6. 夜会
門で息子が馬車の前に立つ。夜会の上着のまま外套も着ず、夜気の中で肩を怒らせていた。門の灯りが、きつく閉じた襟元を白く照らす。私が閣下の手を離すのを見て、息子が顔を近づける。
「今からあなたに許しを求めれば、俺も行けるのか?」
「母の許しを求めるなら、家の用件が先です。帳簿へお返事を」
息子が門柱に手を突く。馬車の扉は、閣下がもう開けている。私は足を止め、息子の言葉を待つ。
「なら、その用件とやらを今ここで済ませる!」
「では、使い道を。今ここで」
息子の口が開いて、閉じる。私は風に揺れる裾を押さえ、玄関へ顔を向ける。
「……それが言えなければ、俺だけ残るのか?」
「まだお返事をいただいていませんから。帳簿は玄関にあります。私は馬車に乗ります」
息子の目が、開いた馬車の扉へ飛ぶ。門柱についた手の甲に、筋が浮く。
「俺にここで立っていろと言うのか!」
「いいえ。寒いので、中へお入りください」
息子が大きく口を開く。襟元からのぞく首まで赤い。
「俺は夜会に行きたいんだ! 暖まりたいんじゃない!」
「でしたら、先にお返事をお願いします」
風が門を抜け、息子の上着の裾をあおる。私は押さえていた裾を持ち上げ、馬車へ体を向ける。
「……帳簿は、あとで見る」
「では、戻ってから伺います」
息子の手が門柱から下がる。門に残る姿を見届け、閣下と会場へ向かう。馬車の窓の向こうで、門の灯りが小さくなる。
◇
夜会会場は明るく、床の艶に灯りが揺れている。楽の音に重なる衣擦れを聞きながら、私は閣下の隣で足を止める。挨拶を受ける方々へ、閣下が私を示す。
「私の妻だ。今後は家のことを共に担う」
息子の元婚約者、と続くのを待ってしまい、返礼が遅れる。人垣の囁きの中に、捨てられた、の言葉が混じる。覚えているはずの挨拶が、唇まで上がってこない。
閣下は先へ進まず、私が顔を上げるまで待っている。隣の肩は動かない。妻、の後ろに何も続かないまま、私の返事を待ってくれる。
「……ご挨拶が遅れ、失礼いたしました。アンナリーゼと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
礼を返すと、目の前でも膝が折られ、衣擦れが静かに重なる。私へ向けて下がる頭を見届けてから、ようやく、つまんでいた裾を放す。
人垣の奥から、喪を思わせる深い紺の衣装の婦人が進み出る。淡い金の髪をきつく結い上げ、閣下の前で形の整った礼をする。裾の重い布は、明るい床の上でも光を弾かない。
「義兄上。ご再婚、おめでとうございます」
「……リヒャルダ」
閣下の声が、わずかに低くなる。先の奥様の妹で、息子の叔母にあたる方だと、近くの方の囁きで知る。婚約の間、一度もお見かけしなかった方だ。リヒャルダ様の青い目が、私の髪の先から裾までをゆっくりとなぞる。
「姉の席は、座り心地がよろしくて?」
周りの囁きが止む。楽の音だけが妙にはっきり聞こえる。袖口をつまみ、顔を上げようとするけれど、リヒャルダ様の口元から先へ目が進まない。
「……まだ、座り慣れておりません」
語尾が細くなる。つまんだ袖口を、放すこともできない。
「まあ、正直ですこと。慣れるまで、せいぜいお気をつけあそばせ」
「祝いは受け取る。皮肉は、置いて帰れ」
閣下は声を張らない。それでも、リヒャルダ様の笑みが止まる。私へ向いていた目が閣下へ移り、開きかけた唇が結ばれる。
「……ええ。お祝いだけ、置いてまいりますわ」
リヒャルダ様は裾を返し、人垣の向こうへ退く。その姿が見えなくなってから袖口を放すと、布の縁が細く折れたまま残る。
閣下の腕に指を添え、楽の音に合わせて一曲踊る。磨かれた床を裾が滑り、灯りの中に靴先を見失いかける。
「足元は見なくていい」
「……はい。でも、閣下の足を踏んでしまいそうで……」
踏み出すのをためらっても、添えられた手は急がない。楽の音に遅れかけた私を、無理なく次の動きへ導く。
「私の足なら、私がよけよう」
「それでは、閣下ばかりお忙しくなります」
閣下の口元が緩む。俯いていた顔を上げると、閣下の目がこちらを向いている――その瞳に映る優しい瞳に、私は慌てて目をそらしてしまった。
足元は見なくていいと言われたばかりなのに、また床の灯りへ目が落ちる。腕に添えた手を離すことも、今はできそうにない。
◇
帰りの馬車でやっと腰を落ち着ける。裾を直すと、車輪の音が行きよりも近くに聞こえた。
「……先ほどは、ありがとうございました」
「礼を言われることはしていない」
会場の灯りが、まだ目の奥に残っている。袖口の折れたところを伸ばしながら、私は閣下を見た。
「それでも、嬉しかったのです。……私が顔を上げるまで、待っていてくださって」
「君を置いて、先へ行くつもりはないからな」
整えたばかりの袖に、また目を落とす。礼を言う言葉は知っている。その先を返そうとすると、喉の奥が詰まる。
「リヒャルダ様は……」
「先の妻の妹だ。姉を、大事にしていた」
閣下は窓の外を見たまま答えた。街の灯りが横顔を照らし、窓枠の向こうへ流れていく。それから、こちらへ顔を戻す。
「君は、何を望んでいる?」
「……私の望み、ですか?」
帳簿のない膝へ指を置く。広げる頁も、確かめる欄もない。目を落とすと、指が衣装に小さな皺を寄せていた。
家の用件なら、門でもすぐに答えられる。今は開きかけた口を閉じ、閣下の上着の釦を見つめることしかできない。
「さて、この後どうしよう?」
「……もう少し、閣下のお話を聞きたいです」
閣下が私へ体を向けた。揺れる灯りに、こめかみの白い髪が浮かぶ。膝の指をほどくと、布の皺がゆっくり戻る。
「ほう、こんなおいぼれの話など何が聞きたい?」
「お、おいぼれなんてこと、全然ございませんわ!」
思わず顔を上げる。狭い馬車の中に、自分の声が思ったより大きく響いた。
「ははっ、ありがとう。でも、私も君の話を聞いてみたい」
「えっ? 私のことなんてそんな……」
声が途中で細くなる。閣下の膝は、私へ向いたままだ。
「……何も頼まれていないと、話すことが、見つからなくて」
言い終える前から、唇が謝る形になりかける。けれど、閣下は続きをせかさず、揺れに合わせて体を支え直すだけだ。
「まぁ、そんな構えなくてもいい。いいワインが手に入ったんだ。グラスを傾けながらのとりとめのない話も、悪くない」
膝の上の布は、もう平らになっている。伸ばすところを探していた手を止め、私は顔を上げる。
「でも、何かのお役に立つ話でもありませんし……お聞かせして、困らせませんか?」
車輪の音のあいだに、閣下が笑う。声は立てず、目尻だけを和らげる。
「困らない。君も、答えを整えなくていい。話しながら考えよう」
私は頷く。窓の外にはもう門の灯りが見えていて、その光へ向きかけた顔を、閣下のほうへ戻す。




