が、瞳の奥でギラついていた。
リッカは足を止めず、ただ視線だけを遠くへ投げた。
「あいつの強さは……」
低く呟いた声が、風に溶ける。
その脳裏に、かつて白銀の凍土で目撃した、あの男の戦鬼たる戦いが鮮やかによみがえっていた。
◇
吹き荒れる吹雪。
視界を奪う白魔の渦から逃れるようにして滑り込んだのは、山腹にぽっかりと口を開けた岩洞であった。
先王ユノーの時代、インペリアルガードとしてアッシュと共に与えられた密勅。
任務を終えた夜、凍えかけた体を寄せるはずだったその洞穴は──凶暴な雪岩熊の巣穴だった。
侵入者に気づいた雪岩熊が、地鳴りのような唸り声とともに身構える。
立ち上がれば洞窟の天井すら叩く、圧倒的な巨大な影。
咆哮一裂。狂暴な殺気を孕んだ巨体が襲いかかってきた瞬間、リッカはすでに地を蹴っていた。
──シュッ!
空気を切り裂く切っ先の音。
瞬速の刺突。目にも留まらぬ銀線の煌めきが、雪岩熊の懐を捉える。
急所である喉元への一撃。しかし、岩の如き硬度を誇る体毛と、鎧のごとく固まった分厚い皮脂に弾かれ、槍先はわずかに滑る。
グオオオオッ!
狂乱の咆哮とともに、振り下ろされる巨腕。
岩をも粉砕する熊掌が洞穴の壁を穿ち、砕け散った石屑がリッカの頬をかすめる。
寸前で身を躍らせ、その一撃を紙一重でかわしたリッカは、宙で体幹を捻り、着地と同時に次の一閃を放った。
虚を突く下段からの突き。続けて脇腹を穿つ連撃。
銀槍は確実に肉を捉え、赤い血を飛び散らせる。
だが──手応えが浅い。
手首に伝わってくるのは、肉を断つ感覚ではなく、強靭な肉塊に突刺を阻まれる鈍い衝撃ばかりであった。
鋭利を極めた銀槍をもってしても、その圧倒的な質量と頑強な肉体には、致命の深手となり得ない。
傷口から噴き出す血の痛みに、雪岩熊の狂暴さはかえって跳ね上がった。
視界を染める怒気。荒い吐息が白い煙となって洞内を満たし、巨獣は狭い岩穴そのものを破壊せんばかりに暴威を撒き散らす。
迫る圧迫感。狭隘な空間では逃げ場すらも削られていく。
冷汗がリッカの背を伝う。一隙見せれば、そのまま壁ごと叩き潰される死の窮地。
「おいおい、リッカ」
背後から、呆れたような、どこか退屈そうな声が届いた。
アッシュだ。
見上げるような巨獣の暴れようと、間一髪の攻防を繰り広げるリッカの姿を前にしながら、その男の瞳には微かな緊張の色すら浮かんでいない。
「こういう化け物にはよぉ、戦場で使う人間相手の小手先の戦技なんざ通らねぇんだわ。無駄に傷つけると、余計に暴れちまうしな」
すッ──。
アッシュの纏う空気が、落ちた。
そこにあった熱量が、一瞬にして削ぎ落とされる。
赤茶けた手甲を嵌めた左手を胸の前へ滑らせ、指先が複雑な型を編み出す。
指と指が交差し、結ばれる。
それを薄い口唇の前へと寄せると、舌を巻くような異常な速さで、不可解な言葉の連なりを詠唱する。
青い。
淡く、冷ややかな青い光が、一瞬、アッシュの全身の輪郭を撫でるように包み込んだ。
次の瞬間、視界から消えたと見紛うばかりの疾さで躍り出た。
地を蹴る音すら遅れて届く。
踏み込まれた足が洞穴の岩肌を砕いた時には、その影はすでに人並み外れた速度で、雪岩熊の懐深くへと肉薄していた。
迫る間合い。死の息吹が肌を刺す距離。
その目にも留まらぬ走撃の最中、アッシュの表情には微かな揺らぎすらない。
左手が間髪入れずに次の印を結び、再び口早に詠唱する。
橙。
熱気を帯びた橙色の光が、今度はその体に纏わりついた。
じわリ、と音が聞こえるようだった。
曲刀を固く握りしめた右腕。その袖の下で、紫色の太い血管が狂おしく隆起し、皮膚を押し持ち上げる。
術により過剰に引き上げられた筋力が、握られた刀身をギリギリと狂おしく震わせた。
