16. 花嫁の父
春の終わりの昼過ぎ、玄関の広間で執事が私を呼び止める。ローラントは朝から出ている。
「男爵様が、お一人でお見えです」
「お一人で、ですか?」
執事が小さく頷く。
「お供も、お付けでないようで」
開いた扉の向こうに、男爵家の馬車はない。男爵は帽子を両手で握りしめている。袖口は擦れ、靴には乾いた土がついている。
「公爵夫人。……妻が、ご迷惑を、おかけしまして」
「あいにく、旦那様は出ております」
男爵が慌てて首を振る。
「い、いえ。公爵夫人に、お話がありまして」
客間へ通すと、男爵は椅子の端に浅く腰を下ろす。茶には触れず、帽子のつばを握り直す。開けた窓から、若葉の匂いが流れ込む。男爵の前で、湯気だけがゆっくりほどけていく。
「首飾りのことも、請求書も、名簿も……。妻が、重ねてご迷惑をおかけしまして」
「首飾りは、イルミナ様がお持ちです」
男爵の目元が緩み、声が明るくなる。
「はい! 娘が、あんな顔で笑ったのは久しぶりで……」
「取り戻したのは、息子です。お礼でしたら、息子へ」
男爵は頷きかけ、帽子を持ち直す。
「若様にも、ぜひ。……ただ、お礼など要らないとおっしゃりそうで」
「照れて怒っても、気になさらず。お礼を遮ったら、私が叱ります」
男爵が目を丸くする。
「お礼を申し上げて、お叱りまで……?」
「人のお話は最後まで聞くものですわ」
男爵の口元が緩む。けれど、帽子を握る手はほどけない。窓の外で鳥が鳴き――男爵は目を伏せた。
「……男爵家には借財がありまして。妻の持参金で埋めたのです。それからは、妻に何も言えなくなりまして」
「……イルミナ様のことも、ですか?」
男爵は帽子のつばを握り直し、頭を下げる。
「娘が、侍女のように扱われるのを……見ないふりを、いたしまして。私にまで、すみませんと、あの子が……謝る必要など、なかったのに」
私の父はこんなふうに頭を下げたことがない――茶器の縁をなぞる指が止まり、返事が遅れる。
男爵が、さらに深く頭を下げる。
「娘を、よろしく頼みます」
「それは、婚礼の日に、花嫁の手を引いておっしゃることです」
男爵が顔を上げる。
「……わ、私が、ですか?」
「はい。花嫁の手を引くのは、花嫁のお父様です」
男爵の目が潤む。抱え直した帽子のつばは、曲がったままだ。
「……私に、その資格が、ありますでしょうか?」
「それは、イルミナ様にお訊きください。手を引かせてほしい、と。お父様からお申し出になることですわ」
男爵の声が、かすかに細くなる。
「……許してもらえなかったら、どうすれば……?」
「そのお返事も、聞いて差し上げてください。お父様に話してよいのだと、伝わるように」
そのとき、玄関のほうが騒がしくなる。執事の制止を笑顔で抜けて、男爵夫人のジビュレ様が客間へ飛び込んでくる。
「あなた! 勝手に公爵家へ……余計なことを、お話しになっていませんわよね?」
男爵の肩がすくむ。
「……お前」
「さあ、帰りますわよ。アンナリーゼ様、夫が失礼を。この人、気が弱くて」
扇の先が戸口を示す。男爵は帽子を卓に置き、椅子の脚を鳴らして立ち上がる。
「……黙っていなさい。これは、私と娘のことだ」
「……あなたが、私に? 男爵家を救ったのは、私ですのよ。お忘れなの?」
笑みが消え、扇を握る手が白くなる。男爵は、その顔から目をそらさない。
「忘れては、おりません。……ですが、娘に払わせてよい借りでは、なかったのです」
「娘に? あの子のお金など、使っていませんわ!」
鋭くなった声が、開いた扉の向こうまで響く。男爵の唇が震える。
「お金では、なくて。お前を怒らせないようにと、娘ばかりに我慢をさせまして……」
「私が悪いとおっしゃるの? あなたも頷いていらしたでしょう!」
男爵が口を閉じかけ、帽子に置いた手を離す。
「……はい。悪いのは、黙っていた私も同じでして。娘には……そのことから、謝らなくては」
ジビュレ様の唇が動き、声にならずに閉じる。男爵が私へ向き直る。
「公爵夫人! お話の続きを……伺ってもよろしいでしょうか?」
「はい。お茶を、淹れ直させます」
ジビュレ様は扇を閉じ、黙って長椅子の端に腰を下ろす。扇の房だけが、衣装の上で揺れている。
淹れ直した茶の湯気が、卓の上に戻る。男爵は茶器を受け取り、まだ揺れる水面へ目を落とした。
「……娘に、手を引かせてほしいと頼んでみます。今度は、娘の返事を待ちます」
「はい。急がせずに、伺ってください」
男爵は頷き、菓子の皿へ目をやる。娘の好む味を話す声に、少しずつ張りが戻る。
「イルミナ様は、甘いものがお好きなのですね」
男爵が、目尻を下げる。
「はい。……母親に、似まして」
◇
夕方、男爵とジビュレ様の乗った馬車を見送ったあと、玄関の脇で足を止める。石畳の隙間に、白い小さな花が咲いている。昼の温かさを残す石に寄り添い、花びらだけが風に揺れる。
門をくぐったローラントの足音が、隣で止まる。
「おや? 何を見ている?」
「……白い小さな花が、好きです。名前は……知りませんが」
言い終えると、袖の縫い目をつまんでいる。
「では、探そう」
「探して、くださるのですか?」
「君が足を止めた花だ。私も、名前を知っておきたい」
ローラントが腰をかがめ、白い花をのぞく。上等な外套の裾が石畳に落ちても、直そうとしない。
「小さいな。こうして見なければ、通り過ぎてしまうところだ」
私も隣にしゃがむ。花を見る横顔が近い。つまんでいた袖を離すと、布の皺がゆっくり戻っていく。
「……ロ、ローラント。名前が分かったら、教えてくださいね」




