26. 墓所
夏の終わりの朝、丘の上の墓所には、乾いた草の匂いが満ちている。石の列の向こうで、風が低い木立を鳴らす。式の前に先の奥様へご挨拶を、と願い出たのは私だった。ローラントと、息子と、イルミナ様と、大伯母様が一緒に坂を上る。日差しはまだ夏の白さなのに、袖を抜ける風は涼しい。
「お義母様、足元にお気をつけて。小石が滑ります」
「ありがとうございます。イルミナ様も、裾を踏まないように」
大伯母様の靴音が、軽く私たちを追い越した。
「あら、あたしの足元は誰も心配してくれないのね」
ローラントが、振り返って肩をすくめる。
「伯母様。心配するにも、まず追いつかねばなりません」
扇の先が、ローラントの肘をつつく。
「……坂の途中で突かないでください」
「転ばないように、支えてあげたのよ。ふふっ」
ローラントが、坂の下へ目をやった。
「……助けられる前より、危ないのですが」
イルミナ様が口元を押さえる。その隙間から、こらえきれない笑いが漏れる。
出がけに「お母様のお好きだった花は?」と訊くと、息子は「……青い、小さいやつだ。名前は知らない」と答えた。
息子の腕には、その青い花がある。風に花びらをさらわれないよう、体の陰へ抱え込んでいる。
「母は、いつもこれを窓辺に置いていた」
「ちゃんと、覚えていらしたのですね」
息子は花を見下ろしたまま、少し首をかしげる。
「……名前は聞かなかった。渡すと、笑ったから。それで、よかったんだ」
「お花より、あなたのお顔をご覧になっていたのかもしれませんね」
息子の口が動いて、言葉にはならずに閉じた。
墓の列の先に、紺の衣装が見える。リヒャルダ様が、同じ青い花を抱えて立っている。足音に振り向いた目が私で止まり、唇が細く結ばれた。
「……後妻が、姉の墓にまで」
「はい。ご挨拶に参りました。旦那様と、ご子息とご一緒に」
青い花の先が、紺の袖に押しつけられる。
「姉の前で、式の話をなさるおつもり?」
「はい。お姉様の前だから、申し上げに来ました」
私は、墓石の前で足をそろえる。
「……なんて、勝手な方! 姉は、嫌だと言うこともできませんのに!」
「お返事がないことを、お許しとは申しません。けれど、ご挨拶は、後から来た者の務めですわ」
息子が私の横へ出る。抱えている花が、袖をかすめる。
「叔母上。……聞いてください」
「ゼヴェリン。あなたまで、姉を……」
息子の靴底が、乾いた草を踏みしめた。
「俺は、母の花を持ってきたんです。忘れるためなら、持ってこない!」
「……聞くだけよ。姉の前で、嘘は言わせません」
リヒャルダ様は道を空ける。花を抱く腕だけがほどけず、細い茎が曲がっている。息子が、抱えていた青い花を私の手に渡した。
私は膝を折り、息子から受け取った花を墓前に置く。乾いた土の硬さが、布を通して伝わる。刻まれた名の溝には、朝の影が細く残っている。
「ツェツィーリエ様。……ゼヴェリン様と、旦那様を、お預かりしています」
言い終えるはずの声が、最後のところで頼りなく揺れた。
「私に務まるかは、まだ、分かりません」
茎から離した手を、すぐには膝へ戻せない。花びらに触れない場所を探すように、宙で止めている。
「この子が、母に会いたいと言ったとき、黙らなくてすむ家にしたいのです。私がいるからと、飲み込まなくてよいように」
石の前でほどけた花が、風に震えている。私は浮かせていた手を下ろし、刻まれた名に向かって言葉をつないだ。
「でも、お部屋も、お名前も、この家から消しません。……秋に、式を挙げます」
風が花の向きを変える。答えはない。
リヒャルダ様が口を開く。唇がかすかに動き、声を出さないまま、また結ばれた。抱えていた花が、私の置いた花の隣に下りる。曲がった茎をそっと伸ばすと、リヒャルダ様は誰にも目を合わせず、坂へ向かった。
紺の裾が遠ざかっても、青い花は触れ合ったまま揺れている。
「……母上。母の話をしても、嫌じゃないのか?」
「遠慮は要りません。あなたの大切な方のお話ですわ。私にも、聞かせてください」
息子の肩が、ゆっくりと下がった。
「私も、うれしいです。旦那様のお母様のこと、もっと知りたいです!」
「……うまく話せるかは、分からないぞ」
イルミナ様が、息子の袖にそっと手を添える。顔をのぞき込まず、同じ墓石へ目を向けている。
「はい。お話を、楽しみにしています」
息子は花を見つめたまま、小さく頷いた。
墓所の門で、大伯母様だけが振り返り、石の列を見ている。ほかの足音は、もう門の外だ。私も足を止めると、風にまぎれるほどの声がこぼれた。
「……そろそろね」
「大伯母様?」
「なんでもないわ。年寄りの独り言よ」
扇の縁が口元に戻る。大伯母様は私を先へ促し、ご自分もゆっくり門をくぐった。
◇
帰りの坂道を、息子とイルミナ様が先に下りていく。花のなくなった息子の腕に、イルミナ様の袖が触れている。隣で、ローラントの手が私の手を包んだ。
いつもの問いかけを待つ間もなく、歩幅がそろう。私はつないだ手を見下ろし、それから足元へ目を戻す。
少し下ったところで、ローラントが足を止める。目がつないだ手へ落ち、眉が困ったように下がる。
「……訊くのを、忘れた」
掌の温かさが、少し離れかける。私はその手を追いかけるように握った。
「……そのままで、いいです」
「そうか。……では、このままで」
また歩きだすと、道に落ちた影の間が狭くなる。砂を踏む靴音が、隣からも聞こえる。
「……ローラントの手は、いつも温かいですね」
「君の手が冷たいのではないかな?」
顔を上げると、ローラントの耳の端まで赤い。私は目を落として、小さく握り直した。
「……では、温まるまで、こうしていてください」
「温まったら?」
口を開いても、答えがつかえる。つないだ手は、緩められない。
「そ、それは……そのとき、考えます」
ローラントの口元がほころぶ。
木立の影に入っても、私の手を包むローラントの指のほうが、少しだけ熱い。




