22. 先の奥様の部屋
夏の昼、書斎の窓から差す光が、帳簿の端を白く照らしている。庭の木立では蝉が鳴き、机の上を葉の影がゆっくり渡る。締め方を教えてほしいと、息子は今日も自分からやってきた。
「ここの合計が、合わないんだよ」
「上の行を、写し間違えています」
「くっ……本当だ」
息子は筆の尻で額を掻き、書き直した数字をにらんでいる。
「数字の癖を覚えると、間違えにくくなりますよ」
「癖?」
私は、墨の乾いた箇所を示した。
「あなたの数字は、どれも同じ形に見えます」
「……それは、癖じゃない。字が下手なだけだ」
「では、合計の前に、字を直しましょう」
「帳簿を習いに来て、字の稽古に戻された!」
声ほどには嫌そうでもなく、息子は紙を引き寄せる。そこへ扉を叩く音がして、執事が顔を出す。
「奥様。リヒャルダ様が、二階の奥のお部屋の前に。……先の奥様のお品を、引き取りにいらしたと」
紙に触れる寸前の筆が止まる。ローラントは朝から出ていて、まだ戻らない。私が立つと、息子も筆を置いた。
「俺も行く」
「はい。ご一緒に」
階段を上がるにつれ、蝉の声が遠くなる。閉め切った廊下は薄暗く、汗ばんだ首筋に空気が冷たい。階段の上には、執事に呼ばれた大伯母様が先に着いていた。
「あたしも呼ばれたのよ。……さあ、いらっしゃい」
扇を持つ大伯母様の向こうに、閉じた扉が見える。その前に立つリヒャルダ様は深い紺の衣装をまとい、淡い金の髪をきつく結い上げている。青い目が、私の腰の鍵の束へ落ちた。
「姉の物を、私の家へ引き取ります。……後妻は、この部屋に入らないで」
「入りません」
リヒャルダ様の唇が、続けるはずの言葉を呑み込んだように止まる。私は腰から鍵を外す。
「……では、鍵をお渡しなさい」
「鍵は、女主人の束にあります。お渡しする相手は、私が決めます」
差し出されていた手が、私の前で動かなくなった。
「やはり。姉の物まで、あなたの物に」
「叔母上! 母上は、そんなことは言っていないでしょう!」
息子が私の隣へ出る。リヒャルダ様はその顔を見上げ、差し出していた手を扉の取っ手へ戻す。
「では、邪魔になるまで待てと? 姉の物が、いらない物として運び出されるのを、黙って見ていろとおっしゃるの?」
「いらないとは、申しておりません」
「あなたには、そうでしょうとも!」
取っ手を握る手に力が入り、紺の袖口が引きつれる。私は鍵の束を持ち直した。
「息子にとっても、大切なものです。持ち出す前に、この子の望みを聞いてください」
「……ずいぶん、母親らしいことをおっしゃるのね」
青い目が、息子から私へ移る。私は顔を上げたまま、次の言葉を待つ。
「八年、誰も迎えなかった義兄上が、息子の元の婚約者を、その日のうちに。……姉がどんな顔をするか、考えたことがおあり?」
掌の中で、鍵の束が鳴った。
言い返そうとした息が、喉で止まる。取っ手を握りしめる手から目を上げようとして、扉の木目で止まる。預かった品のことなら答えられるのに、その先へ言葉が続かなかった。
重なった鍵を、親指でずらす。私は束から一本を外し、息子へ差し出す。
「この部屋のことは、あなたが決めてください」
「……俺が?」
息子は鍵を見て、それから私を見る。受け取ろうとする掌が、途中で止まった。
「残すものも、動かすものも。あなたが決めてよいのです」
「ゼヴェリン。あなたは、姉の息子でしょう?」
息子の目が、扉へ向く。開いた掌が鍵を包むと、金属の光が見えなくなる。
「だから、俺が決めます」
鍵が差し込まれる。カチリ、と音がして、長く閉じていた扉が開いた。
窓には布が下ろされ、家具も白い布に覆われている。薄い光の中に椅子の背や机の角が浮かび、乾いた花の匂いが廊下まで流れてくる。壁の肖像だけが、布を掛けられずに残っていた。
淡い金の髪を下ろし、青い目で笑う人。ツェツィーリエ様だ。髪の色も目の色も似ているのに、その口元は、扉の脇に立つリヒャルダ様よりずっとやわらかい。
