27. 大伯母の昔話
秋の初めの午後、離れの庭では、萩の薄紅が風にほどけている。炉にはまだ火が入らず、古い茶器の金の縁に、戸口の光が映っていた。頬をなでる風は涼しいのに、茶から立つ湯気はまだ暑そうに見える。
「なぜ、私まで?」
リヒャルダ様は椅子の背に触れたまま、大伯母様を見ている。ローラントと息子と私は、もう卓を囲んでいる。
「座りなさい。今日は、年寄りの昔話よ」
「昔話でしたら、ほかの方にでもお聞かせになればよろしいのに」
大伯母様は、空いている椅子の前へ茶器を寄せた。受け皿の花模様が、リヒャルダ様のほうを向く。
「あなたに聞かせたいから、呼んだのよ」
紺の裾が動き、ようやく椅子の端に腰が下りる。大伯母様は茶で唇を湿らせ、扇を置く。
「あたしね、若いころ、家の決めた縁談を、自分の口で断ったの」
「大伯母様が……?」
息子の茶器が、口へ届く手前で止まった。大伯母様は、その顔を楽しそうに眺めている。
「嫌です、って。それで嫁がずに、この離れで、ずっと生きてきたわ」
「……初めて聞きました」
ローラントまで背を伸ばしている。大伯母様の声は、茶の好みでも話すように軽い。
「言わなかったもの。後悔しているように見える?」
「……見えません」
息子の返事に、大伯母様の目尻が深く下がった。肘掛けには、長く撫でられて丸くなった木の艶がある。
「あら……うふふ。でしょう?」
私はその肘掛けと、ゆったり預けられた腕を見比べる。嫁がずに残った方、としか考えていなかった。ここにいると、ご自分で決めた方なのだ。
ローラントが、茶器の持ち手から手を離す。
「……子どものころ、伯母様がこの離れにいらっしゃる理由が、不思議でした」
「訊けばよかったのに」
ローラントが、苦笑して目を伏せる。
「訊いてはいけない気がして。……お寂しくは、なかったのですか?」
「寂しい日は、本邸へ行けばいいの。帰りたくなったら、ここへ帰るわ」
戸口から入る風に、扇の房が揺れた。息子が、ようやく茶器を下ろす。
「……それで、いつもあんなに楽しそうなんですね」
「ええ、楽しいわ! 甥も、その息子も、育つほど面白いことをするんだもの」
息子の目が、父の顔へ動く。ローラントは庭を向いているけれど、口元を隠しきれていない。
「俺たちは離れの余興ですか?」
「ご家族がお元気なのは、喜ばしいことですわ」
私が答えると、息子は勢いよくこちらへ顔を戻した。何か困ることを言っただろうか。
「母上まで、観客に回らないでくれ!」
大伯母様の笑いにつられ、ローラントの肩も揺れる。私まで口元が緩みかけたところで、大伯母様が棚へ腕を伸ばした。下ろされた文箱の蓋から、古い木の匂いがする。
「八年前、ツェツィーリエから預かったの」
箱の中には封書がある。息子の笑みが消える。
「……母の文箱が空だったのは」
「あたしが持っていたからよ」
褪せた封を、大伯母様がそっとなぞった。その爪先で、乾いた封の縁がかすかに浮く。
「託すとき、あの子はこう言ったわ。ローラントの隣に座る人が、私を消さずにこの家に入ったと伯母様が思えたら、ローラントと、ゼヴェリンと、リヒャルダに渡して、って」
「……それが、なぜ今日なのです?」
リヒャルダ様の背は、椅子から離れたままだ。大伯母様は封書を置き、私へ目を向ける。
「この子は、あの部屋の鍵を、ゼヴェリンに渡したわ。墓の前で、消しませんとも言った。……あたしは、そう思えたの」
私は茶器から手を下ろす。部屋の鍵を外したときの重さが、何も持っていない掌に戻ってくる。
封書が息子へ渡る。封を開く手つきは慎重で、紙の端をつまみ直すたびに、小さな音がした。広げた紙を見つめる息子の唇が動く。
