18. 噂
夏の初め、ある伯爵家の庭で茶会が開かれる。日除けの布が風をはらみ、卓の上を淡い影が流れていく。冷たい茶の器には水滴が浮かび、扇の開く音に、生け垣の向こうの水音が重なる。
私は花婿の家の女主人として、イルミナ様と同じ卓に招かれている。離れた卓には、男爵夫人のジビュレ様と、連れ子のツィタ様。婦人たちの扇が、その周りで揺れている。
イルミナ様がうつむく――。
「……茶会は、苦手です。家では、いつも給仕のほうでしたから。お茶が減っていると、立たなくてはと思ってしまって」
「今日は、座っていてください。お茶は、注がれるほうです」
浮きかけていたイルミナ様の腰が、そっと椅子に戻る。それでも目は、卓に並ぶ茶器を追っている。
「……何もしなくて、いいのですね?」
「はい。お茶もお菓子も、ご自分のお好きなものをどうぞ」
ようやく伸びた手が、茶器の持ち手に触れる。胸元では、青い石の首飾りが涼しげに光る。
「首飾り、よくお似合いです」
「……ありがとうございます。母のものだと思うと、背中が伸びるんです。うつむいていたら、母にも庭が見えませんから」
私も庭の花へ目を向ける。その背後で、婦人が扇を口元に寄せる。
「元の婚約者に未練があって、その父親に嫁いだそうよ」
茶器を持ち上げる腕が止まる。甘く引き延ばす声が、そこへ重なる。ジビュレ様だ。
「花嫁のお支度にまで、細かくお口を出されるでしょう? 嫁いびりの姑ですって。花嫁がお気の毒ですわねえ」
扇の陰で笑いがこぼれる。背後の卓の婦人がこちらを向き、私の顔をのぞく。
「公爵夫人、本当ですの?」
その隣の婦人も、扇を下ろす。
「お若いのに、ずいぶんお上手ですこと」
「……それは」
母の務めです、と口にしかける。けれど、問われているのは務めではない。私が誰を想っているかを、笑いながら訊かれている。
唇を動かしても、続きが出ない。持ち上げた茶器が震える。受け皿を添えて押さえようとすると、カタカタ、と音がこぼれる。止めたいのに、押さえる手まで震えてしまう。
「違います! アンナリーゼ様は……!」
イルミナ様の声に、また笑いがかぶさる。私は茶器を置こうとして、受け皿のくぼみをうまく捉えられない。
庭の入口に、息子が現れる。茶会の主に会釈し、頷きが返るのを待って、イルミナ様のほうへ歩いてくる。ジビュレ様が扇を持ち上げる。
「あら、若様。ちょうど今、継母の方のお噂を。若様もお困りでしょう?」
「噂?」
ツィタ様が、椅子から身を乗り出す。
「未練があるんですって! お義兄様に!」
息子の目が私へ向く。茶器から離せずにいる手へ落ち、その眉が寄る。こちらへ来る靴音が、私の前で止まる。
「母上を侮辱するな!」
扇が止まる。噴水の水音が、急にはっきり聞こえる。
息子は私の返事を待っていない。笑っていた卓へ顔を向けたまま、そこに立っている。母と呼ばれたのに、守られているのは私のほうだ。
「まあ、若様、私はただ……」
「ただ、何だ? 聞いてやる。言ってみろ」
ジビュレ様の扇が、開きかけた唇を隠す。細めた目だけが、扇の上で笑う形に戻る。
「ひどいおっしゃりよう。若様と花嫁が、肩身の狭い思いをなさらないかと、心配しておりますのよ?」
「心配なら、勝手な噂で笑うな!」
ツィタ様が、息子の顔を見上げる。さっきまで弾んでいた声が、甘く細くなる。
「お義兄様、怒ってるの? ツィタ、聞いたとおりにお話ししただけなのに……」
「怒ってる。……ツィタ嬢、君にもだ。聞いた話なら、何を言ってもいいのか?」
ツィタ様の口がとがり、ジビュレ様の袖を引く。ジビュレ様はその手を外さず、息子へ扇の先を向ける。
「けれど、若様がそうやって庇えば、かえって噂になりますわよ?」
「だから黙れと言うのか! 未練なら、俺にもこの人にも無い。俺には、イルミナだけだ」
イルミナ様が顔を上げる。布を握っていた手をほどき、椅子から立ち上がる。
