六話
シホは神社の近くにある大きな松の木と青空を自身の瞳に映した。なんだかとても懐かしい気がした。以前もこうやってこの神社のこの場所で空を見上げた気がする。
その時ふとコウタと出会ったころの事を思いだした。
あれは小学四年生くらいの事か。
シホは正義感あふれる少女だった。困っている人がいたら率先して助け、いじめられている子がいたらすぐさま救ってやっていた。彼女はクラスの中でなくてはならない存在だった。
喧嘩もそこそこ強かった。シホは男の子と喧嘩してもあまり負けた事はなかった。とはいっても現実的に強気で突っかかってくる女の子をめんどくさがっていた感じだったかもしれない。たいがい、殴り合いの喧嘩にはならず男の子の方が醜い言葉を吐いて去って行った。
シホはある時、集団で暴力を振るわれている男の子に会った。
……そのいじめられている男の子がコウタだった……。
今現在の小学生のいじめでここまであからさまにやるのは少し珍しかったなとシホは懐かしそうに青空を見上げた。そのまま目を閉じ、過去の記憶を思い起こす。
そのいじめは確か、校庭の端にある体育小屋で行われていた。
「お前、……に……の事チクッたろ!」
「一回死んだら? むしろ死ね」
「これからこーかいしょけいだ!」
「りんちだろ?」
まだ意味がよくわかっていないだろう言葉を男の子の集団がボロ雑巾のように横たわっているコウタに浴びせている。コウタは何も話さずに暗い瞳で地面を見つめていた。
蹴られっぱなしのコウタを見ていられずシホは男の子達の輪に割って入った。
「あんた達、何してんの? ばっかじゃないの?」
「つり目が来た!」
男の子達はシホを指差しながら馬鹿にしたように笑った。つり目とはシホがいつも怒っている所からとった男の子達のあだ名である。まあ、悪口のようなものだ。
「あんた達がいじめているって事、先生に言っておくから」
「馬鹿じゃねぇの? 証拠なんてないだろ」
少し怯えている男の子がシホに向かい叫ぶ。シホは不気味に笑いながら男の子達を見据えた。
「大丈夫。証拠はあるから。そのうちPTAにいくかもね」
具体的に何の証拠かは言わない。だがこのシホの顔を見た男の子達は怯えながらシホにそれぞれ汚い言葉を吐いて去って行った。
「ふう。相手が馬鹿で良かった。で? あんた、大丈夫? 名前、なんて言うの?」
シホは逃げていく男の子達を眺めながらコウタに話しかけた。
「……コウタ。瀬戸内コウタ。助けてくれてありがとう。……名前、なんて言うの?」
コウタは身体のほこりを払いながらシホを見上げた。
「うち? うちは鳥海シホ。……あんた、もっとしっかりしなよ。なんでなんも言わないの?」
「いつもの事だからさ。俺は……別に」
シホの質問にコウタがそっけなく答えた。
「あんた、悔しくないわけ?」
「悔しいけど……それ以上に怖いんだ。俺、弱いよね。女の子に助けてもらうなんて……なさけないよ」
コウタは力なく笑った。シホは何となく放っておけず、コウタの背中をそっと撫でながらいままでのいじめの経緯やその他を聞いてあげた。しばらくして幾分かすっきりした顔のコウタがシホに微笑みお礼を再び言ってきた。
「ありがとう。鳥海さん」
「うちはシホでいいよ」
「女の子を下の名前で呼ぶのは恋人とかだよ。俺には無理かな。でも……ありがとう」
コウタは早口にそう言うと逃げるようにシホから去って行った。
コウタと会ったのはそれが最初でそれからまたしばらく彼に会う事はなかった。
中学に入ってオシドリ夫婦だった父と母が毎日口げんかをするようになった。父が家族に黙って多額の借金をしていたらしいことが母にバレたようだ。この時シホはすべてがバカバカしくなっており、無駄な毎日を繰り返し送っていた。家庭の事情も相まって小学校の時の記憶をすべて捨て去りたいくらい正義感という言葉が嫌いになってしまっていた。毎日誰かに当たっていないと気が済まなくて幸せに暮らしている人を恨んでいた。