頭上から振り下ろされる、岩をも易々と砕く巨大な熊掌。
空気が破裂するような風圧。
だが、アッシュはそこに残像だけを置き去りにし、紙一重──刃一枚分の隙を縫うようにして横へと滑っていた。
滑り込み、地を滑る勢いのまま、体幹がしなやかに跳躍へと転じる。
目標は、雪岩熊の太く、頑強な首元。
重力が無効化されたかのような滞空の一瞬。
獣の凶暴な吐息が顔を焼く至近距離で、アッシュの左手が三度目の印を結んでいた。
指先が、死を孕んだ曲刀の背を、撫でる。
どこか慈しむような、あまりにも静かな手つきであった。
「ぬうッ──」
浮かび上がったのは、赤黒く、粘つくように妖しく狂う光。
それが、吸い込まれるようにして鋼の刀身へと集中し、没していった。
「──『爆刃』」
ポツリと、呟きが漏れた。
戦場に似つかわしくない、冷めきった声だった。
跳躍の頂点。
時が止まったかのような静寂の中、アッシュの右腕が大きく引き絞られる。
熱を孕み、異様な光を宿した刃が、完璧な弧を描いて振り下ろされた。
重爆の光を宿した曲刀が迅雷の如く、渾身の力で雪岩熊の首筋、その硬質な皮膚へ深々と喰い込んだ。
瞬間──。
──どん!
洞穴の空気が一瞬で膨張し、重低音が岩壁を激しく揺らした。
雪岩熊の肩が、内側から爆ぜた。
分厚い皮脂も、岩のごとき体毛も、何の壁にもなり得ない。
肉が大きく吹き飛び、骨が砕け、焼き焦げた激臭とともに濃密な黒煙が天井へ向かって噴き上がる。
絶叫すら吐き出す猶予を与えられない。
巨獣の叫びは、その爆砕の響きの中に脆く呑み込まれ、霧散していった。
◇
ズスンと、巨大な肉塊が洞窟の床を揺らして倒れ伏す。
天井からパラパラと落ちてくる砂煙の中、
アッシュは何事もなかったかのように曲刀を一振りし、付着した脂を払い落とした。
そして、まだ血煙が漂う巨獣の足元にしゃがみこむと、その巨大な前掌を突っつきながら、振り向いておどけたように肩をすくめてみせた。
「……にしても、熊の掌ってのは東国のナルカミじゃ珍重されてるらしいぜ。リッカ、せっかくだ、食ってみっか?」
さっきまで死を振り撒いていた男と同じ人物とは思えない軽薄さ。
呆気にとられるリッカをよそに、アッシュは手慣れた手つきで腰の小刀を引き抜いていた。
◇
「……あいつの戦い方は、我等戦人のそれじゃない」
林道を歩む足を緩めることなく、リッカは低く呟いた。
「印を結び、己と得物に術を重ね、必要な威力をその一瞬に極限まで集中させ、確実に対象を屠り去る。……戦いというよりは、一方的な暴威」
アイネは一瞬、言葉を失ったように目を見張り、それからニヤリと不敵な笑みを深めた。
「へへっ、ますます手合わせしたくなってきたじゃねえか」
鼻を鳴らすアイネの横顔を横目で見やり、リッカは再び視線を前方の暗い林道へと戻した。
アッシュという男の真の恐ろしさは、肩の力すら抜けた飄々たる佇まいでありながら、ひとたび刃を振るえば圧倒的な破壊力をもって敵を打ち砕く、戦鬼の如き理外の強さにあった。
◇
陽が沈み、深い紺色の闇が木々を呑み込み始める頃、一行は小さな窪地へと滑り込んだ。
頭上を覆う古木の枝葉がわずかな星明かりすら遮り、足元には冷えた夜露を含んだ黒土と、群生する巨大な羊歯の葉が広がっている。岩陰と茂みに守られたこの窪地を、今夜の野営地とする。
火は焚かない。煙と明かりは、夜の山中では自らの居場所を叫ぶに等しい。
風が立ち木を揺らすたび、ざわめく葉擦れの音と、湿った腐葉土の青臭い匂いが鼻腔をくくすぐる。どこか遠くの谷間で夜鳥が低く鳴き、またすぐに静寂の中に呑み込まれていった。
手練れの妹たちは手慣れた手つきで、息を殺したまま速やかに周囲の警戒線を張り、一糸乱れぬ連携で見張りに就くと、濡れた地面に乾いた葉を敷き詰めて腰を下ろした。
