8. 扉は開けたまま
翌日の昼前、廊下で息子に呼び止められる。窓から差す光が、その靴先まで伸びている。昨夜は閣下の書斎へ向かった足が、今日は私の前で止まる。
「……イルミナに、会いたい」
上着の釦をいじっていた手が離れる。息子はこちらを見かけて、窓の外へ目をそらす。
「呼んでもいいか?」
「呼ぶことは、かまいません。ただし、客間で。扉は開けたまま、私が立ち会います」
息子の顔がこちらへ戻る。頼むときには出なかった声が、今度は廊下によく響く。
「なんで、あなたが見てるんだ!」
「婚約前ですから、付き添いが要ります。扉は開けたままです」
息子は客間のほうを見てから、私へ向き直る。
「俺が会いたいのは、あなたじゃない!」
「存じています。私に会うだけでしたら、お許しは要りません。なにしろ母ですから?」
開きかけた口が閉じる。息子は上着の裾を引き、声を落とす。
「くっ……分かったよ。……扉は、全部開けておくのか?」
「全部です」
息子は肩を落として客間へ歩いていく。その足は、書斎のほうへは向かない。
昼過ぎの客間には、庭の葉影がゆっくり揺れている。開け放した扉の向こうまで、磨かれた床に光が続く。戸口で執事が頭を下げる。
「イルミナ様がお見えです」
蜂蜜色の髪を肩で留めたイルミナ様が、裾をつまんで膝を折る。私は窓辺の椅子に座り、刺繍の枠を衣装の上へ置く。針は布に休ませたままだ。
「イルミナ。来てくれて、ありがとう」
「はい。……アンナリーゼ様も、いらっしゃるのですね。先日は、お茶をありがとうございました」
私は会釈して、湯気の立つ茶器を勧める。息子が向かいの椅子を引く。
「この人が立ち会う。気にするな」
そう言う息子の目が、窓辺へ来る。私は枠を抱え直す。息子は咳払いをして襟元を正し、イルミナ様へ胸を張る。
「式も支度も、俺が決める。お前は何も心配しなくていい」
「決めないでください!」
声が開いた扉から廊下へ抜ける。イルミナ様は唇を押さえかけるけれど、その手を下ろして顔を上げる。口を開けたまま動かなかった息子の喉から、ようやく声が出る。
「な、何を……?」
「家では、私の返事を誰も聞きません。……ゼヴェリン様まで、同じことをおっしゃるのですか?」
息子が椅子の背から体を起こす。イルミナ様は目をそらさない。
「俺は、お前のためを思って――」
「私のためなら、私に訊いてください!」
茶器の持ち手へ伸びかけていた息子の手が、宙で止まる。
「俺との式の話だぞ。うれしくないのか?」
「うれしいです! だから、私も話したいんです。何も言わなくていいなんて……寂しいです」
張っていた声が、終わりだけ細くなる。息子は何か言いかけ、伸ばしていた腕を自分のほうへ戻す。
「……家では、誰がお前の返事を止めるんだ?」
「継母です。男爵夫人のジビュレ様が、着るものも、出かける先もお決めになります。私は、あの方を『奥様』とお呼びするように言われています」
イルミナ様の重ねた手が、衣装の布を挟み込む。さっきまで息子を見上げていた顎が、少しずつ下がる。
「奥様……? それは、侍女の呼び方だろう?」
「はい。……何も言わずにいると、よい子だと褒めてくださいます。私の考えを、ご存じなくても」
茶の湯気が細くなる。私は刺繍の布へ目を落としかけ、イルミナ様の顔へ戻す。
「そんなの、話したくなくなるだろう?」
「……それでも、聞いてほしいんです。ゼヴェリン様が私の話に笑ってくださったとき、うれしくて。続きを話してもいいんだと思って……それで、好きになりました。……顔も、いいですけど」
俯いていたイルミナ様が、そっと息子を見る。息子は座り直しかけた姿勢で止まる。
「顔のことは、今いいだろう!」
「はい。今も、とてもいいです」
息子の耳が赤くなる。イルミナ様の口元にも、ようやく笑みが浮かぶ。
「そういう意味じゃない……」
私も口元を緩めかける。けれど、継母という言葉が耳に残っている。何か返そうと唇を開いても、声が出ない。刺繍の枠を握る手に力が入り、木の縁が掌に食い込む。
イルミナ様の笑みが消える。目が私の手元から顔へ上がり、頬の色が引く。
「あっ……アンナリーゼ様のことでは、ありません……!」
「いいえ。……私も、継母なんですよね」
ようやく出た声が細い。枠を持ち直そうとして、息子の視線に気づく。
「……あなたが、継母……」
息子の目が、私とイルミナ様の間を行き来する。何かを言いかける唇が動き、そのまま閉じる。息子はイルミナ様へ向き直る。
「……悪かった。続けてくれ」
息子が椅子ごと身を乗り出して、少しずつイルミナ様のほうへ寄っていく。私は枠の縁で椅子の手すりをコンと軽く叩く。息子が慌てて座り直すと、イルミナ様から小さな笑いがこぼれる。
「……そんなに近くなくても、聞こえますか?」
「聞こえる。……ちゃんと、聞いてる」
イルミナ様は握っていた布を離す。その跡を撫でながら、言葉を探すように口を開く。
「家では、話す前に呑み込んでしまうんです。どうせ最後までは言えないから、と。でも、ゼヴェリン様には、言いたかったんです。……うまく話せなくても」
「……ああ」
息子は続きを急がせずに待つ。私は枠を握る力を緩める。布の上で休んだままの針に、窓の光が細く映る。
開いた扉の木部を、執事が軽く叩く。差し出す盆には、封をした手紙が載っている。
「男爵家から、奥様宛てでございます。差出人は、男爵夫人のジビュレ様です」
受け取って封を切る。整った字で、婚礼の支度は公爵家でお持ちいただけるものと存じます、とある。文の終わりには、同じ後妻としてお力添えを、と添えてある。
まだ許してもいない婚礼の支度が、紙の上では進んでいる。返事の言葉を探して、文の頭へ目を戻す。読み直しても書き出しが浮かばず、手紙を持つ手が止まる。
「……奥様の字です」
イルミナ様が紙の角を見て、肩をすくめる。さっきほどけたばかりの手が、また衣装を握る。
「申し訳ありません。奥様は、いつもああで……私からも、お詫びを」
「イルミナ様が謝ることではありません」
下がりかけた頭が止まる。私は頷いてみせるけれど、手元の紙はまだ畳めない。
「お返事は……今は書けません。縁談は、まだ保留ですから」
支度を進めるとも、進めないとも書けない。執事へ返事を託す言葉も出ないまま、私は手紙を畳む。刺繍の枠の下へ置くと、文字が隠れるまでイルミナ様の目が追ってくる。
やがてイルミナ様が席を立つ。玄関まで見送ると、外の明るさの中でこちらを振り返り、小さく手を振る。息子も手を上げ、不器用に振り返す。
客間へ戻ると、廊下から窓辺の椅子まで見渡せる。開けたままの扉のところで、息子が足を止める。誰に聞かせるでもないような声が落ちる。
「……あいつの話を最後まで聞いたのは、初めてだ」
「その『最後まで』を、母の話にもお願いいたしますね」




