5. 小遣い
数日後の夕方、玄関の広間で私は帳簿を開く。窓に残る夕焼けが薄れ、壁の灯りが紙の上まで届き始める。夜会へ出る支度は済んでいる。出がけに目を通すだけのつもりが、白い欄で目が止まる。
嫡男の小遣いは月の初めに渡され、使い道を書き添えるのが家の決まりだ。先月の欄だけが、白いまま残っている。渡した記録はあるのに、その先が続かない。
階段を下りてくる足音がする。夜会の上着に袖を通した息子が、襟を直しながら玄関へ向かってくる。磨かれた靴の先は、私の前を通り過ぎるつもりのように扉へ向いている。
「……その格好で、どちらへ?」
「決まっているだろう。今夜の夜会だ」
息子は足を止めても、帳簿には目もくれない。袖口を引いて整え、私が脇へ寄るのを待つように顎を上げる。
「同伴のお許しは、まだお出ししていませんが」
「同伴じゃない。俺は俺で行く。自分の金でな」
私は紙の端を押さえる。扉へ向きかける息子に、開いた頁を示す。
「では、ちょうどよかったです。その自分のお金のことを伺います」
「なんだと! 俺の金だ。あんたに訊かれる筋合いはない!」
そこでようやく、息子の目が帳簿へ落ちる。私はその顔を見てうなずく。
「暮らしに要る分は、そのままお渡しします。ただ、小遣いは、使い道を確かめるまでお預かりします」
「なっ、何を言うんだ! 小遣いを返せ!」
空欄を指して帳簿を息子へ向ける。
「使途不明金では母が困ります」
読めるよう持ち上げると、息子の目が白いところを避けて私へ戻る。
「は、母だと! まだ言うか、婚約者だったくせに!」
「はい。わたくしはあなたの母ですわ。こちらの空欄に使い道を書いてください」
指した場所を動かさずにいると、息子の肩が下がる。帳簿を覗き込み、すぐに顔をそらすので、私は閉じずに待つ。
「いつまで立たせる気だ! 子ども扱いするな!」
「お座りになりますか? 書くのでしたら、そのほうが楽ですね」
卓のそばの椅子へ目を向けると、息子もそちらを見る。浮きかけた腰が、すぐに戻る。
「座ったら、書くことになるだろうが!」
「立ったままでも、書いていただきます」
息子は唇を噛み、帳簿から目をそらす。帳簿が重くなってきたので、私は肘を体に寄せて支え直す。
「書くほどのことじゃない! 夜会で……」
「夜会で、どうなさったのですか?」
言いかけた息子の目が帳簿から、私の夜会の装いへ移る。侍女が整えてくれた深い青の衣装に、玄関の灯りが柔らかく流れる。襟元の留め具にも、淡い光が宿る。
「あなたが行くなら俺も同伴する! 夜会で使うんだ。あなたは行くのに、俺は残るのか?」
「これからの使い道ではなく、今までの分を伺っています。お返事をいただくまでは、同伴も許せません」
息子が頁の端に手を掛ける。
「……本気で行かせない気か?」
「本気で、お返事を待っています。空いているままでは、確かめられませんから」
頁が引かれ、紙に浅い皺が寄る。私は引っ張り返さず、帳簿ごと息子へ近づける。
「そんなに書かせたいなら、あなたが書けばいいだろう!」
「書き留めることはできます。どうお使いになったのですか?」
息子の唇が動く。けれど、帳簿に移せる言葉は続かない。握られていた紙の端が、ゆっくり離れる。
「……言いたくないことだって、あるだろう?」
「では、言いたくなったときに伺います。同伴は、そのときまで」
息子は空欄を睨んだまま動かない。先ほどまで襟を整えていた手が、今は上着の脇で握られている。
「今夜はもう、支度をしたんだぞ」
「ええ。襟もきれいに整っていますね」
「なら行かせてくれ!」
「お返事をいただければ、伺った内容を確かめます」
息子が扉を見る。私もそちらへ目を向けると、扉のところで侍女が頭を下げて告げる。
「お出かけの支度が整いました」
閣下が自分で迎えに来て、私に手を差し出す。外套の襟を正した姿が玄関の灯りに浮かぶ。書斎にいるときより大きく見えて、頁から指を離すのを忘れる。
「用意はよいか?」
私は顔を上げたまま、返事を探す。衣装も髪も整っているのに、帳簿だけがまだ腕の中にある。閣下の目が、そこへ静かに落ちる。
「その頁は、帰ってからにしよう」
「……私を迎えに、いらしたのですか?」
差し出された手へ目を落とす。帳簿を渡しそうになり、抱え直す。息子が何か言いかけるけれど、閣下の手は下がらない。
革の角が衣装に当たる。帳簿を渡すときなら、こんなに迷わずに済む。差し出すものを抱えたまま、私はその手を見つめてしまう。
「君と出かけるのだから」
「は、はい、嬉しいです」
思ったより声が弾む。慌てて卓へ置くと、革の表紙がコトリと鳴る。
「急がなくてよい」
「申し訳ありません。お待たせしてしまって」
閣下は差し出した手をそのままに、私の顔を見る。玄関の扉はまだ開かない。誰も、先へ行こうとしない。
「謝ることかな? 君の支度を待っているだけだ」
「……待っていただくのは、慣れておりません」
口にしてから、帳簿を置いた卓へ目を逃がす。
「では、今夜は慣れるところからだ」
柔らかな声に顔を戻すと、閣下の口元がわずかに緩んでいる。私はうなずきかけ、今度こそ差し出された手へ向き直る。
息子が閣下の前へ出る。夜会の上着の襟が、灯りの下で妙に白い。
「父上……本当に、この人を連れて行くのですか?」
「妻を連れずに、誰を連れて行く?」
閣下の返事は短い。息子は私を見るけれど、その問いへの答えを私も持ち合わせていない。
「くっ……」
息子が上着の襟を握る。その傍らで、私は空いた掌を衣装の脇に下ろしかけ、途中で止める。差し出されたままの閣下の手へ、目を戻す。
「大丈夫です……ただ、閣下。指一本触れないと、仰いましたが……」
「同伴の手は、夫の務めのうち――腕を貸すだけだ」
息子が、卓の帳簿と閣下の手を見比べる。
「……父上、俺の小遣いのことは」
「女主人に返事をしてからだ」
息子の口が閉じる。整えたばかりの襟を、行き場をなくした手がまた直す。閣下の手は、まだ私の前にある。受け取ってよいと分かっても、手はすぐに動かない。
卓の帳簿を、息子のほうへ少しだけ寄せる。皺のついた頁は閉じず、そのままにしておく。
「帳簿は、ここに置いておきます。書きたくなったら、いつでもどうぞ」
「書くか!」
息子の声を背中で聞きながら、差し出された手を取る。
「……では、お借りします」
閣下の外套の袖に、私の衣装の深い青が並ぶ。鉄の輪を握ったときとは違う温かさが、指に触れる。




