23. お父様の算盤
夏の昼の客間には、日除けの布を透かした光が満ちている。卓には父の好きな焼き菓子と、濃いめの茶を用意しておいた。父が来るときは、いつも同じ。ローラントは用で朝から出ている。扉の前で、執事が頭を下げる。
「伯爵様と、伯爵夫人がお見えです」
父が、廊下まで響く声で入ってくる。栗色の髪には白が混じり、目尻にはいつもの笑いじわ。後ろに続く母は、私と同じ栗色の髪を低くまとめていた。椅子に腰を下ろすと、膝の上に手を重ね、黙って父を見る。
「アンナリーゼ! 式を挙げるそうではないか! でかした!」
「お父様、お母様。お待ちしておりました。お茶も、いつものものです」
「うむ、気が利く! いや、さすがはわしの娘だ。公爵家の式ともなれば、王都じゅうの噂になるぞ」
父は茶の香りに目を細め、私が座るのを待たずに指を折りはじめた。
「上座には、伯爵家を。花と酒は、うちの出入りの商人に。それから客に、口を利いてほしい方がおってな」
「お席は、この家の女主人が決めます」
折った指はそのままに、父が笑顔をこちらへ向ける。
「その女主人が、お前ではないか。ならば話は早い! 親の顔を立てる、よい機会だぞ」
「お父様とお母様のお席は、ご用意します。けれど、お客様に口を利くお約束はできません」
茶の湯気が、父の笑っている口元を薄く隠した。
「どうしてだ? 声を掛けるだけではないか。公爵夫人からなら、先方も喜ぶ」
「お祝いにいらっしゃる方に、お商売のお返事まで求めることはいたしません」
父は茶器を取り上げ、口をつけずに置き直す。
「固いことを言うな。では、花と酒だけでも。うちの商人なら、祝いだと言えば安くしてくれる」
「お花とお酒も、この家の出入りの店がございます。こちらで選びます」
父の眉が寄る。卓の下で、私は裾の縫い目に親指を添えた。
「安いほうがよかろう! 得な話だと言っているのに、何が気に入らん?」
「気に入らないのではありません。安さだけで決めることではないのです」
父が背を反らす。けれど、すぐに口元へ笑みを戻す。
「閣下のお留守なら、ちょうどいい。娘と話すのに、いちいちお伺いを立てずに済む」
「旦那様がおいででも、お返事は同じです」
父は身を乗り出し、私の手の甲を軽く叩いた。乾いた掌の感触に、背筋が勝手に伸びる。
「アンナリーゼ……。いつものように、頷いておくれ」
首の後ろがきゅっと縮み、顎が下がりかける。母は膝の上だけを見ている。頷けば父は菓子をつまみ、私は茶のおかわりを注ぐ。私の言葉がなくても、いつもそれで話は済んでいた。
卓から手を引き、膝の上で指を組む。爪が肌へ食い込むところで、ようやく顔を上げた。
「……いいえ、お父様」
「なんだ?」
父が、菓子へ伸ばしかけた手を止める。
「お父様が決めた婚約に、私の意思はありませんでした。……でも、この式は、私の意思です」
「な、なんだと……! わしが決めてやった縁で、お前は公爵夫人になれたのだぞ!」
声が客間の天井に跳ね返る。唇を結び、喉のつかえが下りるのを待つ。今度は、首を動かさない。
「はい。お父様の決めた縁で、私はここへ来ました。でも、ここにいると決めたのは、私で――」
「そんな口を利くように育てた覚えはない! 親に恥をかかせて、うれしいのか?」
答えようとした唇が、うまく開かなかった。父の肘が、焼き菓子の皿を脇へ押しやる。
「……お祝いに、来てくださったのだと思っていました。お父様に会うのを、楽しみにしていたんです」
父の顔が赤くなり、掌が卓の縁を叩く。茶器が跳ね、受け皿の上で高く鳴った。
「生意気を……! 娘は、黙って頷いておればよいのだ!」
母が、膝の上で重ねていた手をほどく。
「この子に頷かせるのは、もうおやめなさい」
父の口が、開いたまま止まる。声を荒らげず、母は父を見ている。母が父に言い返す声を、私は初めて聞いた。
「お、お前まで……」
母はもう何も言わない。父はその横顔を見つめ、茶器へ目を落とす。冷えた茶には手を伸ばさず、肩を落として立ち上がった。
「……帰るぞ」
「お見送りいたします。お母様、お足元にお気をつけて」
玄関の扉を開けると、日差しに温まった石の匂いがする。扉の前で、母が振り返った。私を見て、小さく頷く。父はもう馬車のほうを向いている。母は何も言わず、父のあとから乗り込んでいく。
馬車が門を出ても、取っ手から手を離せない。離そうとすれば、指が細かく震える。握り直しても、金具の冷たさが皮膚に食い込むばかり。父の姿が見えなくなっても、震えは止まらなかった。
◇
夕方の書斎では、窓の光が机の端まで細く伸びている。帳簿を開いても、数字が読めない。どこまで確かめたのか、筆の先が宙で迷う。扉が開き、ローラントが帰ってきた。
「ただいま。……アンナリーゼ?」
「お、お帰りなさいませ」
上着の肩には、外の埃が白く残っている。ローラントは私の手元で目を止め、机のそばへ来た。差し出しかけた掌が、触れる手前で止まる。
「……手を、握ってもいいか?」
「……は、はい」
筆を置くまで、その手は待っている。ぎこちなく差し出すと、大きな両手に、下からそっと包まれた。
「何があったかは、あとで聞こう。止まるまで、こうしていよう」
「……帳簿が、まだ途中です」
帳簿へ目を戻しかけると、ローラントが首を傾ける。
「帳簿は、逃げない」
「……逃げませんが、目を離すと仲間を増やします」
ローラントの目が、机に積まれた背表紙へ向く。その眉が、かすかに寄った。
「ははっ。それは怖いな。今日は、見なかったことにしよう」
つられて口元が緩む。それでも、包まれた手は細かく震えている。窓の外で鳥が鳴き交わし、その声が遠のくまで、ローラントは待っている。
「……父が、来ました」
「そうか」
親指が、手の甲をゆっくり撫でる。その動きに合わせて呼吸をすると、詰まっていた声が少しずつ出てくる。
「……父に、いいえと、言いました」
「……そうか。よく言った」
顔を上げようとしても、目はつないだ手から動かない。父の前では言えなかった言葉が、唇まで上がってくる。
「……少し、怖かったです」
「うん。無理に止めようとしなくていい」
私は、包まれた手を少しだけ預け直す。力を抜いても、下から支える掌は離れなかった。震えが伝わっているはずなのに、ローラントは困った顔をしない。灰色の目を見上げ、温かな手の中で、そっと指を曲げる。
「……もう少し、止まらないかもしれません」




