28. 俺の母は
秋の夕日が、離れの広間の床を蜂蜜色に染めている。大伯母様が招いた客の間に、秋の花の香りと、焼き菓子の甘い匂い。楽の音に扇の音が重なる。ローラントと一曲踊り終えた私は、壁際でようやく肩の力を抜いた。
「お義母様、踊り、お上手でした! 裾がふわっと広がって、お花みたいでした!」
「旦那様についていくので精いっぱいです。足を踏まないことばかり考えていて」
隣のローラントが、私の足元を見て笑う。
「今日は踏まなかっただろう? 顔も上がっていた。私のほうを見てくれたからな」
「父上。それは、踊りの自慢ですか? 奥方の自慢ですか?」
ローラントは、ためらいもせず背を伸ばす。
「両方だ」
「あぁ……聞くんじゃなかった!」
息子が額を押さえるので、私はその顔をのぞき込んだ。
「旦那様のお話は、最後まで聞くものですわ」
「のろけにも親孝行が要るのか!」
イルミナ様が口元を押さえ、こらえきれずに笑う。
「ふふっ、旦那様、お義父様はまだ話したそうですよ!」
息子の視線が、逃げ場を探すように茶器へ落ちる。私もつられて卓を見ると、イルミナ様が声を弾ませた。
「お義母様、明日は最後の合わせですね。あの色をお召しになるの、楽しみです!」
「はい。……私に、本当に似合うでしょうか?」
袖の縫い目を、爪の先でなぞる。選んだ布を思い浮かべても、それを着て皆の前に立つ自分の顔が浮かばない。
「似合います! それに、お義母様が着たいと思った色でしょう? 私、それがうれしいんです!」
「……ありがとうございます。そう言っていただけると、明日が少し、楽しみになります」
袖をなぞっていた爪が止まった。窓辺の椅子には、リヒャルダ様もいる。目が合いかけると、その顔が扇の陰へ隠れる。
背後で、銀糸の袖の婦人が声を落とす。楽の音に紛れるほどの低さなのに、言葉だけは耳へ届く。
「嫡男が、口上を渋っているそうですわよ」
隣の、淡紅の扇を持つ婦人がこちらへ目を流した。
「嫡男に祝われない後妻の式なんて、聞いたことがありませんわ」
喉の奥が熱くなる。返す言葉を探して、唇を開いた。声にならない。瞬きを二度して、こぼれそうなものを堪える。息を吸おうとすると、衣装の襟がいつもより狭い。顔を伏せる代わりに、茶器の白い湯気を見つめた。
隣でローラントの靴が床を擦る。その先へ出た息子が、低く呼び止める。
「父上。ここは俺に、言わせてください」
「……任せる」
イルミナ様が、つかんでいた息子の袖を離した。伸びた背筋が、婦人たちと私の間に入る。
「聞こえています。全部。俺の話なら、俺に訊いてください」
銀糸の袖の婦人が、扇の上に笑みを作る。
「まあ、若様。私どもは、ただ、世間の噂を心配して……」
「俺の母は、二人います」
淡紅の扇を持つ婦人が、口を開きかけたまま動きを止めた。
「……お二人?」
「俺を産んだ母と、俺に頭を下げさせた母です!」
広間に笑いがはじける。茶器を置いて肩を揺らす客もいる。息子は耳を赤くしているのに、私を振り返らない。
「あら……うふふ。いい答えね」
大伯母様が、閉じた扇で口元を隠す。そのそばで、銀糸の袖の婦人が声を細くした。
「でも、お寂しくはありませんの? お母君のいらした場所に、別の方が……」
「寂しいですよ。母には、今でも会いたい!」
息子の喉が動く。脇に下ろした拳が、上着の布をつかんでいる。銀糸の袖の婦人が、息子へ扇を傾ける。
「でしたら、そのようにご無理をなさらなくても……」
「無理じゃない! 母が恋しいのと、母上を祝いたいのは、別……。俺の気持ちを、勝手に決めないでください」
息子の声が、楽の音を越えて広間の奥まで通った。お礼を言おうとしても、唇が震える。私は袖口を握り、息子の横顔を見つめる。
リヒャルダ様が椅子から立つ。紺の裾が客の間を静かに抜け、息子の前で止まった。
「ゼヴェリン。口上、姉の分も、ちゃんと言いなさい」
「……はい、叔母上。叔母上にも、聞いていてほしいです」
リヒャルダ様は扇を持ち直す。息子の襟元へ目をやり、それから顔を見る。
「途中で言葉が止まっても、誰も代わってはくれませんことよ」
「止まっても、最後まで言います。だから、聞きに来てください」
息子が頭を下げた。リヒャルダ様の唇が動きかけ、結ばれる。扇の骨をなぞっていた手が、ようやく下りる。
「……言われなくても、行きます。姉の息子の口上を、この耳で聞きます」
「あら、リヒャルダ。いい顔をしているじゃない」
リヒャルダ様が、大伯母様のほうからつんと顔を背ける。
「……からかわないでくださいませ、メヒティルト様」
婦人たちの顔が、扇の向こうへ隠れた。リヒャルダ様が私の前を通る。そこで足が止まり、顎がかすかに動く。会釈と呼べるほどの動きではない。声を掛ける前に、紺の裾は窓辺へ遠ざかっていく。
私は、その背中へ頭を下げた。袖口を放すと、握っていたところに皺が残っている。撫でようとして、やめる。顔を上げれば、まだ息子の横顔が見える。
◇
広間の隅で、楽が次の一曲を始める。窓の青みに灯りが映り、踊る人たちの裾が花のように開いた。隣のローラントは、私と同じ方を見ている。下ろされた手が近い。待っていれば、きっと差し出してくれる手だ。
私はその袖に、そっと触れる。その目が、すぐにこちらへ戻った。自分から誘う言葉は用意したはずなのに、見つめられると、うまく口から出てこない。
「……もう一曲、いいですか?」
「……え? も、もちろん」
答えたのに、ローラントは動かない。私の顔を見て、触れた袖を見て、また私を見る。
「……いけませんでしたか? 女のほうから、お誘いするのは」
「いや。うれしくて、返事の先を忘れている。……もう少しだけ、待ってくれるかな?」
ローラントが襟元を直す。いつも先に待ってくれる人の耳が、灯りの下で赤い。
「……足も、動かなくなってしまいましたか?」
「君から誘われるのは初めてだからな。喜ぶだけで手いっぱいだ」
ようやく笑うその顔に、私の唇からも笑いがこぼれた。袖を離そうとすると、布に掛けた爪が少し引っかかる。
「では、私がゆっくり歩きます。足も、よけますから」
「ははっ。そこは私に任せてくれ。伯母様の扇に鍛えられた足だ」
私の足元へ向いた目が、また戻ってきた。音楽は待たずに先へ進む。けれど、今はまだ、急がなくていい気がする。
「……私からお誘いしても、こんなに待っていただくのですね」
「君と踊れるなら、待つのも楽しいよ」
袖に掛けていた手を、少しずつほどく。耳の熱を隠さずに顔を上げ、掌をその人へ向けた。
「……では、お願いします。そばで、踊りたいです」
「ああ。私もだ」
差し出した私の手を、ローラントが両手で受ける。




