30. 婚礼
十月十日。開いた扉の向こうで、大広間の高い窓が秋の光を受けている。白い卓布に花の影が落ち、磨いた床まで淡く染まっていた。窓の外では、色づきはじめた葉が風に揺れる。
上座には大伯母様。親族の席のリヒャルダ様は、隣の空いた椅子に青い小さな花を置いている。家の者の席にはイルミナ様。花嫁の親の席に並ぶ父と母も、扉へ顔を向けた。父は口を結び、背をまっすぐ伸ばしている。客の席には男爵と、あのとき扇の陰で囁いた婦人たちも見える。
扉の前で、大伯母様付きの侍女が私の裾を整え、髪へ目を上げる。
「奥様、髪の花が、少し傾いております」
「……ありがとう」
花を直した侍女が下がると、イルミナ様が駆け寄ってきた。結った髪まで弾んでいる。
「お義母様! とっても、きれいです!」
「ありがとうございます。……イルミナ様、お席へ。裾を踏んでしまいますよ」
「裾より、お顔を見せてください! どうして私の足元ばかり気になさるんですか!」
伸ばしかけた手を戻すと、イルミナ様が私の顔をのぞき込む。
「今日は、お義母様を見に来たんです。歩いていらっしゃるところ、すぐ近くで見ていますから!」
「……はい。転ばないように、歩きます」
「転んだら、旦那様が走ります!」
「走ると、あなたの旦那様まで転びますよ?」
イルミナ様が噴き出し、口元を押さえた。
「もう! 今日くらい、ご自分の心配をしてください!」
笑う声を残して、イルミナ様が戻っていく。私は、自分で選んだ白に淡い黄の糸が走る衣装の裾を持ち上げる。細かな刺繍が光を含み、布のひだに朝の色が溜まる。
扉から、ローラントの待つ場所まで、自分の足で歩いた。誰にも手を引かれていない。花嫁の親の席で、父の手が膝の上でわずかに浮き、また下りる。靴音と衣擦れが、静まっていく広間に響く。足元へ落ちそうになる目を上げると、ローラントの目がこちらを見ていた。
黒い礼装には、白い小さな花。ローラントは私が目の前で止まるまで待ち、少しかすれた声を落とす。
「……きれいだ。君をずっと見ていた」
「そ、それは……今、言わなくても」
「今、言いたいんだ。あとでも、聞いてくれるかな?」
「……お顔を見ないでよければ」
上座で、大伯母様が扇を鳴らす。
「あらあら、お熱いこと……」
家の者の席で、イルミナ様が両手を口に当てて笑う。
ローラントの目尻が下がる。その横から、息子が前へ出た。
「……父上。口上の前に、のろけないでください。俺が何を言うか、忘れます!」
息子が襟元に触れ、客へ向き直る。咳払いのあと、広間の奥まで見渡すように顔を上げる。
「本日、当主ローラントと、アンナリーゼの婚礼に、嫡男として口上を申し上げます」
婦人たちの間にざわめきが起こる。寄せ合っていた扇が下がり、その顔が息子へ向いた。息子は、目をそらさない。
「父上が決めた婚約に、俺の意思はありませんでした。けれど、この式を祝うのは、俺の意思です」
衣擦れまで遠のく。婦人たちの扇は下がったまま、囁きも戻ってこない。
「母の部屋も、母の名も、この家に残っています。この家の女主人は、それを消さずに、ここへ来てくれた人です」
息子の目が、親族の席の青い花へ動く。声が、そこで少し細くなる。
「母に会いたい気持ちは、今も変わりません。でも、この人がいてくれて、うれしい。……それも、ちゃんと言いたいんです」
息子が私へ向き直った。今度は客のほうを見ず、まっすぐに頭を下げる。
「……母上。父上を、よろしくお願いします」
頷こうとして、うまくできない。瞬きをするたびに頬が濡れる。裾を握っていた手をほどいても、今度は唇が震えた。
「はい。……大事に、します」
頭を上げた息子がにじむ。ちゃんと見ておきたいのに、拭いても拭いても涙が止まらない。笑おうとすると、声まで崩れる。
「……うれしいのです。こんなふうに、祝ってもらえるなんて」
リヒャルダ様が隣の椅子へ顔を寄せた。青い花の茎に添えた手が、少しだけ震えている。
「……姉さん。聞こえた?」
息子が目元をこすり、ローラントへ向く。
「それから、父上。……母上を泣かせたら、俺が許しません」
「……肝に銘じよう。だが、今、泣かせているのはお前だぞ」
息子の口が開いた。あわてて私を見るその顔に、涙のまま笑ってしまう。
「これは違います! そういう意味ではなくて!」
「あら、壁が口上まで述べるようになったわ。ふふふっ」
大伯母様が扇から目をのぞかせる。客の間へ笑いが広がり、男爵も肩を揺らしていた。
「大伯母様! 今日くらいは、壁はやめてください!」
「褒めているのよ。こんなに頼もしい壁なら、花嫁も安心ね」
息子が言い返そうとすると、イルミナ様が身を乗り出す。
「ふふっ、旦那様、格好よかったです!」
「……壁でもか?」
「壁だったら、私まで泣きません! もう、せっかく褒めているのに!」
イルミナ様が布で目元をこする。その頬が赤くなるので、私はつい口を開いた。
「イルミナ様、お目元はそっと。こすらず、押さえるのですわ」
「自分の顔が先だろう!」
自分の頬へ布を戻すと、今度は広間じゅうが笑う。泣いている顔を上げたままでも、誰も目をそらさない。
ローラントが、息子へ向き直る。
「……ありがとう、ゼヴェリン」
「……礼は、母上に言ってください」
ローラントが頷く。息子は顔をそらしかけ、けれど、私を見て口元を緩めた。
花嫁の親の席で、父が何か言いかける。母の手が袖に重なると、父は口を閉じた。握った拳を膝に置き、座ったまま私を見ている。母も、こちらを向いている。私は濡れた頬を隠さずに笑う。
大伯母様の扇が、パチリと閉じた。
「さあ、ローラント。いつまで花嫁を待たせるの?」
「ええ。もう、待たせません」
ローラントが私へ向き直る。その目にも秋の光が入り、灰色がやわらかく明るむ。
「アンナリーゼ。これからも、隣にいてくれるかな?」
「はい。……私も、そうしたいです」
返事をしてから、下がりかけた顎を上げ直した。待っている目を、今度はそらさずに見る。
「ありがとう、嬉しいよ……」
「……私、すぐにお返事ができないことも、あると思います」
「待つよ。君の言葉を聞きたいからな」
差し出された手が、私の前にある。待っていてくれる掌に、自分から手を重ねた。
「ローラント。うれしいです。……うれしくて、困るくらい」
「では、困るときも隣にいよう。私も、今は少し困っている」
笑う口元が近づく。けれど、触れる手前で、その動きが止まる。
「口づけを……」
「……今日は、訊かなくていいです」
唇が、一瞬だけ触れる。
大広間に、ため息のような声が満ちた。リヒャルダ様は青い花へ目を落とし、そっと茎の向きを直す。
「あら……うふふ。長生きは、してみるものだわ」
扇に隠れる目尻が光る。私の手は、ローラントの手の中にある。
「……ローラント」
「なんだ?」
「……呼んでみた、だけです」
名を呼べば、目が合う。今はもう、その顔を見たまま笑える。
「……君を、幸せにする」
「はい、ローラント。今度は私が、あなたを幸せにしますわ」