シホはあの時の男の子達と同じ事をやって憂さ晴らしをしていた。
「パンツ姿で犬のモノマネしろよ! きっもい男。」
「ああ、キモい! こっちこないで!」
シホが憂さ晴らしにつかっていたのが病弱な男子生徒だった。シホは面白半分で入り込んできた女子生徒を仲間にし、暴力を重ねた。
「逆らうんじゃねぇよ。さっさとやれ!」
シホは怯える男子生徒の腹を思い切り蹴る。男子生徒はじざい箒で頭を叩かれながら怯えるように下着姿になり犬のモノマネをしはじめた。シホはその瞬間がたまらなく好きだった。
「あははは! ほんとにやってんよ。こいつ!」
「うわっ! キッモ!」
「きったない犬には汚いものが似合うよ。モップかけてあげる」
シホは男子生徒の顔にモップを押し付ける。まわりの女子達もこぞってモップを押し付けていた。
机にはカッターで悪口を書き、その男子生徒に一生残る心の傷を刻み続けた。
実はその男子生徒は隣りのクラスだったコウタと親友だった。
「コウタ……」
「ユウスケ! またやられたのか……」
ユウスケと呼ばれた男子生徒は暗く沈んだ顔でクラス内の椅子に座っていたコウタの前に現れた。
「……」
「ユウスケ……。お前の身体が弱いって事を知っててやっているんだな。あの女ども。俺はもう我慢できない。俺が仕返ししてやる」
コウタは小学四年生の時と比べ別人のように成長していた。身長も遥かに伸び、体型はがっしりと成人男性に近づいた身体つきをしている。
「そんな……悪いよ……僕は平気だからさ。仕返しなんてよくないよ」
ユウスケは必死にコウタを止めていた。
「お前は優し過ぎるんだ。一発脅しの文句でも言ってみればどいつも蜘蛛の子散らすように逃げて行くぞ」
コウタはユウスケの肩を乱暴に掴む。
「コウタはなんでそんな事がわかるの?」
「俺がそうだったからだ。小学校低学年の頃さ、俺、超いじめられててほんと、死のうかと思ってたんだ。情けない話だけど俺、女の子に助けられちゃってさ。あの子はホントに強い子なんだなって思った。男子に囲まれて何とも思ってないみたいだった。いまでも忘れられない。その後さ、俺、その女の子がやったみたいに強気で突っかかってみたんだ。そしたら皆逃げて行ったよ。で、そいつらさ、その次の日に友達になろうとかぬかしやがったから嫌だとはっきり断ってやった」
「そうなんだ……。僕はそんな事言えないよ……」
コウタはユウスケの肩を叩く。ユウスケが自分を責めはじめていたからだ。
「お前は変わらないといけないと思うが変われない事に罪悪感なんて覚えなくていい。お前自身を憎むな。無理ならやらなくていい」
コウタは怯えるユウスケを横にどけると夕陽が差す廊下を足音荒く走り出した。だいたいこのいじめがおこなわれるのが放課後。先生はもういないが生徒はちらほら残っているそんな時間帯。もちろん、他の生徒がシホ達のいじめに関わってくる事はない。皆、見なかったふりをして気の毒そうに走り去る。認めたくはないがそれが一番自分の身を守る良い方法だ。下手に手を出すとめんどうくさい事になると人間は生きている内にそれを学ぶ。自分自身を守るのに必死な者はそれでいいとコウタは思っていた。
……でも俺はあの子みたいになりたいんだ。あの時はなんだか気恥かしくて逃げるように去ってしまったが……本当はとても嬉しかったんだ。
「ユウスケをやったのは誰だ?」
コウタはシホがいる教室へズカズカと入り込み怒りを殺した声でつぶやいた。シホの教室にはシホ達グループ他、数人の学生が残っていた。数人の学生は恐る恐る教室を出ていく。
残ったのはシホのグループだけだった。
「あんだ、誰?」
シホが睨みつけるようにコウタを見た。