「……母の字だ。俺の名前の、ここ……いつも、こう曲がって」
「……ああ。ゆっくりでいい」
ローラントの声に、息子が頷く。紙を持ち上げ、姿勢を正してから読み始める。
『ローラント。私の席を空けたまま、この家を止めないでください。』
ローラントの手が、膝の上で固く握られた。顔を上げようとする顎が止まり、その目だけが紙の続きを追っている。
『ゼヴェリン。あなたの話を聞いてくれる母が、もう一人来てくれますように。』
息子の声が揺れる。唇は次の言葉の形になるのに、音が出てこない。持ち上げていた紙が、ゆっくり下がった。
「……まだ、聞いてほしいことが、あるんだ」
誰も、その続きを促さない。息子は口を結び、読み終えられないまま、リヒャルダ様へ紙を差し出す。
受け取ったリヒャルダ様は、自分の名のところで目を止めた。細い声が、紙の上をたどる。
『リヒャルダ。私を理由に、誰かを拒まないで。』
紙を持つ指が白い。読み終えても唇は閉じず、声にならない息だけが漏れる。
「なぜ……なぜ、八年も黙っていらしたの!」
「渡す日を、ツェツィーリエが決めていたからよ」
リヒャルダ様が顔を上げる。椅子の背に掛かった紺の布が、引かれて床へ落ちた。
「私は妹です! 姉が私に書いた言葉なのに、読むことさえ、できなかったのですか!」
「……待たせたわね。それでも、預かった言い付けを、あたしは変えることなどできないわ」
大伯母様は扇へ手を伸ばさない。リヒャルダ様の目を、静かに受け止めている。
「私は、姉の席を、守って……!」
「誰に頼まれて?」
開いていた口が閉じる。リヒャルダ様の肩から、張りつめていた力が抜け落ちた。頬に髪が掛かっても、払おうとしない。
「……姉さんは、ずるいわ」
さっきまで卓に響いていた声が、紙の届くところまでしか聞こえない。リヒャルダ様は自分の名を見つめ、折れかけた端をそっと伸ばす。
私は茶器へ伸ばしかけた手を止め、裾をつかんだ。話を聞くことなら、毎日してきたはずなのに。背筋を伸ばそうとしても、布を握る力ばかりが強くなる。
「……私に、務まるのでしょうか?」
言ってから、唇を押さえる。リヒャルダ様は顔を上げない。その目はまだ、姉の字から離れずにいる。
「……務まらなかったら、私が言いに来ます」
「リヒャルダ……」
ローラントが身を寄せかける。リヒャルダ様は紙を抱え、声だけを返す。
「義兄上は、黙っていてくださいませ!」
ローラントは口を閉じ、浮かせた腰を戻した。私は裾を離すけれど、ついた皺を直すところまでは動けない。
大伯母様が、冷めた茶器へ手を伸ばす。
「お茶、淹れ直しましょうか?」
「……まだ、飲めません」
大伯母様の前の茶にも、もう湯気はない。庭の萩が擦れ合う音が、開いた戸から届く。
「そう。欲しくなったら、言ってね」
リヒャルダ様は答えず、紙の角を傷めないように抱え直した。大伯母様も、それ以上は何も言わない。
◇
夕方、離れの縁で、ローラントと並んで座る。息子とリヒャルダ様は先に帰った。板には昼の温もりが残り、萩の影が私の靴先まで伸びている。
「さっきから、黙っているな。何を考えている?」
「……え?」
顔を向けると、その目がこちらを待っている。答えようとして開いた口から、言葉が出てこない。
「言いたくなければ、いい」
「い、言いたくないわけでは、なくて」
ローラントの口元が、ほんの少し緩んだ。その笑みを見ていると、用意しかけた言葉まで遠くなる。
私は裾に置いた手をほどく。萩へ逃がしていた目を、隣の顔へ戻した。声を出す前から、頬が熱い。
「……あなたのほほ笑む顔を、見たいと」




