19. 花嫁の母の席
婚礼の前日、大広間には白い卓布が広がり、運び込まれた花の匂いが満ちている。高い窓から入る夏の光に、吊った灯りの縁が輝く。私は侍女に卓布の端をそろえるよう頼み、執事には椅子の間を空けてもらう。花の籠を抱えた執事が、空いた椅子の前で止まる。
「奥様、花嫁の母の席の花は、いかがいたしましょう?」
「花嫁のお返事を、待ってください。その籠は、脇へ」
磨いた床に卓の脚の影が並ぶ。上座では、大伯母様の扇がゆっくり動いている。
「あら、アンナリーゼ。花の籠まで、帳簿みたいに真っすぐね」
「曲がっていると、気になりますので」
大伯母様は、私が直したばかりの卓布へ目をやる。
「明日の花嫁より、あなたのほうが眠れなさそうね」
「ね、眠れますわ!」
「あら。そんな声を出したら、眠気まで逃げるわよ。ふふっ」
侍女が口元を伏せ、肩を揺らす。私は卓布から手を離す。
男爵とイルミナ様も、明日の並びを確かめに来ている。帽子を抱えた男爵が、私と目が合うたびに頭を下げる。
「明日は、どうぞよろしくお願いいたします……申し訳ないです……」
イルミナ様の腕には、薄紅の花を詰めた籠がある。周りを見渡すあいだも、籠だけは体から離れない。
遅れて、男爵夫人のジビュレ様と、連れ子のツィタ様が入ってくる。ジビュレ様は広間を見回し、花嫁の母の席へまっすぐに進む。
「明日は、私がここに。花嫁のすぐ近くですもの」
指輪の光る手が、椅子の背に掛かる。イルミナ様が籠を抱え直し、その前へ出る。
「母の席には、母の花を置きたいです。……母が、好きだった花です」
「まあ。花なら卓に飾ればよいでしょう? 花が椅子に座って、何になりますの?」
ジビュレ様の笑みは動かない。イルミナ様は籠へ目を落とし、開きかけた唇を結ぶ。それから、顔を上げる。
「母は、もう座れません。……だから、花を置きたいんです」
「何を言うの。私が母です!」
声が高い天井に響く。イルミナ様の肘が籠を抱き寄せ、薄紅の花が頬に触れる。すぐには返事をせず、花を傷めないよう腕を緩めてから、口を開く。
「母ではなく奥様とお呼びするように、とおっしゃったのは、奥様です」
「それは……家の中の話で」
椅子の背を握る手に力がこもる。イルミナ様は、その手から目をそらさない。
「ここでは、母の場所をなくさないでください!」
「お母様を座らせないの? ひどい!」
ツィタ様がジビュレ様の袖にすがる。イルミナ様の目が、その腕へ落ちる。
「ツィタは、お母様を連れてこられるでしょう? 私は……花しか、持ってこられないんです」
最後の声が細くなる。それでも、籠を抱いた腕は下がらない。
ジビュレ様が私へ向き直る。唇には笑みの形が残っているのに、声はもう甘くない。
「アンナリーゼ様! 継母なら、お分かりでしょう? 継母なんて、損な役ですわねえ。家のために尽くしても、……母の席にも座れないなんて」
継母、という言葉に、開きかけた口が止まる。椅子を離せずにいる手が目に入る。私は返事を探し、花を抱くイルミナ様へ視線を戻す。
「花嫁の母の席は、花嫁が決めます」
「……同じ継母ですのに。私の気持ちは、お分かりにならないの?」
「私の気持ちで決めてよい席ではありません。花嫁の望むとおりに整えるのが、この家の女主人の務めですわ」
男爵が帽子を持ち直す。ジビュレ様へ向きかけた肩を戻し、イルミナ様の隣に立つ。
「……イルミナの決めたとおりに、してやりましょう」
「あなたまで……!」
男爵の肩がすくむ。それでも、娘の隣から足は動かさない。イルミナ様が父を見上げると、男爵は帽子のつばを握ったまま、小さく頷く。
私は執事に客の席を示す。執事は通り道に出ていた椅子を引き、ジビュレ様とツィタ様を案内する。大伯母様の扇が閉じる。