「ユウスケにひどい事をしたのは誰だ」
「ユウスケ? ああ、あいつか」
シホはクスクスと笑っていた。まわりの女子達はこちらを威嚇するように睨みつけているコウタに怯えはじめていた。
「お前らだな。ユウスケは俺の友達だ。お前らは許さない。ぶんなぐられたいやつから出て来い」
さらに睨みつけると女子達は怯えて次々と何かを言い始めた。
「あ、あたしはシホに頼まれてやっただけだから! し、しらない!」
「私もやれって頼まれたから……。ほんとはやりたくなかったけど」
「裸で犬のモノマネやれって言ったのシホだから! モップはやれって言われて……」
皆、自身を守るため必死に言い訳をし、そのまま逃げるようにコウタの横をすり抜けて行った。
コウタは別に何もしなかった。……いや、できなかった。
コウタはシホと呼ばれた少女を呆然と見つめていた。
「……あーあ、皆いなくなっちゃった。つまんねーの。……で? あんた誰?」
「シホ……まさか……鳥海……」
コウタが驚いているのをよそにシホは眉をひそめていた。
「ああ? お前誰だよ? うちは鳥海シホだけどなんで知ってんの? マジキモいんだけど」
シホはコウタに気がついていなかった。男の子は中学へ入るととたんに成長する。身長、顔つきもだいぶん変わる。コウタも小学校の時とは顔つきも全く違った。
反対にシホは胸やおしりが少し出て来たくらいで顔つきに変化はあまりなかったのでコウタはすぐに気がついた。
「俺は瀬戸内コウタ。あんたは覚えていないかもな。俺の事」
コウタはシホを懐かしむように見つめた。
「瀬戸内……コウタ……」
シホの顔に動揺の色が見えた。シホはコウタの事を覚えているらしい。
「なんでいじめられている奴を助けていたのにいじめる側になってんだよ。あんた」
「うるせぇな! あんときの話はすんじゃねぇ! 殺すぞ!」
「やってみろよ」
シホの脅しをコウタは軽く流した。
「……」
「俺、あんたにあの時助けられて嬉しかったんだがな。あんた、こんな奴だったのか」
「うるせえって言ってんだよ」
コウタはシホを睨みつけた。シホは言葉が見つからず悪態をつくくらいしかできなかった。
「俺、お前許さないぜ。お前らにとってそれはどうでもいい事かもしれないがユウスケは心に大きな傷をつけられた」
「そんな大げさなもんじゃねぇだろ。ちょっとからかっただけだ」
シホは何とも思っていないのかフフンと偉そうに笑った。それを見たコウタは怒りを抑える事ができずにシホに叫んだ。
「裸で犬のモノマネさせるのがか! ああ? じゃあ、お前がやってみろ! 俺がお前をからかってやるよ。早く裸になって犬のモノマネやれよ。俺がモップで顔を洗ってやる」
「は、はあ? 馬鹿じゃねぇの? あんた、とんでもない変態だぜ! 死ねよ」
シホはコウタの気迫に若干押されていたが無理に笑ってみせた。
「お前らがユウスケにやったのは変態の行為じゃないっていうのか? どういう頭してやがんだ。ああ?」
コウタはシホの胸ぐらをグイッと掴んだ。シホに初めて怯えの表情が浮かんだ。
「ちっ。イラついてんなら……殴ればいいじゃん……」
「殴りたいのはやまやまだが……俺が犯罪になるからな」
「じゃあ……離せよ。女の胸ぐら掴むなんて最低だぜ」
シホがコウタから離れようと身体をばたつかせた。その時、シホの首元に痣がある事にコウタは気がついた。よく見ると首だけではない。ブラウスから見える腕にも痣。膝にも痣。いや、よく見るとたばこの火か……。
コウタはその痣や火傷を見てとっさにシホを離した。
「お前……」
「殴るのは別にいいけど腹と顔以外な。顔は学校行けなくなるからやめろ。腹は昨日親父に殴られて痛みがひかねぇからやめろ」
シホの瞳が暗く沈んでいく。
「お前……まさか……」
「ああ? なんだよ。ああ、これか? これは親父にこないだ首絞められて……」