「……うれしいです。ゼヴェリン様。だから、私にも言わせてください!」
「ああ。聞いてる」
息子が体の向きを変える。婦人たちからイルミナ様の顔が見えるようになる。青い石を包む手が、声を出す前にぎゅっと閉じる。
「アンナリーゼ様は、私の話を最後まで聞いてくださいました。母の首飾りも、母の衣装も、この家の皆様と一緒に、私に戻してくださいました」
イルミナ様は唇を結び、私を見る。頷こうとすると、その続きを私へ届けるように口を開く。
「母に会いたくても、もう会えません。でも、母のものを身につけたいと願うことは、できるんです。アンナリーゼ様は、その願いを笑わずに聞いてくださいました。……嫁いびりなんかでは、ありません!」
先ほど私に真偽を尋ねた婦人が、扇を下ろす。
「……戻して? では、取り上げていたのは、どなたですの?」
イルミナ様は答えない。首飾りに手を添えたまま、ジビュレ様の卓を見る。
婦人たちの目が、その視線を追う。寄せ合う扇の向きが変わり、忍ばせた笑いが、今度はジビュレ様の卓へ集まっていく。ジビュレ様は笑みを保とうとするけれど、口元だけが動かない。
「くっ……! ツィタ。失礼いたしましょう」
扇が閉じる。ツィタ様が慌てて焼き菓子を皿へ戻し、母親のあとを追う。私はそちらを見送りきれず、茶器へ目を落とす。
息子が私の正面へ回り、声を低くする。
「……震えてたぞ」
「……お茶が、冷たかったので」
息子の目が、卓に置いた器へ落ちる。器から離しても震えている私の手へ戻り、それから顔をそらす。
「嘘が下手だな。……帰りましょう、母上」
「……はい」
◇
帰りの馬車で、イルミナ様は首飾りに触れたまま、私の顔を確かめるように見る。
「……アンナリーゼ様。私、言えました。最後まで、言えました!」
「はい。ちゃんと、聞こえました」
息子は窓の外を向いている。耳の赤さだけは、隠れていない。
「……イルミナが言ったら、誰も笑わなくなったな」
「でも、足がまだ震えています。ゼヴェリン様は、平気ですか?」
息子が上着の陰から手を出す。開こうとした掌が、また握られる。
「……俺の手も、まだ震えてる。怒鳴ったあと、叱られるかと思って」
「どなたにですか?」
息子の目がこちらへ動く。私を見ると、言いにくそうに口を曲げる。
「……ここにいる」
「茶会では、お静かに。次からは、お願いいたしますね」
息子が窓から顔を戻す。
「今、叱るのか!」
「ふふっ……また、大きなお声です」
イルミナ様が笑う。息子は口を閉じ、赤い耳を窓へ向ける。私は震える手を重ね直す。今度は、その震えを隠すために力を込めずにすむ。
◇
その夜、書斎の長椅子に座っても、手の震えはまだ残っている。昼の茶器の音が耳から離れず、膝の上で掌を伏せる。押さえつけた布に、細かな皺が寄る。
ローラントが私の横で立ち止まる。目を上げるまで待ってから、静かに尋ねる。
「隣に座っても、いいか?」
「……はい」
座面がゆっくり沈む。ローラントは何も言わない。震える手を隠し直しても、その理由を求める声は降ってこない。
「……何も、お訊きにならないのですか?」
「訊いてほしいか?」
唇を開く。何から話せばよいのか探すうちに、伏せた掌がまた布を押さえる。
「……いいえ。今は、うまくお話しできません」
「では、今は隣にいるだけにしよう」
少し離れたところに、ローラントの肩がある。私はその間を見つめ、体を傾ける。上着に肩が触れると、布の下から温かさが伝わってくる。
「……ロ、ローラント。もう少し、このままで」
「ああ。このままで……」
灯りの芯が、パチ、と鳴る。その小さな音には、もう肩が跳ねない。
隣のゆったりした呼吸に、私の呼吸も少しずつ重なる。布を押さえていた掌を上に向ける。何も持たず、何も押さえずにいる手を、灯りの下で眺める。
「……震えが、止まりました」




