20. 息子の婚礼
六月二十日。イルミナ様の母君が嫁いだのと同じ日に、大広間へ夏の朝の光が満ちる。磨いた銀器の縁がきらめき、客のささやきと衣擦れが高い天井へ昇っていく。上座には大伯母様、親族の席にはリヒャルダ様。客の席には、男爵夫人のジビュレ様と連れ子のツィタ様が並ぶ。花嫁の側の席には、イルミナ様の母君の姉たちの顔も見える。花嫁の母の席には、薄紅の花。私はローラントの隣、花婿の家の席で背を伸ばす。
大伯母様が、扇の陰からこちらをのぞく。
「あら、花婿の母の顔が、花嫁より固いわ」
「か、固くありません。お迎えする用意も、整っておりますわ!」
扇の向こうで、大伯母様の目が細くなる。
「ふふっ、顔の用意は、まだみたいよ?」
「お、伯母様。からかうのは、式のあとにしてください」
ローラントの声まで、いつもより張っている。
「あら、ローラントまで固いわ。ふふっ」
「……旦那様も、ですか?」
こちらを向きかけたローラントが、咳払いをして前を向く。
「固くない!」
その背筋も、椅子から離れたままだ。
扉が開く。男爵が花嫁の手を引いて入ってくる。イルミナ様は母君の花嫁衣装をまとい、胸元には青い石の首飾り。ほどいて留め直した白い絹が、歩みに合わせて光をこぼす。袖の刺繍まで明るみに出ると、客のささやきが静まる。
男爵は息子の前で立ち止まる。娘の手を渡そうとする手が震え、袖口が細かく揺れる。
「……娘を、よろしく頼みます」
「はい。……必ず」
息子は差し出された手を受け、男爵の顔をまっすぐ見る。男爵の手がゆっくり離れる。空いた掌は、娘のそばにしばらく残る。
「お父様。……お母様にも、見せたかったです」
男爵が花嫁の母の席へ目をやる。薄紅の花を見つめたまま、頷く。
「見せたかった……」
イルミナ様は唇を結んで頷き返し、それから息子を見上げる。
「私の話を、これからも聞いてください。うれしいことも、嫌なことも。……うまく言えないときも」
「お前の返事を、最後まで聞く。分かったつもりで、勝手に決めたりしない」
白い袖の先で、イルミナ様の手が動く。息子の手を、そっと握り直す。
「途中で遮ったら、怒りますからね?」
「遮らない。……いや、もしやったら、怒ってくれ。そこで話をやめないでくれ」
イルミナ様の口元がほどける。上座で、大伯母様が扇を閉じる。
「あら、【壁】がずいぶん喋るようになったわね」
こらえきれない笑いが客の間に広がる。息子が、耳まで赤くして振り向く。
「……大伯母様!」
「ふふ、褒められているんですよ」
イルミナ様の声に、息子の顔が戻る。
「そ……そうか? お前がそう思うなら、そうなのかもな」
客の笑いがやわらぎ、白い絹の裾に朝の光が溜まる。
膝で重ねた手の指を、私は組み直す。花嫁の袖の刺繍から、目を離せない。細かな糸が、手を動かすたびに光る。自分の袖口へ目を落としかけ、また白い袖へ戻す。私には、この日がなかった。重ねた手を緩めようとしても、布についた皺だけが深くなる。
誓いが済むと、イルミナ様が裾を持ち上げて私の前へ来る。言葉を探すように唇が動き、それから、はっきり私を見る。
「……お義母様」
返事が遅れる。呼ばれたのは私だと分かっているのに、声を出すまでに間が空く。
「……はい」
イルミナ様の頬が緩む。その隣に息子が並び、頭を下げる。
「母上……ありがとうございました」
客の席で、ジビュレ様の扇が静かに閉じる。扇の先は膝に下り、こちらへ向いた顔の前には戻らない。
「お礼は、イルミナ様にも。あなたの話を、聞いてくださる方ですから」
「……分かってる」
息子が頭を上げかけると、イルミナ様がその袖を引く。
「旦那様。お義母様にも、ちゃんとお顔を見て言ってください」
「……今、言った」
イルミナ様は、下がったままの息子の顔をのぞき込む。
「床に向かって言っていますわ」
「礼をするなら、頭を下げるだろう!」
息子が私を見る。私はその顔へ頷く。
「はい。床には聞こえても、お返事はできませんわ」