シホは首筋の痣をそっと撫でた。
「虐待……されて……」
「さあな。もうどうでもよくなっちゃってさ。ほんと、ユウスケみたいな呑気なやつがうらやましい。スゲーむかつく」
シホはそう捨て台詞を吐いて近くにあった椅子を蹴るとコウタから逃げるように走り去って行った。
コウタがシホと会って数日後、シホがユウスケをいじめる事はなくなった。
「鳥海!」
コウタが屋上でボウッと突っ立っているシホに声をかけた。たまたま、シホが屋上に行くのをコウタが見ており、なんとなく追いかけて行った感じである。
「なんだ。あんたか。もう何もしてねーよ。うちは」
「あんた、腕どうしたんだ」
シホは左腕にギブスをしていた。
「ああ、これ? こけたかな?」
「親父か?」
「……」
シホはコウタの問いかけに何も話さなかった。
「鳥海……」
「ほんと……何正義の味方きどってたんだって話だよね。うち。あんな事しても意味ないっていうのに。あんたはうちの恥ずかしい記憶を持っている一人だ。……うち、何してたんだろう……」
シホはそう一人つぶやくとそっと空を眺めていた。せつなくつぶやくシホの頬は涙で濡れていた。
「そのあんな事とは俺や他の人を助けた時の事を言っているのか? それなら、俺はあんたに命救われた。大げさだって笑うかもしれないが……あの時のいじめで俺は……まあ、子供でまわりがみえてなかったってのもあるが死のうと思ってた。でもあんたが助けに来てくれてこうやってあいつらを追い払えばいいのかと気がついた。悔しくないのってあんたに言われて……ああ言ったけど本当は悔しくて負かせてやりたいって何度も思ってたんだ。あんたは俺の人生を変えてくれた。あこがれが女じゃ今となってはあれだが……ああなりたいって思ってたんだ。俺」
コウタはシホの背中にそっと声をかけた。
「それはきれい事で結局は自分が損するかもしれないってうちは気がついたんだ。小学校六年くらいから親父がおかしくなってさ、お母さん助けたくてけっこう自分を犠牲にしたけどさ……お母さん……浮気してて今、ほとんど家に帰って来ないんだ。たまたまお母さんが男と歩いている所、こないだ見ちまった。ねえ、こういうのって見返りとか求めちゃいけないって言うけどさ……でもさ……なんか良い事くらいあってもいいじゃん……。痛い思いしてもただこれ、痛いだけじゃん……」
「……」
コウタはシホの言葉に何も言い返せなかった。
「あんたさ、まだうちの事許す気ないんだろ? でもさ、あんたに言われて気がついたよ。ユウスケにあたってもしょうがないってさ」
「……そうだな。ユウスケに当たってもしょうがない」
「ああ、裸で犬のモノマネ、してやってもいいけど……うち、そんな魅力的じゃないぜ。見せられる身体でもないしな」
「別にあれはただの脅し文句だよ。本当にやれって言ったわけじゃない。あんたが使ったあの時のハッタリと一緒さ。証拠なんて何もないのに証拠あるって言ってさ」
「だからその話を出すんじゃねぇって言ってんだろ! 死ね!」
「あんた、ひっどい言葉使いだな」
コウタはシホの言葉使いに眉をひそめた。
「どうでもいいだろ。ほっとけよ」
「ほっとけない。……それからお前が昔やってた事は恥ずかしい事なんかじゃない。きれいごとかもしれないけど俺はあんたみたいな人間が増えればいいのにって思っているよ」
「そう。うちはもうどうでもいいけどね」
コウタの言葉にシホは振り返らずにただ空を見上げて答えた。
……あの時のシホの心はズタズタだったに違いない……。
コウタはぼうっと松の木と空を眺めているシホの背を見、あの時屋上で見たシホの背中を重ね合わせていた。
……あの後俺は、この神社に来た。
コウタは自分の運を試しに運命神が祭られているという神社に足を運んだ。おみくじを引く前に賽銭箱にお金を入れ、願い事を心の中で叫んだ。
