17. 母の花嫁衣装
春の終わりの午後、離れの窓から若葉の匂いを含んだ風が入る。大伯母様とお茶を飲んでいると、戸口で執事が頭を下げる。
「イルミナ様が、大きなお包みをお持ちです」
イルミナ様は包みを抱え、肩で息をしている。汗のにじむ額に髪が貼りついても、布を支える腕を離さない。
「あら、息を切らして。何を抱えてきたの?」
「……見ていただきたいものが、あるんです」
衣装部屋へ移り、卓で包みを開く。白い絹が窓の光を受けて広がり、袖に小さな花の刺繍が現れる。たたまれた布の奥から、かすかに古い香の匂いがする。
「母の衣装です。……ツィタの寸法に、直されていました」
脇と胸元は新しい糸で詰められ、裾も深く折り込まれている。イルミナ様が縫い目をなぞり、布の引きつれたところで動きを止める。
「婚礼で、私が着たいんです。家から、持って来てしまいました」
「お家の方には、お伝えしましたか?」
イルミナ様の目が戸口へ向き、すぐに白い絹へ戻る。
「……言っていません。言ったら、止められますから。また何も言えなくなる前に、持ってこようと思って……」
「では、この家でお預かりします。着方も、イルミナ様のお考えを伺います」
包みを握り込んでいた手がゆるむ。大伯母様が白い袖を持ち上げ、光にかざす。
「いい刺繍ね。男爵の先の奥方は、針仕事の上手な方だったのよ」
イルミナ様が袖へ顔を寄せかける。そのとき、侍女が戸口に立つ。
「男爵夫人と、ツィタ様がお見えです」
男爵夫人のジビュレ様が戸口で呼吸を整え、笑顔を作って入ってくる。後ろには、連れ子のツィタ様。イルミナ様の肩がすくむ。
「イルミナ。家の品を黙って持ち出すなんて。費えをかけて直しましたのに」
ジビュレ様が、閉じた扇の先を白い絹へ向ける。
「この衣装はツィタの寸法に直しましたの。婚礼の付き添いには、ツィタがこれを」
「母の衣装です!」
かぶさる声に、扇が止まる。ツィタ様が裾へ手を伸ばすと、イルミナ様はその前に立つ。絹を背にかばい、足を動かさない。
「もう、ツィタの形なの! ツィタが着るって、決まってたの!」
「決めたのは、どなたですか?」
私が尋ねると、ツィタ様は顎を上げる。
「お母様!」
「花嫁は、お決めになっていないのですね」
ツィタ様の唇がとがり、白い絹を指す腕に力が入る。
「だって、お姉様にはもう小さいの! 着られないでしょ?」
「着られるかどうかは、花嫁が袖を通してから伺います」
大伯母様が口元へ扇を寄せる。ジビュレ様は笑顔のまま、声を重ねる。
「アンナリーゼ様。古い形の衣装で公爵家の婚礼に出るなんて、恥をかくのはこの子ですのよ?」
「恥ずかしくありません! 母にはもう、きれいだと言ってもらえません。でも、母の縫ったものを着て、嫁ぎたいんです」
語尾だけが細くなる。袖を押さえる爪が白い。私はそのそばへ掌を置き、絹に残る折り目をそっと伸ばす。
「花嫁の支度は、花嫁のお家でなさることです。そのお家の花嫁が、母君の衣装を着たいと申しております。まず伺うのは、花嫁のお望みですわ」
「でも、もう詰めてしまいましたもの。今さら」
大伯母様が扇を置き、裾の裏を確かめる。
「ツィタさんの寸法に詰めたなら、ほどけばいいだけよ」
そのまま侍女へ顔を向ける。
「針と糸切りを持っていらっしゃい」
侍女が針と糸切りを載せた盆を運び込む。私は脇の縫い目を開き、大伯母様は裾を裏返す。イルミナ様も椅子を引き寄せる。