息子に続きかけた爪先が、敷居の手前で止まった。
床に落ちる薄明かりまで、あと少し。それでも靴を運べず、私は肖像の笑顔から目をそらす。自分の裾が敷居に触れそうで、そっと引き寄せた。
息子は布を掛けられた椅子のそばに立つ。背の形を確かめるように掌を添え、こちらへ振り返る。
「母の部屋は、このままにします。物は、持ち出しません」
リヒャルダ様の唇が開く。けれど声になる前に、息子が続ける。
「母のものは、もう増えないんです。……あるものまで、減らしたくありません」
椅子の布に寄った皺を、息子が伸ばした。
「叔母上も、来たいときに来てください。俺が開けますから」
「……ゼヴェリン」
その名のあとには、何も続かない。取っ手に置かれた手が、ゆっくり緩んでいく。
息子が机へ歩み寄り、文箱の蓋を開けた。
「……空だ。母は、ここに手紙をしまっていたのに」
息子の顔が、箱の中をのぞき込む。私は扉の脇へ目を向ける。
大伯母様が扇を開いた。その目は息子から外れ、窓に下ろされた布のほうへ向いている。
「……今日は、帰ります」
リヒャルダ様は取っ手から手を離す。引き取るはずだった品を持たないまま、紺の裾が廊下を遠ざかった。
大伯母様も、扇を顔の前に置いたまま階段へ向かう。息子は文箱を閉じ、廊下へ出てくると、扉を静かに引いた。
「……鍵は、俺が持っていていいか?」
差し出すのではなく、確かめるように、息子が鍵を掌に載せる。
「はい。あなたの鍵ですわ。開けたいときに、あなたが開けてください」
「……そうか」
掌が閉じる。息子は鍵をしまわず、握ったまま扉を見ている。
「父上が俺の相手を決めたとき……母の代わりに、家を回す人を探したんだと思ったんだ」
私は息子の横顔へ目を上げた。こちらを見ないまま、口元だけが動く。
「母の代わりを、俺の妻にするのかって。……家のことができれば、それでいいのかって」
握った鍵の先が、袖口に触れている。息子はそれを直そうともせず、閉じた扉を見続ける。
「だから、あの日、あんなことを言った」
呼び止めるための声さえ、喉の奥でほどけない。あの日、私に向けられた言葉の向こうに、この扉があった。
息子の口がかすかに開き、また閉じる。私はその続きを待つことしかできない。
「……それだけだ」
息子が階段を下りていく。鍵を握る手が手すりの向こうへ消えても、私は閉じた扉の前に立っていた。
◇
その夜の書斎には、窓から涼しい風が入る。灯りが机の木目を照らし、開いた帳簿の端がかすかに持ち上がる。
ローラントが机の引き出しに手を掛けた。
「……硬いな」
肩に力が入る。私が顔を上げると、引き出しが急に滑り出し、その勢いで墨壺が傾いた。
「おっと……!」
ローラントが両手で押さえる。大きな体を机にかがめ、倒れかけた小さな墨壺と向き合う姿に、口元を押さえるのが間に合わない。
「ふふっ……」
「……笑ったな?」
ローラントの目がこちらへ動く。墨壺を支える手は、そのままだ。
「い、いえ。墨壺が、ご無事でよかったと」
「墨壺の心配か。私の心配は?」
「墨壺は、転んでも助けを呼べませんので」
ローラントが、墨壺を見下ろした。
「……助けを呼べる夫は、あとでいいのか?」
「そ、そういう意味では……! ローラントも、ご無事で何よりです」
「ははっ! そうか。それなら、助かった甲斐がある」
顔を上げたローラントと、目が合う。私は笑みを収めようとするけれど、あの慌てた姿を思い出すと、頬がまた緩んでしまう。
帳簿へ戻るつもりだった目が、こちらを見ている目に留まった。
「……何か、ついていますか?」
「いや。もう少し、見ていたくてな」
口元へ上げかけた手を止める。笑っているところを見られるほうが、失敗を見られるより落ち着かない。
「……私は、あまり笑いません」
「知っている。だから、笑うと目が離せない」
返事を探すあいだも、ローラントは目をそらさない。私の手は口元を隠せず、帳簿の端へ下りた。
両手に支えられた墨壺が、灯りの下で、まだ小さく揺れている。




