25. 私の衣装
夏の午後、王都の通りに面した仕立て屋へ入ると、糊の匂いが鼻をかすめた。壁には巻いた反物が並び、店先に吊るした布が、通りの風を含んでふくらむ。奥から聞こえる鋏の音まで軽く、隣のイルミナ様の足取りも弾み、その後ろから、大伯母様が扇を手にゆったりと続く。
「お義母様、どんなお色にしましょう? 見ているだけで、わくわくします!」
「まだ、何も決めていなくて……」
「それを決めに来たのよ。のんびり構えなさい」
店主の仕立て屋が、白い髪を撫でつけた頭を低くする。抱えた帳面は、まだ閉じたままだ。
「……申し訳ございません。この秋は、お仕立てを承れませんで」
「……分かりました」
店の奥で布を選んでいた客が、こちらを振り向いた。頬が熱い。会釈を返そうとしても、唇だけがうまく動かない。私は、広げてもらうはずの反物を見る代わりに、自分の裾の縫い目をつまんだ。
「お店の奥の台、空いていますよね?」
イルミナ様が台を示すと、仕立て屋の額に汗が浮く。
「そ、それは、先のお客様の……先の奥様のお妹君、リヒャルダ様から、その……」
「あら、そう。ご贔屓の方には逆らえない、ということ?」
仕立て屋が、閉じた帳面を抱え直す。
「い、いえ! 決して、奥様を軽んじるつもりなど……!」
「軽んじるつもりはなくて、追い返すの?」
大伯母様の扇が閉じた。その先が、仕立て屋の腕の中を示す。
「あたしの顔で断る仕立て屋があるなら、見てみたいわ」
仕立て屋の目が、扇から大伯母様の顔へ跳ね上がる。
「め、滅相もございません! どうか、そのようには……!」
「あたしの衣装も、ずっとここで縫ってもらっているわね?」
仕立て屋は、襟元へ流れた汗も拭かずに頷く。
「は、はい……ご愛顧いただいております」
「なら、この子のを縫いなさい。あたしの大事な甥の奥方よ」
仕立て屋が私に向き直り、深く頭を下げる。
「……お詫び申し上げます。喜んで、承ります」
「そう。では、その帳面を開けてちょうだい」
仕立て屋が帳面を開くと、奥の客も布へ顔を戻した。頬の熱が残るまま、私は裾の縫い目から手を離す。
「お義母様、よかったです! ちゃんと、選べますね!」
「……はい。大伯母様、ありがとうございます」
「礼は、仕上がった姿を見せてからでいいわ。楽しみにしているのよ」
台に白、生成り、薄紅、藤色の反物が広がる。金の糸を織り込んだ布は、窓からの光を受け、折り目の奥まで輝いていた。どれも美しいのに、並べられるほど、伸ばしかけた腕が縮こまる。仕立て屋が布の端をそろえ、私を見る。
「お色は、いかがなさいますか?」
手が、反物の上で止まる。
「母が、いつも……いえ。少し、見せてください」
伯爵家では、布の色も花の色も母が決め、私はその前で頷いていた。どれがよいかと訊かれて、母の顔を探しかけた目が、見慣れない店の壁に行き当たる。
「お義母様の、好きな色は?」
「……あの、皆様がおかしく思われない色なら……」
「私は、お義母様が着たい色を見たいです!」
大伯母様の扇が、イルミナ様の袖に軽く触れる。
「急かさないの」
「……ごめんなさい。でも、お義母様のことも、お義母様に決めてほしいです」
向けられた顔から、また布へ目を落とした。触れようとしては手を戻すあいだも、誰も反物を畳まない。奥の鋏が止み、通りを行く車輪の音が、ゆっくり遠ざかる。
「……迷ってばかりで、申し訳ありません」
「謝るほど悪いことをしているの?」
顔を上げると、大伯母様は扇でのんびり風を送っている。
「いえ。……でも、皆様をお待たせして」
「待たせておきなさい。あなたが着るんだから」
そう言われても、喉はすぐには緩まなかった。薄紅へ向かいかけた手を下ろし、さっきから目が戻ってしまう布を見つめる。白に、淡い黄の糸が細く走っている。角を持ち上げると、やわらかな光が折り目からこぼれた。誰にも勧められていないのに、元へ戻すのが惜しい。
「……この色が、いいです」
「わぁ……お義母様に、似合います!」
顔を上げると、イルミナ様は身を乗り出し、私と布とを見比べている。
「……まだ、当ててもいませんのに」
「お顔を見れば、分かります! 今のお義母様に、ぴったりです! ふふっ」
大伯母様が扇を畳み、目を細めた。
「あら……うふふ。自分で選んだ顔ね」
「そ、そんな顔、していますか?」
頬の熱が耳まで移って、私は慌てて耳に触れる。
「しているわ。隠したって、その布を離さないじゃない」
耳を押さえていないほうの手は、白い布を握ったままだ。
「お義父様にも、早く見せてあげたいです!」
大伯母様が、扇の陰で口元を緩める。
「当日まで内緒にしてごらん。あの子、どんな顔するかしら」
私は反物の端をそろえながら、うなずく。
「では、ローラントの……いえ、旦那様の顔を見ておいてくださいね」
「今から楽しみですね!」
イルミナ様が声を上げ、大伯母様の肩が笑いに揺れた。私は握りしめていた布をそっと広げ、つけてしまった皺を撫でる。
「……では、当日まで内緒にします。この色で、お願いいたします」
仕立て屋が、開いた帳面に筆を添える。
「はい、奥様。お選びいただいた色で、お仕立ていたします」
◇
夕方の書斎で、ローラントが小さな水差しを机に置いた。白い小さな花が揺れ、黄色い芯を囲む細い花びらに、窓からの光が透けている。
「探したよ……」
上着も脱いでいないローラントの額に、うっすら汗がにじむ。机に添えた袖口には、小さな葉がついている。
「……これ、玄関の」
「庭師に訊いた。姫女苑、というそうだ」
「……ひめじょおん」
声にすると、見慣れた花に初めて呼びかけられた気がする。水差しへ顔を近づけると、かすかに青い草の匂いがする。
「好きだと言っただろう。名前は知らない、とも。……だから、探した」
「覚えて、いらしたのですか?」
ローラントは、何を不思議がるのかという顔で私を見る。
「忘れはしない。名前が分かったら教えてほしいと、君が言ったんだ」
「……好きだと、一度言っただけの花ですのに」
礼を言おうとした声が、途中で細くなる。ローラントは水差しを私のほうへ寄せ、傾いた茎をそっと直した。
「私は、君に教えたかっただけだ」
水差しの縁に触れると、ひんやりしている。言葉を探すうちに、私は目の前の花が揺れやむまで待つ。
「……庭師には、何とお尋ねに?」
「玄関の石の隙間に咲く、白い小さい花だ、と。……何度も聞き返された」
少し困った顔で花を見るので、私の口元も緩む。
「それでも、探してくださったのですね」
「ああ。次に玄関で見かけたら、君と名を呼べる」
私は花びらにそっと触れた。細い茎が揺れ、水の面に窓の光がほどける。玄関では屈まなければ見えない花が、今は、顔を上げた先にある。
「気に入ったかな?」
ローラントを見て頷くと、その目尻も下がる。私は、水差しの縁から手を離さずに答える。
「……ひめじょおん。もう、忘れません」