……シホという女の子が母親をかばい、父親から虐待を受け苦しんでいる。俺はシホを助けたい。お願いだ。力を貸してくれ。
コウタは祈るように願っていた。そしてその後、この神社の名物であるおみくじをそっと引いた。
……大吉が出たら俺は何のぶつかりもなくシホを助けられる……。
別におみくじに頼っていたわけではない。気休めとしておみくじを引いただけだ。助けると決心した後の勢いになればとおみくじを引きにきたのだ。
コウタはおみくじを広げた。
中身は大吉だった。コウタは飛び上がるほど喜んだ。
さっそく中身の内容を読む。
……あなたはあなたを想っている人の不幸を取り払い幸せを手に入れるでしょう。そしてあなた自身も近いうち、現在うちこんでいるものが評価され幸福が訪れます。
「ここのおみくじは良く当たるらしいし、いい感じだな。現在うちこんでいるものか……。音楽……俺の歌が評価されるって事か?じゃあ、最初のはなんだ?俺を想ってくれている人なんていないな。シホが俺を想っているわけないしな。ま、大吉だからいいか」
コウタはおみくじをお財布に入れると気合を入れて神社の階段を降りて行った。
コウタが去って行って数日後、今度はシホがこの神社に現れた。
……別に本当にそうであってほしいなんて願ってないんだ。そう……願ってない。
シホは神社の階段を登りながらずっとこの言葉をまわしていた。
賽銭箱にお金を入れ願う。
……コウタがうちの事……好きでありますように……神様! お願い! うち、コウタに一目惚れしたらしいんだ! コウタの事、一日中考えちまうんだ……。うち、コウタの事好きなんだ。だけどコウタを前にするとひどい言葉をかけちまう。コウタがうちの事好きだなんて思ってないけどでも……。
シホは願っている内に何が言いたいのかわからなくなっていた。
「……あー、もう……何が言いたいのかわかんなくなってきた」
シホは頭をかきながら恋愛運のおみくじを引く。
……まあ……期待してないけど……
シホはおみくじを開く。内心、ドキドキしていた。
中身は大吉だった。
「ウソ……」
シホは思わず叫んでしまった。慌てて内容を読む。
……あなたはもうすでに身近な人に想われています。後はあなたの気持ち次第です。
短い文だったがシホは目を輝かせて喜んだ。コウタではないかもしれないのに勝手にコウタだと仮定して嬉しがっていた。
「うち、もう我慢できない。告白しよう」
シホは頬を赤らめながら幸せそうに神社の階段を降りて行った。
シホは強気な態度とは裏腹、精神的に弱い部分の方が多かった。もう母親は家に帰ってこないというのに時間通りに自宅へ帰り、父親を怯えながら待っていた。何をされるかわからない恐怖で身体が震えていたが外に助けを求めようとも反撃しようとも思っていなかった。はじめから容易に逃げられる状態だったのだがシホの場合、その後、また再び家に戻されたり、父親が追って来たりしてもっとひどい事をされるのが怖かったため、いつも通りを心がけていた。
「はあ……はあ……」
シホは震えながら部屋の隅でうずくまっていた。息は自然と荒くなる。冷や汗で服が濡れはじめ、目は瞬きする事ができない。折れた腕を抱くようにお腹に押し当てる。
父親は何を投げるわけでもなく、静かにシホに暴力を振るう。故に外に気がつかれにくい。
「……今日こそ帰ってきたら昔の親父に戻っている……。優しいお父さんに……」
シホは叶わぬ願いをこの待ち時間にずっとつぶやいていた。この未来を神社のおみくじで引くことはなかった。これよりも悪い事が書かれていたら狂いそうだったからだ。
「シホ、いるだろー。ただいまー」
「ひっ!」
父親の声とドアを開ける音が聞こえる。シホは身体を固くした。とっさに遠くへ逃げなければと身体が反応をするのだが頭がついていかずにその場で動けずに固まる。いつもの事だった。