「姉様、水と今宵の食料を用意いたしました」
足音もなく滑らかに寄ってきた。副隊長ヒルダである。
切れ長の目をわずかに細め、長身を滑らせて腰を下ろすと、油紙の包みと手持ちの水袋を静かに広げる。その横では、ミサーシャが金髪を揺らしながら、泥を拭ったばかりの小さな野草の根を大事そうに抱えていた。
「ミサーシャね、途中で野芹の葉を見つけたの! これを叩いて水に入れると、泥臭さが消えてすっごく飲みやすくなるんだよ、リツ姉!」
「ミサーシャ、声が大きい。野営中は声を落とせといつも言っているだろう」
「ひぐっ……ヒル姉、ごめんなさい……っ」
ヒルダの冷徹な一言に、ミサーシャは慌てて両手で口を覆い、首をすくめて身を縮こまらせた。
その微笑ましいやり取りを横目で見ながら、アイネが外蓑の隙間から大きな体を滑り込ませ、大股に腰を下ろす。
「へっ、火が使えねぇのが玉に瑕だな」
「文句を言うな、アイネ。火を焚けば追っ手や野盗に居場所を知らせるようなもの。無用な引き金は引かない」
ヒルダは淡々とした口調で咎めながら、腰のナイフを引き抜くと、石のように硬い燻製肉の塊に刃先を立てた。
そのまま噛みつけば歯を痛めるほどの干し肉だが、ヒルダの研ぎ澄まされた手つきで薄く削ぎ切りにされると、肉の表面からかすかに脂の艶が浮かび上がる。
配られたのは、塩漬けの豚肉を極限まで乾燥させて燻した硬質肉と、押し麦、干しぶどう、砕いた堅果を獣脂で固めた、軍用の携帯糧食だった。
「はい、リツ姉。お水どうぞ!」
ミサーシャが音を殺して木杯を差し出す。
リッカはそれを受け取り、一口口に含んだ。ミサーシャが摘んできた野芹の青く苦い香りが、長旅で乾ききった喉を爽やかに撫でていく。
「助かる」
リッカは短く応じると、ヒルダが削ってくれた薄い肉片を舌の上に乗せた。
最初は強い塩気と燻煙の香ばしさが広がるだけだが、じっくりと噛み締めるうちに、体温で脂が溶け出し、肉本来の濃密な旨味がじわりと溢れ出してくる。さらに押し麦の塊を小さく割り、口へ運ぶ。噛むたびに干しぶどうの微かな甘酸っぱみと堅果の香ばしさが混じり合い、肉の塩気と溶け合って、疲弊した腹の底へとズシリと落ちていった。
周囲を覆う深い静寂の中、忍び寄る夜気とともに冷え込みが厳しさを増していく。
闇の中では、妹たちが一糸乱れぬ沈黙を保ち、慎重に糧食を味わっていた。
手の中で温めた肉片を少しずつ削って水と一緒に噛みしめる者。野草の根の皮をナイフで丁寧に剥き、苦味に耐えながら静かに噛み砕く者。
どれほど質素で武骨な兵糧であろうと、冷えた体にとっては、生命の灯火を絶やさぬための絶対的な糧であった。
「ふん……まあ、噛めば噛むほど味が出るのは悪くねえ」
アイネが大ぶりの肉片を豪快に噛み砕き、顎を鳴らしながら水袋を煽る。
「馬車でサフィールに向かったアッシュ殿は、今頃は温かな旅籠で、優雅に食事でも召し上がっている頃でしょうかね」
ヒルダがナイフを鞘に戻しながら、静かに息を吐く。
「あいつのことだ……」
リッカは口中の旨味を水で飲み干し、水袋の栓を絞めた。
「いつものように飄々としながら、安酒でも煽っているだろうよ」
「へっ、気楽な野郎だ」
アイネが短く笑い、外蓑を肩まで引き上げた。
野営地に、再び深い静寂が戻る。
木々を揺らす夜風の音と、しっとりと降り下りる夜露の気配。サフィールまでの道程は、まだ半分以上も残されている。
冷たい夜露を防ぐ外蓑の中で、二十数人の息遣いが重なり合い、確かな生の温もりとなって窪地に満ちていた。
リッカは膝の上に置いた銀槍の感触を確かめると、深く静かな呼吸とともに、ゆっくりと目を閉じた。




