24. 口上はまだ
夏の午後の庭では、蝉の声が木陰まで降ってくる。水を撒いた石はまだ色が濃く、裾をかすめる風に湿った匂いが混じっていた。イルミナ様と私は、客間に飾る花を切っている。息子は籠を持たされて、その後ろに立っていた。葉をよけると、隠れていた白い花にも日が当たる。
「……俺は、籠の係か」
「旦那様は、背が高いので」
「背の高さと籠は、関係ないだろう?」
息子が籠を持ち上げると、イルミナ様はその肩越しに枝を見上げた。
「あります。高いところの花も、取れます!」
「では、あちらの枝を少し下げていただけますか? 花はこちらで切りますので」
息子は籠を腕に掛け、枝へ手を伸ばす。私が鋏を構えたところで、その口がとがった。
「……俺は、はしごか」
「いいえ。大事な息子ですわ。はしごなら、終わってからお茶を出したりしません」
「俺とはしごの違いは茶だけか!」
イルミナ様が花の向こうで吹き出す。息子はそちらをにらむけれど、枝を押さえる腕は下げない。
「私は、旦那様とご一緒できてうれしいです。籠をお願いしてよかった!」
「……そういう言い方をするな。文句を言えなくなる」
花を受け取る籠が、私の手元へ寄った。まだ笑っているイルミナ様の袖に葉が付いていて、息子が黙って払ってやる。
離れのほうから、リヒャルダ様が歩いてくる。日傘も差さず、紺の衣装は襟元まできちんと閉じていた。乾いた小径を進む裾に、木漏れ日が滑る。
「ゼヴェリン」
リヒャルダ様は私の前で足を止める。会釈をしても、その目はこちらへ向かなかった。
「口上を述べれば、姉は、この家の母でなくなるのよ」
「そんなつもりは……」
「つもりの話ではないの。当主の式で嫡男が口上を述べれば、家の総意になるの」
息子の腕から枝が離れ、葉が揺れる。花を切り終えた私の鋏だけが、宙に残る。
「……叔母上。俺は、まだ、どう言えばいいか分からない」
「だからこそ、よくお考えなさい。皆の前で述べた言葉は、あとから戻せませんよ」
息子が籠を下ろした。傾いた縁から白い花がこぼれ、湿った石に触れる。イルミナ様が拾おうとかがみかけ、そのまま顔を上げる。
息子の目が私へ向く。何かを言いかけた唇が閉じ、籠から離れた手は行き場を失った。
「……母上」
「決めるのは、あなたです。……母は、待ちます」
「待つ? ずいぶん、お優しいこと」
「はい。あの子が言葉を選んでいる間は、待ちます。私が続きを言ってしまっては、あの子の返事になりません」
リヒャルダ様の目が、ようやく私を捉える。首筋に汗が伝うのに、花鋏を持つ掌は冷たい。
「秋になっても、お返事がなければどうなさるの? 義兄上もお待ちでしょうに」
「そのときも、まず、あの子の話を聞きます。急がせる理由にはできませんわ」
イルミナ様が鋏の刃を閉じた。花を持つ腕を下ろし、息子の横から前へ出る。
「旦那様のお返事は、旦那様が決めてください!」
「あなたは、口を出さないで」
低い声に、イルミナ様の肩が跳ねる。それでも靴先は、息子のそばから動かない。
「いいえ、妻ですから! 旦那様は、聞いてから決める人です。急かさないでください!」
リヒャルダ様の唇が、開いたまま止まった。蝉の声が近くなる。イルミナ様の頬は赤く、下ろした花の先が細かく震えている。
「……男爵家のお嬢さんが、ずいぶんはっきり物をおっしゃること」
「はい。旦那様に、そう教わりました」
息子の顔が、勢いよく妻へ向く。
「お、俺は、そんなこと教えてない!」
「教わりました。私がうまく言えなくても、最後まで聞いてくださるので。嫌だと言っても、そこで話をやめたりなさいません」
息子が口を閉じた。イルミナ様の花へ目を落とし、それから赤い頬を見つめる。
「……当たり前だろう。お前の話なんだから」
「はい。その当たり前が、うれしいんです! だから、旦那様が迷っているときは、私が待ちます」
イルミナ様は花を抱え直す。リヒャルダ様へ向ける声は、先ほどより細い。
「……大事なお母様のお話でしょう? 急いで言えることばかりでは、ないと思います」
リヒャルダ様の目が、花から息子へ戻った。襟元に添えかけた手が、何も直さずに下りる。
「……ゼヴェリン。姉の顔を、忘れないで」
紺の裾が生け垣の向こうへ遠ざかる。足音が消えても、息子はそちらを向いたままだ。
「……忘れるわけ、ないだろう。まだ、聞いてほしかった話だってあるんだ」
「旦那様……」
イルミナ様がこぼれた花を拾う。息子はそれを受け取ろうとして、籠の持ち手へ手を伸ばす。
「……大丈夫だ。少し、考えたいだけだ。お前が悪いんじゃない」
花が戻るのを待って、息子は籠を持ち直した。私は花鋏を握ったまま、その横顔を見る。声を掛けようとしても、息子の目は生け垣から戻らない。
刃の間には、切りかけの花の茎がある。風に揺れる白い花を支え直しても、鋏を閉じることができなかった。
◇
その夜の書斎で、私は庭でのやり取りをローラントに伝える。開いた窓の向こうは暗く、机の灯りに帳簿の影が落ちている。話し終えると、虫の声が急にはっきり聞こえた。
「……私が、息子に頼もうか」
「いいえ」
ローラントが帳簿から顔を上げる。筆は、書きかけの数字のそばにある。
「なぜだ?」
「あなたが頼んだら、あの子はまた、父上が決めたと思います」
筆の動きが止まった。ローラントは口を開かず、私から灯りへ目を移す。揺れる芯の光が、灰色の瞳に映っている。
墨を含んだ筆先が紙に触れ、数字の端を黒く太らせた。私は吸い取り紙を近くへ寄せる。ローラントの目は灯りを見たままで、差し出しかけた紙を机に置く音だけがする。
灯りの油が半分になるころ、窓から入る風も涼しくなる。ローラントは机に肘をつき、伏せた目をなかなか開かない。帳簿をめくろうとした手が、紙の端で止まった。
私は椅子の背から肩掛けを取る。広げた布を背中へ回し、机に伏せた腕を動かさずにすむよう、そっと肩に掛ける。
布が襟に触れると、まぶたが半ば持ち上がった。
「……アンナリーゼ」
「はい。ここに、います」
眠たげな目が、私の顔を探す。肩掛けを整えていた手を止め、その目に見えるところに立つ。
「……夢かと、思って」
「夢でしたら、帳簿はもっと少ないはずです」
ローラントが机を見下ろす。閉じた帳簿と、まだ開いている帳簿を眺め、口元だけで笑った。
「それは、見分けやすいな」
「ええ。ですから、もうお休みください。続きは、目が覚めてからにしましょう」
頷きかけた顔が、また私へ向く。眠りに沈みそうな声が、名を呼んだときと同じ低さで届く。
「君がいるなら、夢でなくていい」
「……そ、それでは、帳簿が減りませんよ?」
笑って返すつもりの声が、小さく揺れた。ローラントのまぶたはもう下りている。私は肩掛けのずれたところを直そうとして、布に掛かった重みに気づく。
肩掛けの端を、眠ったままの指がつかんでいる。




