29. 息子の許し
婚礼の前夜の書斎には、窓の隙間から秋の夜気が忍びこんでいる。庭の虫が鳴きやむと、灯りの芯がかすかに鳴った。明日の段取りを確かめ終え、ローラントと私は帳簿を閉じる。机の端では、水差しの白い花が、灯りのほうへ首を傾けている。
「……眠れそうかな?」
「ね、眠らなくてはと思うのですが。帳簿を閉じたら、急に、明日が本当に来る気がして」
私は革の表紙に手を戻し、閉じていることを確かめた。もう、今夜の仕事は残っていない。
「ははっ。私もだ。明日が待ち遠しい」
「……同じなら、少し安心します」
扉を叩く音がして、執事が封書を差し出す。
「伯爵様から、今日の夕方に」
封を開くと、見慣れた父の太い字が目に入った。伯爵家の席を上座に、と書いてある。
「返事は、君が書くかな?」
ローラントが白紙を寄せ、筆を私のほうへ押しやる。紙の端を押さえていた手は、そのまま静かに離れた。
「……はい。私から、お返事を」
空いた紙の前に座り直し、筆を取る。書き進める先で、乾く前の墨が細く光る。
『お父様とお母様のお席は、花嫁の親の席に、ご用意しております』
ほかには書き足さず、墨が乾くのを待って封をした。
「親の席で、見ていただこう」
「はい。……お母様と並んで、私の顔を見ていていただきたいです」
返事を執事に託す。やがて、また扉を叩く音が聞こえる。
「……入ってもいいか?」
扉の前から帰した、あの夜と同じ声だ。今夜は、その声が私の返事を待っている。
「どうぞ」
息子が入ってきて、机から離れたところで足を止めた。襟元が曲がっている。灯りの届く頬も、いつもより白い。
「明日の前に、言っておくことがある」
「……座りますか?」
「いい。立ったままで言う。ちゃんと、顔を見て」
脇に下ろした拳が、上着の布を握り込んでいる。息子は唇を湿らせ、私から目をそらさずに口を開いた。
「あの日のことは……すまなかった」
客間で聞いた声が、耳の奥によみがえる。けれど、今、目の前にいる息子の声は、あの日とは違う。私は机の縁から手を離し、膝の上に置いた。
「……はい」
息子が長く息を吐く。握っていた布が離れ、皺だけが上着に残る。咳払いをすると、今度は耳の先が赤くなっていく。
「母上。ちゃんと、息子に頭を下げてください」
「……え?」
「母上が言ったんだろう。ちゃんと頭を下げるまでは、許さないって」
ローラントが口元を押さえた。隠した口の代わりに、肩が小刻みに揺れる。
「ははっ」
「父上! 笑うところですか?」
息子が父へ向き直る。その拍子に、曲がった襟の端が頬に触れた。
「笑うとも。ずいぶん、よく覚えている」
「忘れられるわけがないでしょう! 俺が、どんな思いで頭を下げたか!」
息子の声につられ、私の口元まで緩みそうになる。けれど、その襟はどうにも気になる。
「分かりました。でも、その前に、襟を直してもよろしいですか?」
「今から頭を下げる相手の、身なりを叱るな!」
襟へ伸ばしかけた手を、私は引っ込めた。
「叱ってはおりません。曲がっていたら整えるのが、母の務めですわ」
「頭を下げる間くらい、母親を休んでくれ!」
息子は襟元を押さえ、私が手を伸ばせないよう顎を引く。その顔を見ていると、笑いをこらえるのが難しい。
「はい。では、襟はあとで」
「休みが短い!」
声が書棚に響き、ローラントの肩がまた揺れた。息子の目が、助けを求めるように父へ向き、すぐに私へ戻る。
「ふふっ……はい」
こぼれた笑いが、ようやく静まる。私は椅子から立ち上がった。息子の前へ進み、裾をそろえて、深く頭を下げる。
「私たちの婚礼を、許してください」
見えるのは、敷物の模様と息子の靴の先。靴先がかすかに動く。返事を急かす言葉は出ず、私は裾をつかんだまま待った。
「許します。息子として」
顔を上げると、息子の耳が真っ赤だ。私と目が合うと、息子は慌てたように自分で襟を直した。それから父のほうへ向き直る。ローラントも、椅子から静かに立つ。
「ゼヴェリン。お前の婚約を、お前に訊かずに決めた。……すまなかった」
「……俺は、自分で選びましたから」
息子の目が、床へ落ちる。けれど、言い終える前に、また父の顔へ上がった。
「……ああ。いい娘を選んだ」
「し、知ってます!」
耳だけでなく、首まで赤い。それでも息子の口元は、もう固く結ばれてはいない。
「……父上も、明日はうれしいんですよね?」
「ああ。うれしいよ。お前に、そう訊いてもらえることも」
ローラントが目尻を下げて笑った。うれしい、と私も言おうとする。唇が動くより先に、頬を温かなものが伝う。そっと触れると、指先が濡れていた。
「な、泣くな! 泣くのは明日でいいだろう!」
「……泣いて、いません」
拭ったところを、また涙が伝う。顔を上げていたいのに、灯りも、息子の顔も、揺れてしまう。
「嘘が下手だな」
「……あなたに言われたく、ありません。あなたこそ、目を」
息子は慌てて顔をそらし、袖で目元をこすった。その袖が下りても、こちらを向かない。
「俺は、違う! これは……いいから、今は俺の心配をするな!」
「ですが、そんなにこすっては」
言いかけた私へ、息子が顔を戻す。赤い目を隠すのをやめ、そのまま私を見る。
「……明日は、祝われるほうにいろよ。皆のことばかり気にしてないで」
「……私、ちゃんと、そうできるでしょうか?」
声が細くなり、唇を結んでも震えが残る。息子は開きかけた口を閉じ、私の返事を待っていたときよりも、まっすぐ背を伸ばした。
「できなくても、俺たちが祝う。だから、そこにいてくれ」
「……はい」
膝へ戻そうとした手が、途中で止まる。何も整えるものを探さず、私はその手を下ろした。
「イルミナが、廊下で待ってるんだ。……おやすみなさい、母上。父上も」
「おやすみなさい。……明日、よろしくお願いしますね」
「……任せろ」
こちらを向いた息子の口元が、少し上がる。その顔がまた涙でにじむうちに、扉が静かに閉まった。
灯りの芯が、小さく鳴る。ローラントが近づき、私の前で止まる。窓硝子には、寄り添いそうでまだ離れている影が映っていた。
「……触れても、いいか?」
「……はい」
指先が、頬の涙をそっと拭う。窓から来る夜気に冷えた肌には、驚くほどの温かさだ。私は伏せかけた顔を、その手のほうへ向けた。
「……泣き顔を、初めて見た」
「見ないで、ください。戻し方が、分からなくて」
ローラントの手が止まる。目をそらすのを待つように、頬へ触れたまま動かない。
「隠さなくていい。ここには、私しかいない」
「……笑うつもりなのです。うれしいのに、顔が、言うことを聞かなくて」
拭ってもらった頬に、また涙がこぼれた。それを追う指先の向こうで、灰色の目がやわらかく細まる。
「笑っているよ。……明日も、泣くかな?」
ローラントの指先に、私の涙が光っている。目を伏せずにその顔を見つめ、震える唇をゆっくりほどいた。
「……明日は、笑います」




