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4. 格が上がった

 翌朝、客間の窓から差す光が、帳簿の写しを白く照らしている。向かいでは息子が朝の茶を飲み、窓辺の机では閣下が手紙を読む。紙をめくる音の合間に、扉のところで執事が一礼する。


「伯爵様がお見えです」


 背中が固くなる。紙の角を押さえた手に力が入り、薄い端が反り返る。私はそれを撫で戻し、まだ見えない扉の向こうへ膝をそろえる。茶器を口元へ運びかけていた息子が、ぱっと顔を上げる。


 入ってきた父は、満面の笑みだ。晴れの日の上着の釦が、朝の光を弾く。私の前まで来るより早く、よく通る声が客間に響く。


「アンナリーゼ! でかしたぞ!」


「……お父様。朝から、どうなさったのですか?」


 祝いの声に顔を上げても、父の目は、もう私の肩越しに閣下を探している。深々と頭を下げ、広げた腕を上着の縫い目に沿わせる。


「閣下、このたびは娘を……いやはや、なんとお礼を申し上げてよいやら!」


「礼は要らん」


 閣下は手紙を伏せる。父はそれを待っていたように顔を上げ、私を手で示す。


「娘は昔から、手のかからぬ子でしてな。何を申しつけても、はい、と頷く。嫁いだ先でも、よく務めるはずですぞ」


 褒められているのだから、笑うところだ。唇の端を上げると、伏せた手紙から閣下の目が私へ移る。


「……そうか」


 父がまた口を開く前に、息子が長椅子から立つ。茶器を置く音が高く鳴り、父の前へ上着の裾が翻る。


「伯爵、娘を連れて帰ってくれ! こんな話、あなたも不本意だろう!」


「とんでもない! 嫡男殿から当主殿へ、娘の相手の格が上がったのですぞ!」


 父の声が息子の声を追い越す。差し出しかけた息子の腕が、行き先を失って宙に残る。


「か、格……!?」


「これは若様……いえ、今は、娘の息子殿でしたな」


 父が息子へ向けて礼をし直す。丁寧になるほど、息子の眉間に深い皺が寄る。


「呼び直さなくていい! 俺はあなたの孫になったつもりはない!」


「おお、孫が公爵家の嫡男! これはますますめでたい!」


 息子が何か言おうとして、喉を詰まらせる。上機嫌な父は、息子の怒った顔にも大きく頷く。


「祝うな!」


「いやいや、遠慮は無用ですぞ!」


 行き場のなくなった腕が、力なく下がる。


「くっ……」


 息子は長椅子へ戻り、茶をあおる。空になった茶器の底を見つめる横で、父は満足そうに襟を直す。父は私の膝の上の紙へ目を留め、それから閣下へ向き直る。


「閣下。ついでと申しては何ですが、伯爵家の今季の払いを、少々こちらの帳簿で立て替えていただけませんかな? 懇意の店の布と蝋燭でしてな。なに、娘の実家のことですから」


「公爵家の帳簿は、女主人が預かっている」


 父の笑顔がこちらへ回る。娘の顔より先に、帳簿の写しへ視線が落ちる。その声が、幼い頃の私に言いつけをするときの、優しい高さになる。


「アンナリーゼ、父の頼みだ。いつものように、頷いておくれ」


 顎が下がりかける。返事を選ぶより先に、首が動く。父の口元が緩むのを見て、私は下を向く途中で止まる。


 写しの端が、また反っている。押さえ直すと、大伯母様の字を写した払いの欄が目に入る。ここの布も、灯りも、この家で使うためのものだ。


「……お父様。家の帳簿は、この家の用件にしか使いません」


「な、なんだと……?」


 父の笑みは残っている。ただ、私を見たまま、その先が動かない。


「伯爵家の払いは、伯爵家の帳簿でお願いします」


 長椅子の息子が、茶器を持ったまま固まっている。


「……親に、言い返すのか……?」


 息子の手の中で、茶器がかすかに鳴る。父はそちらを振り向きもせず、私へ身を乗り出す。


「娘の実家の払いだぞ! 知らぬ家に金を出せと言っているのではない!」


「はい。よく知っております。ですので、お父様の家の帳簿に載せてください」


 声は出る。家の用件なら、記す場所を確かめればいい。私は紙の上に置いた手を離さず、父の次の言葉を待つ。


「わしが頼んでいるのだぞ! 父の頼みより、帳簿のほうが偉いと言うのか?」


「はい。この家では、帳簿のほうが先です。お父様の払いだからと、ほかの家の欄は作れません」


 父の肩が落ちる。長椅子の端へ腰を下ろすと、上着の釦が陰に入る。息子は席を詰め、空の茶器を卓へ置く。


「お前は昔から、家の決めたことに頷く、いい娘だったのに」


 唇が開く。けれど、帳簿のことなら続いた声が、今は出ない。父は袖口を直している。私はその手が止まるのを、まだ、何か言ってもらえるように待ってしまう。


 袖口が整っても、父は私の名を呼ばない。


 机の上で、閣下が手紙を脇へ寄せる。紙を置く静かな音に、私はようやく父の袖から目を離す。


「伯爵。婚約を振り替えたのは私だが、後妻になると言ったのは彼女だ」


 父のまばたきが止まる。私の手も、紙を押さえた形のまま動かない。あの日、書斎の扉を叩いた手だ。閣下の前で届を押さえていたときも、この手は震えていた。後妻になります、と言ったのは、この口だ。父でも、家でもない。


 写しから目を上げる。閣下は私の返事を急かさず、父が口を開くのを待っている。


「し、しかし閣下……」


「伯爵、今日の用件は、これで済んだかな?」


 父は閣下と私を見比べる。私の顎は、もう動かない。


「は、はい……」


 父は咳払いをして立ち上がる。来たときより小さな声で挨拶を済ませ、扉の向こうへ姿を消す。上着の明るい釦だけが、最後まで目に残る。


 窓の光は変わらないのに、茶の香りが薄い。


 閣下も手紙を持って席を立つ。書斎へ戻りかけ、扉のところで私を振り返る。


「帳簿のことは、君の決めたとおりでいい」


 扉に手を添えたまま、閣下は私の返事を待っている。急いで頷こうとして、私は先に顔を上げる。


「……はい」


 閣下が頷き、静かに扉が閉まる。遠ざかる靴音を聞きながら、折れかけていた紙の角を撫でる。まだ、少し白い筋が残る。


 息子は、父の出ていった扉を見ている。茶器に添えた手は動かず、口元だけが頼りなく歪む。


「……あなたの父親は、いつもああなのか?」


「はい。……いつも、ああです」


 息子が黙る。窓の外で馬車の車輪が石畳を鳴らし、その音が遠ざかっても、返事はない。


「頷いておくれ、って……いつも、あれに頷いてきたのか?」


「ええ。頷けば、喜んでくださいますから」


 息子の目が私へ向き、すぐに茶器へ落ちる。何か言いかけた唇が閉じる。私は写しを卓へ置く。紙を離した手を重ねず、息子の顔が上がるのを待つ。


「あなたの結婚のお話は、最後まで伺います。母のお返事は、それからです」

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