父親の借金はもう返済し終わっていた。詐欺などでお金を稼いだらしい。詳しい事はよくわからない。ときたま、何百万稼いだと電話で誰かと話をしていたのを目撃している。おそらくよからぬ人達だろう。そこら辺の事はシホにはわからない。
父親の借金がまだあった時は普段から落ち込み、あまり寝てないのか目の下にクマができていた。その時はまだ暴力は振るってこなかったが酒におぼれていたのを覚えている。暴力を振るいはじめたのは詐欺で金を貯めはじめた辺りからだ。同じ詐欺仲間とかから奴隷のように働かされて父親も心が疲弊しているのかもしれない。もう詐欺なんてやりたくない。あの時は借金の帳消しに必死で詐欺になんて手を染めてしまったんだ。父親は背中でそう言っているような気がした。
もう抜けられず、逃げられず、どうしようもなくなった心をおそらくシホにぶつけているのだ。
……本当は全部わかっていた。
「シホ! お前はなんて悪い子なんだ」
「!?」
父親がやつれた顔でうずくまっているシホを睨みつける。
「そんな顔で見ても俺にはわかっているんだ。お仕置きしなきゃなあ」
「な……。うち……今日、何にも悪い事してない! が、学校に行って帰ってきただけだ!」
「学校に行く事がわりぃ事なんだよ!」
今日も優しいお父さんではなかった。狂った父親だった。シホは震える足でかろうじて立ったが再び膝をついてしまった。父親の手にはバッドが握られている。シホは震えながら父親に必死であやまった。
深夜零時頃、コウタは小腹がすいたので近くのコンビニでおにぎりを二個買って夜風にあたりながら公園のブランコでおにぎりを頬張っていた。
特に何も考えず、ぼうっとぶらんこに乗っていたら人影が公園内に入ってくるのが見えた。こんな時間に珍しいなとコウタは気になって人影の方に目を向ける。雰囲気的に女性だった。
……女の人がこんな時間に公園なんて来て大丈夫なのかな。
コウタはやはり気になり、こちらに近づいてくる人影を注意して見ていた。公園の明かりに照らされて顔を見たとたん、コウタは驚いた。
「と……鳥海!?」
コウタの声にびくっと肩を震わせたのはシホだった。シホは下着姿という酷い格好で髪はボサボサでフラフラとコウタの方へ歩いて来ていた。シホ本人もこの公園に誰かいる事に驚いていたがコウタだと思い、安心したらしい。
「お、お前……」
コウタは何も言葉を発する事ができなかった。シホの身体を見て震えた。
シホの身体は血にまみれていた。背中が特にひどい。顔は無傷できれいだったがその他が痛々しいほどに腫れている。
「……」
シホはひどく怯えていた。なぜこんな格好で怯えながら外へ出てきたのか、なぜ身体中に打撲の跡があるのか切り傷があるのか……コウタはすぐにわかった。
……父親に暴力を振るわれて……必死で逃げてきたんだ……。
シホはその場で崩れ落ちた。コウタはすぐにシホの側に寄った。
「おい! 大丈夫か! しっかりしろよ」
「……っ……」
シホは目に涙を浮かべながら震えていた。コウタは何も救急道具を持っていなかったので、とりあえず自分が来ている上着をシホに着せてやった。
「……大丈夫だ。怯えるな。俺んちに行こう」
「……ころ……殺される……。も、もう……うごけ……な……。はっ……はっ……」
シホはまともにしゃべれないくらいに震えていた。とっさにやばいと感じたコウタは携帯電話を取り出し、救急車を呼んだ。これは家に連れて帰って呑気に包帯を巻く程度の傷ではない。
同時にシホは過呼吸を起こしていた。コウタはコンビニのビニール袋をシホの口に押し付け、背中をさする。
……ひどいな……。本気で娘を撲殺する気だったのか。ひどい。理由はどうあれ、許せない。
コウタは救急車が来るまでシホを軽く抱き寄せながら背中をさすっていた。