「……床への礼にされた」
こぼれた声に、イルミナ様の肩が揺れる。息子は襟元へ伸ばしかけた手を下ろし、私へ向き直る。
「母上。……ありがとう、ございました。今日まで、俺たちの話を聞いてくれて」
今度は顔が見える。赤い耳も、言い終えてから結ばれる口も。私は膝の上で握っていた布を離す。
「はい。今日のお話も、ちゃんと聞こえました」
「お義母様。私も、これからよろしくお願いします。うれしい話を、たくさん持ってきます!」
イルミナ様の声が弾む。私は、その目を見て答える。
「寂しいお話でも、伺います。お話ししたいときに、いらしてください」
「……はい。頼りに……します」
白い袖で隠しかけた口元が、また笑う。息子はその声が終わるまで、隣で待っている。
「あら、いい婚礼ね。イルミナ、ゼヴェリンが喋りすぎたら、あたしに言いなさい」
「はい、大伯母様!」
息子が慌てて上座へ向く。
「喋りすぎません! 大伯母様はいつも僕のことを……」
「ほら、もう喋った。ふふっ」
笑いの中で、息子の肩が落ちる。
「……黙っていても、壁だと言われるんですが」
「だから、花嫁と話しなさい。……幸せにおなりなさい」
大伯母様の扇が、花嫁と花婿へ向けてゆっくり下がる。息子もイルミナ様も、そろって頭を下げる。
客の席で、ツィタ様がぽつりとこぼす。
「……お姉様、きれい」
ジビュレ様はたしなめない。閉じた扇を膝に置いたまま、花嫁を見ている。
親族の席のリヒャルダ様は、しばらく私を見つめている。目が合っても言葉はなく、宴の前に静かに席を立つ。紺の裾が扉の向こうへ消え、閉まる音は、始まりかけた楽の音にまぎれる。
宴の一曲目を、ローラントと踊る。高い窓からの光が、向きを変えるたびに上着の肩を照らす。
「今日は、よけなくていい」
「……練習、なさったのですか?」
ローラントは私の足もとを見ずに頷く。
「伯母様の足で、夜更けまでな」
「大伯母様、怒っていらしたでしょう?」
返事の前に、眉が少しだけ寄る。
「足を踏むたびに、扇で叩かれた」
「では、今日は大伯母様に、お礼を申し上げないと」
上座へ顔を向けかける私に、ローラントが声を落とす。
「……それは、私から言っておこう。今は、こちらを見ていてくれ」
「は、はい。ローラント」
顔を戻すと、灰色の目が近い。楽の音に歩みを合わせるうち、上がっていた肩が下りていく。ローラントの足は、一度も私の足を踏まない。
◇
その夜、書斎の窓の外は、宴のあとの静けさに沈んでいる。遠くで食器の触れ合う音がして、それもやがて途絶える。机の上の帳簿は閉じたまま。灯りが、革の表紙を淡く照らしている。
「……今日は、いい日だった」
「はい。……あの子たちが、あんなふうに笑って」
言い終えても、口元が緩む。ローラントが窓辺から振り返る。
「イルミナさんに、お義母様と呼ばれていたな」
「……まだ、耳が慣れません。返事をしてよいのか、迷ってしまって」
ローラントの目尻が下がる。
「君を見て呼んでいた。聞き違いではないよ」
「分かっています。……分かっているのに、すぐに声が出ないのです」
昼には平らに戻せなかった裾の皺を、私はなぞる。ローラントはそこへ目を落とし、また私を見る。
「疲れただろう?」
「少しだけ。……でも、うれしい疲れです」
そう答えると、ローラントの肩からも力が抜ける。
「今日は、泣きそうな顔もしていた」
「……していません。ちゃんと、笑っていたでしょう?」
「ははっ。そうだな」
ローラントが近づき、足を止める。間にあるのは、上着に触れようと思えば届く距離。けれど、その手はまだ下ろされている。
「アンナリーゼ。……口づけは……いいか?」
返事の頭が、喉の奥でつかえる。目をそらしかけて、灰色の瞳へ戻す。私を待つ目にも、灯りが揺れている。裾の皺から手を離す。いつものようにすぐには答えられないまま、私はその人へ顔を上げる。
「……許します。妻として」