「私にも、ほどかせてください。……母の縫った糸は、切らずにできますか?」
「ええ。新しい糸だけですわ。ここを、持っていてください」
プツリ。刃の先で糸が切れ、詰められた絹がゆるむ。ジビュレ様とツィタ様の目の前で、大伯母様も侍女も縫い目をほどく。イルミナ様は、私の渡す糸の端を静かに抜いていく。
「お待ちになって、その絹は……」
大伯母様が糸切りを持ち上げ、笑う。
「あら、うふふ。手が空いているなら、あなたもほどく?」
差し出された糸切りを見ても、ジビュレ様の腕は動かない。
「……けっこうですわ」
扇が腰の前で細かく揺れる。その向こうで白い布は広がり、縫い込まれていたところまで光を受ける。ほどいた跡に沿い、イルミナ様の体に合わせて仮に留め直す。窮屈に寄せられていた脇がなだらかになり、折り上げられた裾が靴先へ届く。
「ひどいわ! ツィタばっかり……。お母様、何とか言ってよ!」
ツィタ様が足を踏み鳴らす。目元を覆っても、その隙間から母親の顔を見ている。ジビュレ様の頬が引きつり、すぐに笑みの形へ戻る。
「……ツィタ、帰りますわよ」
娘を促す声が低い。衣擦れが戸口を遠ざかり、扉が閉まる。イルミナ様はそこを見つめ、それから、広くなった白い絹へ目を戻した。
鏡の前で衣装を体に当て、袖を広げる。肩の線も袖の長さも、その体になじむ。窓からの光が絹の上を流れ、刺繍の花を淡く浮かび上がらせる。
「……私に、合っています! こんなに、きれいだったんですね」
私は白い袖を見つめる。針を持つ手が、布のほうへ動きかける。
「……私も」
唇を閉じ、手元の針へ目を落とす。糸はもう通っているのに、針の穴から目を上げられない。私は、式を挙げていない。
「アンナリーゼ様?」
「いいえ。袖の刺繍が、きれいだと」
針山へ針を戻すと、イルミナ様が袖口の花をこちらへ向ける。
「母が、自分で刺したそうです。……ここの花も、見えますか?」
「ええ。糸がそろっていて、花びらまで、よく見えます」
イルミナ様が鏡へ向き直る。上げていた肩が下がり、白い絹を抱く腕もやわらかくなる。
「ふふっ。……うれしいです。家に帰って奥様に叱られても、これを着ます」
「はい。その日まで、この家で大切にお預かりします」
◇
その夜、書斎で帳簿を閉じる。灯りが革の表紙を薄く照らす。まとめた髪からほどけたところが頬へ掛かり、顔を上げても戻らない。ローラントは手を上げかけ、私に届く前に止める。
「……髪に、触れてもいいか?」
「は、はい」
頷くと、ローラントがほどけた髪をすくい、耳の後ろへそっと掛ける。指は髪だけに触れ、頬にも耳にも触れない。それでも、髪が離れたところから熱くなる。
「昼は、ずっと君の顔を見られなかったからな」
「そ、そんなに、ご覧にならなくても」
目を伏せると、閉じた帳簿しか見えない。もう開く用もない表紙へ、手を置く。
「私は見たい。……君は、嫌かな?」
「……嫌では、ありません。ただ、どこを見てよいのか……」
髪を整えた手が戻る。急かす声は続かず、灰色の目だけがこちらを向いている。
「私を見てくれればいい」
「か、閣下……いえ、ローラントを見ているから、困るんです」
言ってから、表紙の角をなぞる手が止まる。ローラントの口元がゆるみ、私の頬はますます熱くなる。
「ははっ。では、ゆっくりでいい」
頷く代わりに、伏せかけた顔を上げる。頬へ落ちるものは、もうない。髪を直すふりもできず、目が合う。
掛けてもらった髪の下で、耳が灯りより熱い。