「あら、客の席からなら、花がよく見えるわよ」
「……お母様。花、きれいよ」
ツィタ様の声にも、ジビュレ様は答えない。客の席の椅子に触れ、座面を見下ろしている。指輪の光が、磨いた木の上で動かない。
イルミナ様が母の席へ籠を置く。窓からの光を受けた薄紅が、白い卓布のそばでやわらかく浮かぶ。
「……お母様。ここからなら、見えるでしょう?」
籠の縁に触れる唇の動きを、私は黙って見守る。イルミナ様は花の向きを少し直し、それから私のところへ来る。
「アンナリーゼ様も、明日は見ていてくださいますか?」
「はい。花婿の家の席から、見ております」
イルミナ様の口元が緩む。けれど、笑いきる前に唇をかみ、母の花へ目を戻す。
「うれしいです。……でも、もうこんな顔になってしまって。明日、泣いてしまったら、どうしましょう?」
「泣いても、首飾りは落ちません。留め金は確かですわ」
「ふふっ……。そうじゃなくて……崩れるのは、私の顔です」
イルミナ様が苦笑する。
「では、お色直しのタイミングを見ておきます。涙が止まらなくなった時はすぐに案内が行くように」
「ありがとうございます」
イルミナ様は大きく息をつくと、母の花を振り返る。
「でも……。明日、ちゃんと笑えそうです。母の花も、アンナリーゼ様も、見えますから!」
「はい。お顔を上げてくだされば、目が合います」
支度の音が広間に戻る。侍女が卓布を整え、執事が椅子の向きを揃える。私は花婿の側の並びを確かめて回る。明日は、息子の日だ。
椅子の背へ伸ばしかけた手を、卓の端に下ろす。もうそろっている卓布を、もう一度まっすぐにする。撫でるところは残っていないのに、掌が白い布から離れない。広間の隅で侍女たちの笑い声が弾み、私はそちらへ顔を上げる。
◇
夜、灯りを落とした大広間に、ローラントと立つ。昼の熱を残す窓辺から風が入り、裾をかすめていく。月明かりの落ちる床には、靴先の影まで淡く見える。
「……一つ、打ち明けてもいいか?」
「はい」
ローラントは私の靴へ目を落とし、妙に改まった顔で背を伸ばす。
「私は、踊りが下手だ」
「え?」
「あの夜会の晩は、君の足を踏まないことだけ考えていた」
私は床から、その顔へ目を戻す。あの夜、私が靴先を見失いかけても、導く手は少しも急がなかった。落ち着いた横顔ばかり思い出せるのに、目の前のローラントは困ったように眉を下げている。
「ローラント様……いえ、ローラントは、少しも困っているようには見えませんでした」
「顔まで必死では、君が安心して踊れないだろう?」
口元を押さえるのが間に合わない。高い天井へ、自分の笑い声がこぼれていく。
「ふ、ふふっ……ご、ごめんなさい」
「笑うなら、もっと笑ってくれ。黙られるほうが、こたえる」
笑いを収めようと唇を結んでも、肩が揺れる。ローラントの口元も緩み、やがて短い笑いが重なる。
「……あの晩の私は、格好がついていたかな?」
「……とても。私だけが緊張しているのだと、思っていました」
ローラントが上着の襟を直す。その仕草まで改まっていて、また頬が緩んでしまう。
「そうか。……なら、明日も必死でいよう」
「あの晩、どうして、そんなに必死に?」
「妻と踊る、最初の一曲だったからな」
笑っていた唇が閉じる。あの夜の手の重さが、掌に戻ってくるようだ。私の靴を気にしながら、この人も言葉にしないまま踊っていた。
目を上げると、灰色の瞳が待っている。こめかみの白い髪に月の光が掛かり、私は笑みを隠しかけた手を下ろす。
「それでも、明日も私と踊ってくれるか?」
頷きかけて、口を開く。すぐには出てこない声を、ローラントは急かさない。私は靴先をそろえ、顔を上げたまま答える。
「明日の一曲は、踏まれそうになっても私がよけます」