しばらく時間が経って、シホの父親は警察に捕まった。詐欺罪もそうだが覚せい剤などの所持もしていたらしく、色々な罪で刑期を増やしていた。
シホは病院のベッドでぼうっと外を眺めていた。あんなに暴力を振るわれたのになんだか父親がかわいそうでならなかった。昔の良い思い出ばかり蘇ってくる。シホは耐えきれずに泣いた。
……あの優しいお父さんに……もう戻ってはくれない……。お父さんの運命はもう変わってしまった。
シホの頭はそれでいっぱいだった。
「鳥海!」
窓の外を眺めていたらコウタの声がしたのでシホは振り向いた。
「コウタ」
「大丈夫か? なんか怖いか?」
「え? 大丈夫。大丈夫。面倒かけた。ごめん。コウタ」
コウタはシホが泣いていた事に動揺しているようだ。シホはなるべく優しくコウタに笑いかけた。
「鳥海、お前これからどうするんだ? あの家に住むのか?」
「……あの家には住みたくない。幸い、親せきから援助をもらえるし、安い賃貸で一人暮らしでもしようかなって思ってる。もちろん、これから高校なわけだしバイトもするし」
シホはもうほとんど治った身体で大きく伸びをする。
「お前は強いな」
「……コウタがいてくれたからだ……。あんたがいなかったら死んでたよ。……ほんと、はじめ誰だかわからなかった。声も全然違うし……体型も全然……。うちと同じ身長だったのに……。あんたはうちが無駄な日々を過ごしている間に男の人になってた……」
シホは小声で恥ずかしそうにつぶやいた。それを聞いたコウタも一瞬止まり、頬を赤くした。
しばらく沈黙が流れた後、
「ねえ……」
ほぼ同時に二人は声を発した。
「え? う、うちはいいから先にコウタどうぞ」
「お前、何か言いかけただろ。お前からでいいよ」
またしばらく沈黙が流れた後、しかたなくシホが声を発した。
「あ、あのさ……別にあんたが何とも思ってないんだったらいいんだけど……えーと……その……うち、あんたの事気になって気になって寝られないっていうかー……。その……えーと」
シホはコウタから目をそらして頬を赤らめながら左右の指をいじっている。
「で……まあ、つまりは……すっ……すっ……」
シホは顔を真っ赤にしながら机の上を指差した。コウタが机を覗くと一枚の紙に『コウタ、好き、付き合ってください』と書いてあった。
シホはまともにコウタの顔を見る事ができなかった。真っ赤になったまま自分のかけ布団を凝視している。コウタも思考がいったん停止していた。またも音のない静寂が二人を包み込む。コウタも自分の頬が紅潮している事に気がついた。心臓の高まる音だけが耳にすんなり入ってくる。
「あ……いや……別にあの……なんでもない!」
シホがこの沈黙に耐えきれず叫んだ。このまま話が終わってしまう事を恐れたコウタが慌てて声を上げた。
「おっ! ……俺も……鳥海の事、好きだよ」
コウタはびっくりするほど情けない声でつぶやいてしまった。
「……」
また二人に沈黙が流れた。お互いに目を合わせず真っ赤になっている所を眺めながら隣りのベッドのおばあさんが微笑んでいた。
そして
「若いっていいわねぇ」
とつぶやいていたような気がした。
あの時はコウタに沢山助けられた。だから今度はうちがコウタを助ける。コウタと一緒にいたい。コウタが大好きだ。だからうちは……。
物思いにふけっていたシホは空を見上げるのを止め、コウタを切なげに見つめた。
「大丈夫か? シホ」
「大丈夫だよ。うちは。ちょっと思い出しただけ」
「そうか」
コウタは「自分がいるから大丈夫」と声をかけたかったができなかった。自分はもう死ぬ存在。シホと一緒にはいられない。かける言葉が見つからず、目に涙を浮かべながらシホを抱きしめた。
「コウタ……。ありがとう」
シホはコウタの優しさを受け止め、素直にお礼を言った。




