7. 書斎の夜
毎晩、書斎で閣下と屋敷の帳簿を見る時間が、いつのまにか一日でいちばん長くなった。
昼は鍵の束を腰に下げて屋敷を回り、夜は閣下の隣で帳簿を開く。読みにくい字を確かめているうちに、卓上の茶から湯気が消える。灯りの芯を整えるのは、いつも閣下だ。私が頁をめくるまで、次の数字は読み上げられない。その間に、茶を勧める声が入る。夜会の夜でさえ、帰ってから一頁だけ開いた。
翌日の夜。窓の外はすっかり黒く、棚に並ぶ本の背も、灯りから遠いほど色を失っている。開いた頁の端には、閣下の字で小さな印がある。昨夜、私が首をかしげた欄だ。書斎の机に帳簿を開いたまま、私は閣下を見る。灯りの下で頁を繰る手が緩む。読んでいた場所へ目を戻しても、同じ数字の上を滑るばかりで、先へ進めない。
「私を息子の嫁に選んだのは、帳簿が読めるからですか? 閣下のお手を煩わせずに済むからでしょうか?」
「それだけではない。顔合わせからの訪問で、屋敷の者の名を覚え、伯母様の帳簿の写しの誤りを指摘してくれた。人を置き去りにせず、家を回せるからだ」
頁を押さえる指が止まる。閣下の目は、帳簿の上に落ちていない。
「……誤りを見つけたこと以外も、覚えていらしたのですか?」
「覚えている。家を任せる相手だから、君を見ていた」
反った頁の端を伸ばし、私はその白い縁を見つめる。伸ばし終えても、そこから手を離せない。
「……名を呼んでお礼を申し上げるところまで、見ていらしたのですね」
「君は、茶を運ぶ者にも顔を向けるだろう。そういう相手になら、家の者も困ったことを話せる」
灰色の目が、静かに続きを待っている。私が何を言うか、帳簿には何も書いていない。
「後妻に迎えてくださったのも、そのためですか?」
「そうだ。君と家のことを話したかった」
私は帳簿を閉じかける。今日の用件は、もう済んでいる。重なりかけた頁を指で挟み、表紙の間を空けたまま、閣下を見上げる。
「……務めの話だけ、ですか?」
「……最初はな」
「え……?」
「だが……今は、君といる時間が愛おしい」
挟んだ指を抜けば閉じられるのに、そのまま動けない。灯りの芯が鳴る。返事の代わりに唇が開き、何も言えずに閉じる。
「……困らせたかな?」
「い、いえ……あの……」
背筋を伸ばしてみても、用件を述べるときの声が戻ってこない。衣装の襟が、急に首に近く感じられる。
「返事は要らない。今は、言っておきたかっただけだ」
返事は要らない、と言われて、かえって喉の奥が詰まる。紙を挟む力が緩み、傾いた表紙を慌てて受け止める。革の角が机に触れる音まで、今は大きい。
閣下はもう頁へ目を戻している。けれど、その指は同じ行から動かない。灯りに照らされた耳が、かすかに赤い。見つめていることに気づかれそうで、私は帳簿へ目を伏せる。
扉が叩かれる。ようやく帳簿から手を離して立ち、扉を開けると、廊下の冷えた空気が頬に触れる。そこにいるのは、大伯母様と息子だ。大伯母様は私の顔を見てから、肩越しに机を覗く。
「あら、お邪魔だった?」
「い、いえ……」
大伯母様の目が、開いた帳簿から閣下へ移る。扉に添えた私の手まで見て、口元が上がる。
「ふふ、帳簿を口実に夜更かし? なんだかあなたの息子が閣下にお話があるんですって」
「父上、俺はイルミナを認めてもらおうと来たんです。話をさせてください」
息子が横から入ろうとする。私は扉に手を掛けて、通ろうとする顔を見る。息子は足を止め、書斎の奥へ目を走らせる。
「あなたを待つより、父上に頼めば早いだろう! あなたとばかり話していたら、先へ進まないじゃないか!」
「母の許しは、扉越しに閣下へ頼んでも決まりません」
息子が私の手を退けるように顎を動かす。しかし、私は戸口を空けずに待った。
「父上がいいと言えば、あなたも困らないはずだ!」
「困るかどうかの話ではありません。あなたの縁談は閣下から私に任されているのです」
息子が扉の縁をつかむ。開けようとする腕に力が入り、上着の肩が張る。私は顔をそらさず、続きを待つ。
「だったら縁談は後だ! 息子が父上と話すだけなら、いいだろう!」
「ほかのご用でしたら、お取り次ぎします。何のお話ですか?」
息子の顎が上がる。私の肩越しに書斎の奥を見据え、廊下まで響く声で言い切る。
「俺がイルミナと結婚したいという話だ!」
「縁談ですね。私が伺います」
大伯母様が口元を押さえる。息子はそちらを振り向き、すぐに私へ向き直る。開いた口からは、続きが出てこない。
「……結局、全部あなたのところへ戻ってくる」
「縁談のお話でしたら、改めて母と話す機会を設けてください」
息子の目が、扉を支える私の手へ落ちる。つかんでいた縁から腕を下ろしかけ、また書斎の奥へ顔を向ける。机のほうから、閣下の声が低く届く。
「頼む相手を間違えるな、ゼヴェリン」
「くっ……」
息子の足が廊下へ戻る。大伯母様は息子の背中を押して帰らせる。
「ほら、言われたでしょう。筋を通さないとダメなのよ」
「……大伯母様。すみません」
さっきまで書斎の奥へ投げつけていた声が、低くなる。大伯母様は背中を押すのをやめ、息子の歩みに合わせて廊下を進む。角でこちらを振り返ると、私に片目をつぶってみせる。
「邪魔したわね。続きを楽しんで。ふふっ」
頬に熱が戻る。大伯母様たちが去るのを見届け、扉を閉じる。背を預けると、固い木が衣装越しに肩を受け止める。廊下の冷気が遠のき、書斎の紙と革の匂いが戻ってくる。
「……伯母様には、敵わんな」
閣下の苦笑に、私も少しだけ笑う。扉の向こうでは、息子の足音に大伯母様の笑い声が重なっている。その音が遠ざかるほど、机のそばへ戻る足を、どこから出せばよいか分からなくなる。
「縁談をどうするつもりか、君の考えを聞かせてもらえるかな?」
「……お返事は、まだ待ってください。今夜は帳簿を閉じます」
言ってから、扉に預けていた背を離す。閣下の目が帳簿へ落ち、すぐ私へ戻る。
「待とう。君の返事なら、いくらでも」
「……いくらでも、は困ります。先方も、いつまでも待たせられませんから」
口にすると、ようやくいつもの声が出る。閣下の目尻に、柔らかな皺が寄る。
「ははっ、そうだな」
椅子は、私が立ったときのままこちらへ向いている。机の上には冷めた茶と、開いた帳簿。閣下はそのどちらにも手を伸ばさず、私が戻る場所を空けて待っている。
机へ戻り、開いていた帳簿を閉じる。表紙へ置いた手を、今度は退けずにいる。閣下の手が隣に置かれる。触れそうなところにある指を見てから、私はゆっくり顔を上げた――。




